山形県寒河江市の市街地に、寒河江城跡があります。天守はもちろん、櫓も門も石垣もありません。あるのは説明板と、石碑と、小さな太鼓橋のかかった水面だけ。正直に書けば、城好きが遠くから足を運ぶ場所ではないかもしれません。
それでも、この城跡は幕末の記事として書く価値が十分にあります。理由は最後にわかります。まずは説明板から。

大江広元の子孫が、十八代ひらいた城
説明板によれば、寒河江城は室町・戦国時代の寒河江大江氏の居城。三重の堀と土塁に囲まれた連郭式の方形城館でした。
面白いのは、天正四年(1576)の作とされる『寒河江大江城古絵図』の中身が紹介されていることです。主郭には「最上寒河江城本丸」とあり、二の郭には高松左門・小泉弥八郎・小野七兵衛・片桐助兵衛といった重臣の屋敷、そして城主の奥方の屋敷「御北(おきた)」が並んでいた。さらに東北の鬼門を守る位置に惣持寺が配されています。四百五十年前の屋敷割りが、名前つきでわかるわけです。
城の外にも設計が及んでいます。三の郭の西門から伸びる東西の道に「西町」「上町」「横町」といった町場が造られ、三の郭や城の周辺には家臣団が集まって住んだ。そして——ここが後で効いてきます——城域の西端にあたる長岡山には、鎌倉から勧請した「寒河江八幡宮」が位置すると記されています。

もう一枚の解説板が、この城の血筋を教えてくれます。寒河江大江氏は大江広元——源頼朝のもとで鎌倉幕府の政所別当をつとめた、あの広元の子孫です。八代当主・時氏の代に二の丸・三の丸まで拡張され、南北約550メートル、東西約400メートルの城になったといいます。
そして昭和十五年(1940)に建てられた「寒河江城跡碑」には、こう刻まれているそうです。大江氏が十八代にわたってこの地を治めたこと。天正十二年(1584)に最上義光に敗れてから三百五十年余を経た当時もなお城跡が随所に残り、昔の様子をしのばせること。そして史跡が埋もれていくことを憂い、石碑を建てて長く記念する、と。
鹿島でも同じ構図に出会いました。城を失った土地の子孫が、消えていく記憶を石に留めようとする。碑を建てるという行為そのものが、近代日本の副産物なのだと思います。
城が消えたあと、この土地に残ったもの


寒河江城の終わりは二段階でした。天正十二年(1584)に最上義光に落とされて大江氏の時代が終わり、さらに元和九年(1623)、二の堀と三の堀が埋められて廃城となります。以後、この地に城はありません。幕末の寒河江に「城」は存在しない——これは正直に書いておきます。
いま城跡に立つと、標柱と碑、そして水をたたえた細い堀跡があるだけです。周囲は普通の市街地で、案内板の背後を車が走り、バイク店の看板が見えます。史跡というより、町の一角に残された余白という感じでした。

ただし、城が無くなっても土地の骨格は残ります。町場の区割り、街道の走り、そして西端の長岡山。この地形が、二百四十年あとに軍事的な意味をもう一度持つことになりました。
そして城の西端が、幕末最後の戦場になった
ここからが本題です。
戊辰戦争の終盤、明治元年(1868)九月二十日。この寒河江が戦場になりました。
当時この地に宿陣していたのは桑名藩軍です。桑名藩は宇都宮城の戦いにも加わっていた部隊で、江戸を出て北関東を転戦し、会津を経て、この出羽まで来ていました。すでに藩も国も失い、それでも戦い続けている集団です。そこには唐津藩士も加わっていました。
そこへ、長崎(現在の中山町長崎)方面から新政府軍が進撃してきます。参謀は黒田清隆、先鋒は米沢藩の上杉茂憲。そして——主力の薩摩藩を率いていたのは、西郷隆盛でした。
払暁、朝食の最中に
攻撃は払暁でした。寒河江に到達した新政府軍は、朝食の最中だった桑名兵と庄内兵を急襲します。
不意を突かれた桑名藩軍で応戦したのが、立見鑑三郎(尚文)率いる雷神隊と松浦秀八率いる致人隊でした。立見尚文——のちに陸軍大将まで昇る、旧幕府方屈指の戦術家です。それでも圧倒的な兵力の前に徐々に押され、長岡山へ後退。庄内兵もすぐに西北の長岡山へ引き上げており、両者はここで合流して徹底抗戦しました。
その長岡山こそ、説明板が「城域の西端」として挙げていたあの場所です。
寒河江大江氏が城の西の守りとし、鎌倉から八幡宮を勧請した丘。城が消えて二百四十年以上たったあと、その丘に、三重県から来た藩兵と庄内の兵が拠って、薩摩と米沢の軍を迎え撃った。城は無くなっても、その土地がなぜ城だったのかという理由のほうは、地形として生き残っていたわけです。城跡を歩いて、いちばん強く感じたのはこの一点でした。
午後になると連合軍は包囲されます。しかし包囲網を突破し、白岩の陣ヶ峯では寒河江川を挟んで約二時間の銃撃戦。最終的に彼らは幸生(さちう)から十部一峠を越えて、肘折へ抜けていきました。そして、ほどなく降伏を申し出ます。
戦死者を葬ったのは、寒河江の寺だった
戦いのあと、寒河江に残されたのは桑名藩兵の遺体でした。
これを陽春院十九世・薩雲大観和尚が引き取ります。ねんごろに回向し、境内の地蔵尊の裏に一括して入棺して厚く葬った、と伝わります。敵味方の別で言えば、寒河江は新政府軍が進んできた側の土地です。それでも寺は、よその国から来て死んだ若者たちを弔いました。
墓が建てられたのは明治六年と明治八年。そして昭和三十八年(1963)、桑名市から遺族が寒河江を訪れ、分骨式が行われています。戦いから九十五年後に、故郷がようやく迎えに来たわけです。
そして西郷は、このあと鶴岡へ向かう
もうひとつ、書き落とせない後日談があります。
寒河江で庄内勢を追い詰めた新政府軍の主力は、西郷隆盛の薩摩でした。そしてこのあと庄内藩が降伏すると、西郷が示したのは意外なほど寛大な処分でした。城の受け取りは略式、藩士の帯刀も許され、藩主の身柄も丁重に扱われる。この処置に感じ入った庄内の人々——とりわけ菅実秀——が西郷と親交を結び、のちに『南洲翁遺訓』としてその言葉をまとめることになります。
寒河江の朝、西郷はまだ「敵」でした。それが数か月のうちに、庄内にとって生涯敬慕する相手に変わる。この落差の起点のひとつが、この城跡の西の丘だったと思うと、何もない市街地の風景が急に厚みを持って見えてきます。
御朱印から始まった、思いがけない縁
最後に、史実とは関係のない話をひとつ。
城跡を歩いたあと、すぐ近くのお寺で御朱印をいただきました。応対してくださったのはその寺の住職の方で、書いていただくあいだに少し言葉を交わすうち、これが思いがけず話がはずみました。城のこと、町のこと、なぜ東京から来たのか。気づけばずいぶん長く立ち話をしていました。
そしてその日かぎりで終わらなかった。いまも山形と東京で、定期的に連絡を取り合う間柄が続いています。
史跡めぐりを長く続けていると、こういうことがときどき起きます。建物は残っていない、遺構もほとんどない、資料館もない。それでもその土地には人が住んでいて、寺があって、誰かが日々そこを守っている。寒河江城跡から持ち帰ったいちばん大きなものは、正直に言えば石碑の写真ではなく、この縁のほうでした。
思えば、桑名藩兵を葬ったのも寒河江の寺でした。よそから来た人間を受け入れて、きちんと向き合ってくれる。この土地はずっとそういう場所なのかもしれません。
歩いてみて
「寒河江城跡で幕末の記事が書けるか」と聞かれたら、答えは書けるです。しかも、山形をめぐってきた記事のなかで、これがいちばん締めくくりにふさわしいかもしれません。
上山は江戸で薩摩藩邸を焼き、山形は家老が命と引き換えに城下を守り、新庄は同盟を離れて城を焼かれ、庄内は最後まで勝ち続けて降伏した。そして寒河江では、故郷を失った桑名の兵が、四百年前の城の西端で最後の抵抗をした。
山形という土地の幕末は、藩ごとにこれだけ違う顔をしています。そのどれもが、城の有無とは関係のないところで起きていました。城跡に何も残っていないことは、そこで何も起きなかったことを意味しない——それを一番はっきり教えてくれたのが、この寒河江城跡でした。
アクセスと地図
寒河江城跡/山形県寒河江市丸内。市街地のなかにあり、説明板・寒河江城跡碑・「史蹟寒河江城址」の標柱、そして堀跡の水面が見どころです。所要は十五分ほど。JR左沢線の寒河江駅から歩ける距離で、周辺には寒河江八幡宮や慈恩寺など、あわせて回れる寺社が多くあります。御朱印をいただける寺も近くにあるので、御朱印帳を持って行くのがおすすめです。
長岡山/寒河江市の西端、長岡山運動公園一帯。戊辰の戦場となった丘で、寒河江八幡宮もこの山にあります。城跡から車ですぐ。桜の名所としても知られます。

