2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
明治22年(1889)2月11日の朝、大日本帝国憲法が発布されるまさにその日に、初代文部大臣・森有礼が東京・永田町の文部大臣官邸で刺されました。森は翌12日に亡くなります。刺したのは、旧長州藩の下級武士の家に生まれた20代の青年・西野文太郎でした。西野はその場で護衛に斬られ、命を落としています。
薩摩藩の英国留学生として西洋を学び、日本の学校制度をつくった森は、なぜ憲法発布の朝に狙われたのか。事件と、その後の世の中の反応をたどります。
先に答え—森有礼暗殺とは
| いつ | 明治22年(1889)2月11日の朝。大日本帝国憲法が発布された日。森は翌12日に死去 |
|---|---|
| どこで | 東京・永田町の文部大臣官邸 |
| 誰が | 西野文太郎。旧長州藩士の家の出で、山口県士族。内務省に勤めていました |
| 誰を | 初代文部大臣・森有礼(数え43歳) |
| なぜ | 森が伊勢神宮で不敬なふるまいをした、といううわさを信じたため |
| その後 | 西野はその場で護衛に斬られて死亡。世間には西野に同情する声が広がり、墓には多くの人が参りました |
森有礼とはどんな人だったのか
森有礼は弘化4年(1847)、薩摩藩士の家に生まれました。慶応元年(1865)、藩がひそかに送り出した英国留学生の一人としてロンドンに渡り、さらにアメリカでも学びます。幕末に西洋を直接見た、数少ない若者の一人でした。
明治になると外交官としてアメリカに赴任し、帰国後の明治6年(1873)には、福沢諭吉や西周らと「明六社」をつくって、新しい思想や制度を世に紹介しました。明治18年(1885)、伊藤博文の内閣で初代の文部大臣となり、帝国大学令・小学校令・中学校令・師範学校令などを定めて、日本の学校制度の骨組みをつくります。
一方で、若いころには「廃刀」を唱え、英語を国語にしてはどうかと論じたとも伝えられるなど、西洋寄りの急進的な人物として、保守的な人びとから強い反感を持たれていました。
なぜ森は狙われたのか—伊勢神宮のうわさ
事件の前、森が伊勢神宮に参拝した際に、靴のまま拝殿に上がった、ステッキで御簾をあげて中をのぞいた、といったうわさが新聞などで広まりました。これが本当にあったことかどうかは、はっきりしません。
しかし、天皇と国の神を重んじる人びとにとって、このうわさは許しがたいものでした。西野文太郎は、森が神宮を汚したと信じ、憲法発布という国の晴れの日に、森を討つことを決めたとされます。
永田町の官邸で何が起きたのか

2月11日の朝、森は憲法発布の式典に向かうため、官邸で身支度をしていました。そこへ西野が訪ね、「大臣に急ぎ伝えたいことがある」と面会を求めます。玄関先に出てきた森に、西野は隠し持っていた出刃包丁で切りつけ、腹を刺しました。
西野はその場で、森の護衛の者に斬られて死にました。森は深い傷を負い、翌12日に亡くなります。憲法の発布を祝う式典が行われている、まさにその日の出来事でした。
西野文太郎とはどんな人物か
西野文太郎は、長州藩の下級武士の家に生まれました。明治になってからは山口県士族として東京に出て、内務省の土木局に勤めていたといわれます。写真も残っていて、まだ若さの残る青年の姿が伝わっています。
西野が持っていた斬奸状には、森が神宮に対して不敬なふるまいをしたことを責める言葉が書かれていました。若い下級武士の子が、国の大臣を一人で襲ったこの事件は、幕末の「天誅」の考え方が、明治の半ばになってもなお生きていたことを示しています。
事件のあと—犯人に集まった同情
事件のあと、新聞の中には西野を「憂国の士」としてたたえる論調もあり、谷中霊園に葬られた西野の墓には、多くの人が花や線香を手向けたといわれます。暗殺された大臣よりも、暗殺した若者に同情が集まったのです。
政府の要人を襲う者が英雄のように扱われる空気は、このあとも消えませんでした。同じ年の10月には、外務大臣・大隈重信が爆弾を投げつけられて片足を失う事件も起きています。桜田門外の変から始まった「暗殺で政治を動かす」という考え方は、近代国家になってもなお根強く残っていました。
暗殺場所とゆかりの地
- 暗殺の場所(文部大臣官邸跡)(東京都千代田区永田町):当時の官邸は残っていません。
- 森有礼の墓(東京都港区、青山霊園)
- 西野文太郎の墓(東京都台東区、谷中霊園):事件のあと、多くの人が参ったといわれます。
- 森有礼生誕の地(鹿児島市):薩摩藩英国留学生の記念碑「若き薩摩の群像」(鹿児島中央駅前)にも、森の姿があります。
▶ この事件を起こした側の人物
- 西野文太郎とは何をした人物か—憲法発布の朝に森有礼を刺した長州出身の青年
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝(この記事)
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
✎ 筆者のひとこと
憲法が発布され、日本が近代国家として歩き出したその朝に、文部大臣が刺されました。しかも犯人が英雄のように扱われたことに、当時の世の中の空気が表れていると思います。


