上山藩/松平家3万石:松平信庸 奥羽越列藩同盟に与して久保田藩を攻めた上山藩

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上山藩の歩み

上山藩は慶応四年(1868年)、戊辰戦争が始まると「奥羽越列藩同盟」に参加し総督「山村求馬」率いる洋式軍隊を出羽久保田藩に派兵します。しかし、山村求馬は出羽新庄藩の裏切りにより戦死してしまいます。その後は庄内藩と合流して久保田城へと進軍しました。

上山藩/松平家3万石:松平信庸【幕末維新写真館】

また、飛び地であった七日市が長岡の近所であったため北越戦争にも巻き込まれ、別働隊を長岡に派遣しました。米沢藩が新政府に恭順すると、背後からの攻撃を恐れて軍を引き上げ降伏恭順し、版籍奉還を迎えました。

上山藩をもっと深く—城を取り上げられた城主の家

元禄に、城が消えた

上山には立派な城がありました。三層の天守を備えた、羽州街道を押さえる城です。それが元禄年間、幕府の命で取り壊されました。藩がなくなったわけではありません。城だけが消えたのです。

以後、藤井松平家は二の丸に陣屋を構えて幕末まで続きました。城主の家格を持ちながら、城を持たありません。江戸幕府にとって城とは、大名が勝手に維持できるものではなく、許されて置かせてもらうものだった、という事実がここに出ています。幕末の上山にあったのは、城跡と陣屋です。

三万石が、戦争の口火の側にいた

慶応三年十二月、江戸の薩摩藩邸が焼き討ちされます。実行の主力は庄内藩だったが、江戸市中取締を分担していた上山藩もこれに加わりました。

この事件が、鳥羽・伏見の直接の引き金になります。羽州の三万石の藩が、戊辰戦争の最初の一発が撃たれる場所に居合わせていたことになります。歴史の大きな分岐点には、たいてい名前の知られていない小藩が居合わせています。

だから、同盟から抜けられなかった

焼き討ちに関わった以上、新政府から見れば上山藩は庄内藩と同罪です。奥羽越列藩同盟に加わり、庄内藩とともに久保田藩領へ攻め込んだのは、選択というより成り行きでした。

同じ村山・最上の地域でも、天童藩は勤王に傾いて藩内が割れ、新庄藩は新政府側についたために城を焼かれ、山形藩は右往左往しました。小藩には方針を選ぶ余裕がなく、どの隣人と縁が深いかで進む道が決まりました。上山藩の場合、それが庄内でした。

街道と、湯の町

上山は羽州街道の宿場であり、古くからの湯治場でもあります。参勤交代の大名行列も、出羽三山へ向かう旅人も、この町の湯に浸かっていきました。戦後、藩は消えたが宿場と温泉は残り、いまのかみのやま温泉になっています。

城のほうは、昭和になってから郷土資料館として天守の形をした建物が建てられました。元禄に壊された城が、二百九十年後に形だけ戻ってきたことになります。

同じころの出羽—芭蕉が歩いた道

奥の細道 上山藩に藤井松平家が入った元禄年間の少し前、元禄二年(1689)、俳人の松尾芭蕉は弟子の曽良とともに奥州・出羽を旅しました。『おくのほそ道』の旅です。芭蕉は山形の立石寺で「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠み、最上川を下って「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んでいます。

上山の町 上山は羽州街道の宿場町で、温泉の湧く城下町でもありました。芭蕉の旅のころから、出羽の街道筋には旅人が行き交い、温泉や寺社を訪ねる人々でにぎわっていました。上山城の跡はいまも月岡公園として整えられ、模擬天守が建てられています。

上山の現地を歩いた記録

上山藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

桶狭間の前哨戦で討死した祖先—上山の藤井松平家と、沢庵の三年

丸根砦で戦死した松平利長

上山藩の藤井松平家の祖は、松平長親の五男・松平利長です。三河国碧海郡藤井(いまの安城市藤井町)を領したことから「藤井松平家」と呼ばれます。利長は永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いの前哨戦にあたる丸根砦の攻撃で戦死しました。その子の信一は慶長六年(1601年)に常陸土浦三万五千石の大名になっています。家格は譜代で、江戸城では帝鑑間に詰める家です。

一度は改易、そして上山へ

藤井松平家は貞享二年(1685年)に下総古河九万石へ移りましたが、元禄六年(1693年)に当主の忠之が改易されます。家は備中庭瀬で再興を許され、元禄十年(1697年)に信通が出羽上山三万石へ移りました。上山の家が藤井松平家の本家で、信濃上田藩の松平家はその分家にあたります。

藤井松平家の前に—沢庵和尚を預かった土岐頼行

上山にはもう一つ、よく知られた話があります。寛永五年(1628年)に上山へ入った土岐頼行は、紫衣事件で流された禅僧・沢庵宗彭を寛永六年(1629年)から三年間預かり、手厚くもてなしました。沢庵が過ごした庵は「春雨庵」として昭和二十八年(1953年)に再建され、いまも上山市松山に残っています。頼行は槍術の一派、自得記流を始めた人でもありました。

維新の後—減封と、返上された爵位

奥羽越列藩同盟に加わった上山藩は、明治二年(1869年)に三万石から二万七千石へ減らされました。藩主の信庸は隠居し、異母弟の信安が跡を継いでいます。信安は明治十七年(1884年)に子爵となりましたが、明治四十一年(1908年)に爵位を返上しました。上山の武家屋敷通りには、宝永五年(1708年)ごろに建てられたとされる旧曽我部家など、中級武士の屋敷が四軒残っています。

三河以来の譜代だから抜けられなかった

桶狭間の前哨戦で討死した祖先を持つ家が、三百年後には戊辰戦争で負ける側に立つ。上山藩は、徳川家を最初から支えた三河以来の譜代だったからこそ、最後まで旧幕府側から抜けられなかったのだと思います。沢庵を手厚くもてなした土岐頼行の話と並べると、上山という小さな城下町が、江戸の権力から少し距離を置いた人を受け入れる場所でもあったことが見えてきます。

場所・アクセス・地図

〒999-3154 山形県上山市元城内3-7

出羽の城下町・上山

上山藩は、出羽国村山郡上山(現在の山形県上山市)に置かれた三万石の藩で、上山城を居城とし、藩主は藤井松平家でした。羽州街道の宿場町としても栄えた温泉の地で、山形盆地の南の入口を押さえる位置にありました。

奥羽越列藩同盟の一員として

戊辰戦争において上山藩は、東北・北越の諸藩が結んだ奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と対峙しました。同盟の一員として、隣接する久保田藩(秋田藩)への攻撃にも兵を出しています。しかし戦局が同盟側の不利に傾くと、上山藩もやがて新政府に恭順しました。東北の小藩が同盟のなかで戦い、そして力尽きていった過程を映す藩です。

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