【現地取材】鶴ヶ岡城と庄内藩校・致道館 ― 幕末最強の庄内藩、本間家の富と鬼玄蕃、そして西郷との縁

鶴岡公園の緑のなかに、酒井家の家紋を染めた白い幟(のぼり)が、雨あがりの参道にずらりと並んでいました。ここは鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)の跡――庄内藩十四万石・酒井家の居城です。そしてすぐ近くには、東北で唯一現存する藩校「致道館(ちどうかん)」が残ります。この城と学校を歩けば、「幕末最強」とうたわれた庄内藩の強さの秘密――豪商・本間家の財力、徹底した武芸と学問、そして鬼玄蕃こと酒井玄蕃の采配、さらには薩摩・西郷との不思議な縁までが見えてきます。今回は鶴ヶ岡城と致道館を、ひとつの記事にまとめて歩きます。

「鶴ヶ岡城のうつりかわり」復元図。もとは大宝寺城、最上氏を経て、酒井家が近世城郭として整えた。天守は上げず御三階櫓を構えた平城だった
「鶴ヶ岡城のうつりかわり」復元図。もとは大宝寺城、最上氏を経て、酒井家が近世城郭として整えた。天守は上げず御三階櫓を構えた平城だった
目次

鶴ヶ岡城と庄内藩酒井家 十四万石

鶴ヶ岡城は、もとは戦国期の大宝寺城(武藤氏の城)に始まり、最上義光の支配を経て、元和八年(1622)、信濃松代から酒井忠勝(さかいただかつ)が十四万石で入ってから、庄内藩の居城となりました。この酒井家は徳川四天王・酒井忠次の血を引く名門譜代で、以後 明治維新まで二百五十年、一度も国替えなくこの地を治めています。城は高い天守を上げず、本丸に御三階櫓を構えた質実な平城でした。筆者が立った本丸御殿御玄関跡の標柱が、藩主の館があった場所を今に伝えています。

「本丸御殿御玄関跡」の標柱。かつてここに藩庁を兼ねた藩主の御殿が建っていた
「本丸御殿御玄関跡」の標柱。かつてここに藩庁を兼ねた藩主の御殿が建っていた

酒田の本間家 ― 「殿様に」とうたわれた富

庄内藩の強さを語るうえで欠かせないのが、城下の外港・酒田の豪商本間家です。「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」と俗謡にうたわれたほどで、本間家は日本一の大地主とも称された、桁外れの富商でした。庄内藩の財政は、この本間家の力に大きく支えられていました。幕末、多くの藩が軍備の近代化に苦しむなか、庄内藩が最新式の洋式銃をそろえた強力な軍隊を編成できた背景には、この本間家の財力があったのです。武の強さの裏には、金の力がありました。

藩校 致道館 ― 徂徠学と庄内武士道

「国指定史跡 庄内藩校 旧致道館」の案内板。文化二年(1805)創設、明治六年の廃校までおよそ七十年、多くの人材を育てた
「国指定史跡 庄内藩校 旧致道館」の案内板。文化二年(1805)創設、明治六年の廃校までおよそ七十年、多くの人材を育てた

強さのもう一つの柱が、人を育てる力でした。案内板によれば、致道館は文化二年(1805)、九代藩主・酒井忠徳(ただあり)が「士風を刷新して藩政の振興を図る」ために創設した藩校です。当初は鶴岡駅前通りにありましたが、政教一致の趣旨から、文化十三年(1816)、十代・忠器(ただかた)が鶴ヶ岡城の三の丸(現在地)へ移しました

致道館の教えの根本は、荻生徂徠の学問「徂徠学(そらいがく)」。孝悌忠信を重んじ、生徒の自主性・自学自習を尊ぶ校風で、庄内武士道の根源を培い、明治六年(1873)の廃校まで約七十年、多くの人材を世に送り出しました。廃校後は県庁や小学校などにも使われ、昭和二十六年(1951)に国の史跡に指定されています。東北に唯一現存する藩校建築であり、掲げられた「致道」の扁額の堂々たること。学びの場の気迫が、いまも建物に宿っていました。

講堂に掲げられた「致道舘」の扁額。『論語』の「君子は学びて以て其の道を致す」に由来する名だという
講堂に掲げられた「致道舘」の扁額。『論語』の「君子は学びて以て其の道を致す」に由来する名だという

幕末最強・庄内藩と、鬼玄蕃

財力と教育に支えられた庄内藩の実力が、幕末に爆発します。じつは庄内藩は、慶応三年末の江戸・薩摩藩邸焼き討ちを実行した藩――つまり新政府にもっとも憎まれた藩でした。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の中核となると、新政府軍は真っ先に庄内を叩こうとします。

ところが庄内藩は、めっぽう強かった。なかでも二番大隊を率いた酒井玄蕃(さかいげんば/諱は了恒)は、清川・新庄から秋田(久保田)方面へと転戦し、ほとんど負け知らずの連戦連勝を重ねました。しかも玄蕃は軍規が厳正で、占領地でも略奪や乱暴を固く戒めたため、敵地の民からもかえって慕われたといいます。恐れられつつ敬われた彼は、いつしか「鬼玄蕃(おにげんば)」と呼ばれるようになりました。庄内藩は最後まで自国に敵を入れず、会津・米沢・仙台が降伏して孤立したのち、慶応四年(1868)九月にようやく矛を収めます。城は戦火を受けずに済みました。

薩摩・西郷との、不思議な縁

筆者が挙げた「庄内藩と薩摩・西郷の関連」は、幕末史でも屈指の“いい話”です。薩摩藩邸を焼き、最後まで抵抗した庄内藩には、当然きびしい処分が下ると思われました。ところが実際の処分はおどろくほど寛大で、藩地の没収も藩主の死罪もありませんでした。その背後に西郷隆盛の意向があったと伝わります。

この恩義に庄内藩士は深く感激し、敵将だったはずの西郷を心から敬慕するようになります。家老・菅実秀(すげさねひで)は西郷と親交を結び、庄内の若者は遠く鹿児島へ西郷を訪ねて教えを乞いました。そして庄内藩士たちは、西郷から聞いた教えを『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』として一冊にまとめ、全国に広めたのです。江戸で薩摩藩邸を焼いた敵同士が、維新のあとに固い師弟の絆で結ばれる――鶴ヶ岡城下には、そんな数奇な物語が流れています。

城跡の今 ― 鶴岡公園を歩く

鶴ヶ岡城の水堀。本丸・二の丸を囲む堀が今もめぐり、桜の名所として知られる
鶴ヶ岡城の水堀。本丸・二の丸を囲む堀が今もめぐり、桜の名所として知られる
二の丸の角櫓跡に残る石垣。天守のない城ながら、要所はしっかりと石で固められていた
二の丸の角櫓跡に残る石垣。天守のない城ながら、要所はしっかりと石で固められていた

いま城跡は鶴岡公園として整備され、本丸跡には歴代藩主をまつる荘内神社が鎮座しています。水堀と石垣、そして酒井家の幟がはためく参道――派手さはありませんが、譜代の名門らしい落ち着いた品格が漂う場所でした。雨に濡れた新緑の下を歩きながら、「幕末最強」と呼ばれた藩の芯の強さと、そのあとの西郷との縁に思いをはせる。趣と歴史の両方を、たっぷり味わえる城跡です。

場所・アクセス・地図

鶴ヶ岡城跡(鶴岡公園)・旧庄内藩校致道館 所在地:山形県鶴岡市馬場町。JR鶴岡駅からバス約10分。本丸跡に荘内神社、三の丸跡に致道館、周辺に致道博物館・大宝館などがある。

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