小栗上野介(小栗忠順)が生きていたら—明治政府に入ったのか。大隈重信の言葉、東郷平八郎の礼、生き残った幕臣の道から考える

江戸城の大広間で、地図を指さして若い将軍に作戦を説く幕臣のイラスト

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

小栗上野介(小栗忠順)は、慶応四年閏四月六日(1868年5月27日)、四十二歳で斬られました。明治という時代を、一日も生きていません。

では、もし生きていたら、小栗は何をしていたのでしょうか。歴史に「もし」はありません。けれども、考える手がかりは意外に多く残っています。同じ時代の人が小栗について残した言葉、小栗が死ぬ直前に考えていたこと、そして同じように幕府に仕え、明治を生き延びた幕臣たちの歩いた道です。

この記事では、それらを並べて、「小栗が生きていたら」をできるだけ根拠のある形で考えてみます。

目次

小栗上野介が生きていたら?—先に答え

いちばんありそうなのは、数年の謹慎ののち、明治政府に呼ばれて財政・造船・工業の実務を任される道です。榎本武揚や大鳥圭介のように、新政府と戦った幕臣でさえ、のちに大臣や公使になっています。小栗は新政府と戦ってもいません。

一方で、栗本鋤雲のように仕官を断り、民間で生きた可能性もあります。小栗には三井の大番頭・三野村利左衛門という強い味方がいました。

確かなのは、小栗が始めた横須賀の造船所を、明治政府がそのまま引き継いで使ったことです。大隈重信は「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」と語ったと伝えられています(出典がはっきりしない言葉なので、扱いには注意が要ります)。

小栗は「明治」を目前にして斬られました

まず、小栗がどこで人生を終えたかを確かめておきます。

慶応四年正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った徳川慶喜に、小栗は徹底抗戦を説きました。慶喜はこれを退け、小栗は正月十五日に罷免されます(小栗忠順の罷免とは)。

小栗は帰農を願い出て許され、二月末に江戸を出て、知行地の上野国群馬郡権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町)へ移りました。村の観音山に家を建て、そこで暮らすつもりだったことが分かっています。彰義隊の隊長に推されても断っています。

つまり、小栗は「これから新政府と戦う人」ではありませんでした。戦わないと決めて、山あいの村に引っ込んだ人です。それでも閏四月六日、東山道総督府の軍監によって、取り調べもないまま烏川の水沼河原で斬られました(小栗上野介はなぜ斬られたのか)。

江戸が「東京」と改められたのは、その三か月あまり後のことです。明治への改元は、さらにその後でした。

手がかり1|同じ時代の人は、小栗をどう見ていたか

大隈重信の言葉(と伝わるもの)

小栗を語るとき、よく引かれるのが大隈重信の「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」という言葉です。群馬県立図書館の小栗上野介関連資料の展示目録にも、この言葉が紹介されています。

ただし、大隈がいつ、どこで、どういう形でこう語ったのかを示す一次資料は、はっきりしません。この記事では「そう伝えられている」という扱いにとどめます。

それでも、大隈と小栗家の縁は確かです。小栗の遺児・国子は、明治十八年に大隈家の養女となり、翌年に婿を迎えて小栗家を継いでいます。大隈が小栗の仕事を高く買っていたことは、この縁からもうかがえます(小栗忠順の遺児と子孫)。

東郷平八郎の礼

日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎は、のちに小栗の遺族を招き、勝てたのは小栗が横須賀に造船所を造っておいてくれたおかげだ、と礼を述べたと伝わります。

この話も、台詞そのものを書き留めた当時の記録は確認できていません。ただ、東郷が「小栗又一君」に宛てて揮毫した書が残っていて、いまは東善寺に掲げられています。東郷と小栗家に交流があったこと自体は、物証で確かめられます。

敵の側からの評価

小栗が慶喜に説いた作戦(箱根で官軍を止め、艦隊で駿河湾を押さえて挟み撃ちにする)を後で聞いた新政府軍の大村益次郎が、「実行されていたら我々の首はなかった」という意味のことを言ったという話も、よく知られています(小栗忠順とは何をした人か)。

いずれも伝承を含みますが、明治の指導者たちが「小栗の仕事の上に自分たちは立っている」と感じていたことは、繰り返し語られてきました。

手がかり2|生き残った幕臣たちは、明治をどう生きたか

小栗と同じように幕府に仕え、明治を生きた人たちの道を並べてみます。小栗が生きていたら、このどれかに近い道を歩いたはずです。

人物幕府での立場明治での道
勝海舟軍艦奉行、陸軍総裁新政府に出仕し、海軍卿・参議。のち伯爵、枢密顧問官
榎本武揚海軍副総裁。箱館で新政府と戦う投獄ののち赦され、北海道開拓使に出仕。駐露公使、逓信・文部・外務・農商務の大臣を歴任
大鳥圭介歩兵奉行。箱館で戦う赦されて工部省へ。工部大学校長、駐清公使
渋沢栄一慶喜の家臣。パリ万博使節団に随行大隈重信の誘いで大蔵省へ。のち民間で第一国立銀行など五百の会社に関わる
前島密幕臣新政府に出仕し、郵便の制度をつくる
栗本鋤雲外国奉行など。小栗の盟友新政府には仕えず、新聞記者(『郵便報知新聞』)として生きる

新政府と刀を交えた榎本や大鳥でさえ、数年で赦され、国の中枢で働いています。新政府がほしかったのは、西洋の技術と行政を知る実務家でした。その意味で、小栗ほど「使える」人はいなかったはずです。

渋沢栄一は、パリへ発つ前の慶応三年に小栗と会っていたとされます(小栗忠順は渋沢栄一に何を教えたのか)。明治の大蔵省に入った渋沢が、小栗の仕事のどこを引き継いだのかを考えるのも、ひとつの「もしも」の手がかりになります。

手がかり3|小栗がやりかけていたこと

小栗が幕府でやりかけていた仕事は、ほとんどが明治政府に引き継がれています。生きていたら、自分の手で仕上げたかもしれない仕事です。

小栗が始めたこと明治にどうなったか
横須賀製鉄所(造船所)新政府が引き継いで横須賀造船所に。ヴェルニーらフランス人技師もそのまま残り、明治四年にドライドックが完成。いまも米海軍の基地で使われています(横須賀製鉄所とは)
兵庫商社(日本初の株式会社とされる)半年で消えたが、株式会社という仕組みは明治に広がる(兵庫商社とは)
郡県制の構想明治四年の廃藩置県で、藩をなくし県を置く形で実現
フランス式の陸軍明治の陸軍も、はじめはフランス式で整えられる
中小坂鉄山での製鉄上州で鉄をつくる試み。近代の製鉄は明治に官営で進められる(中小坂鉄山とは)

財政、造船、製鉄、会社、軍制。明治のはじめに新政府が取り組んだことの多くに、小栗の名前がすでに書き込まれていました。大隈の言葉が、出典があいまいなまま繰り返し引かれてきたのは、この表のような事実があるからでしょう。

考えられる三つの道

道1|明治政府に出仕する

いちばん可能性が高いのは、この道です。数年の謹慎ののち、大蔵省や工部省、あるいは海軍に呼ばれ、財政や造船の実務を任される。榎本の例を見れば、大臣になっていても不思議ではありません。

ただ、小栗は上役にも遠慮なく意見を言い、意見が通らなければ職を辞してきた人です。勘定奉行に四度就いたのは、四度辞めて四度呼び戻されたということでもあります(小栗忠順の役職一覧)。薩長の政治家たちと、どこまで折り合えたかは分かりません。

道2|民間で事業を起こす

小栗には、三井の大番頭・三野村利左衛門という、深い恩を感じている味方がいました。三野村は小栗の死後、遺族の暮らしを最後まで支えています(三野村利左衛門とは)。

兵庫商社で株式会社を試した小栗が、三井と組んで会社を起こしていたら。渋沢栄一より先に「日本の資本主義の父」と呼ばれていたかもしれません。

道3|権田村で暮らし続ける

小栗自身が選んだのは、この道でした。観音山に家を建て、村で暮らすつもりでした。新政府に仕えることを拒み、栗本鋤雲のように書き物をして生きた可能性もあります。小栗は旅のあいだも日記をつけていた人です。生きていれば、幕末の内側を書いた回想録が残り、いまの私たちの幕末史はずいぶん違うものになっていたでしょう。

生きていたら、何歳まで?

小栗は文政十年(1827年)の生まれです。同じ年ごろの人と比べると、明治の時間の長さが見えてきます。

  • 西郷隆盛(1828年生まれ)は明治十年、西南戦争で亡くなりました。
  • 勝海舟(1823年生まれ)は明治三十二年まで生きました。
  • 小栗を斬った側の軍監・原保太郎(1847年生まれ)は、昭和十一年まで生きています(原保太郎とは)。

勝と同じくらい生きていれば、小栗は明治の三十年間を丸ごと見たことになります。横須賀で造られた軍艦が日清・日露の戦争に出ていくのを、自分の目で見たかもしれません。

まとめ

小栗上野介が生きていたら、という問いに、確かな答えはありません。けれども、次のことは言えます。

  • 小栗は新政府と戦わず、村に引っ込んでいた。生かしておいても、新政府には何の害もなかった。
  • 新政府と戦った榎本武揚や大鳥圭介でさえ、のちに国の要職に就いた。
  • 小栗が始めた横須賀の造船所や会社、郡県制の考えは、明治政府がそのまま引き継いだ。

だからこそ、小栗の死は「惜しまれる死」として語られ続けてきました。昭和七年、最期の地に「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻んだ碑が建てられたのも、その思いの表れです。

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で小栗の最期が描かれるとき、「この人が明治を生きていたら」と考えながら見ると、物語がいっそう深く見えてくるはずです。

あわせて、小栗が採らせようとした作戦の「もしも」は、【幕末のもしも】小栗忠順の作戦が採用されていたらで考えています。

小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

小栗忠順をもっと知る本

記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。

2027年NHK大河ドラマ

『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集

放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。

▶ 『逆賊の幕臣』特集を見る

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この記事の情報源

群馬県立図書館「小栗上野介忠順—開国・近代化の先覚者」展示資料リスト(大隈重信の言葉の紹介)、高崎市「大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公 小栗上野介忠順」、東善寺の寺伝、当サイトの小栗関連記事(各記事の参考資料を参照)。大隈重信・大村益次郎・東郷平八郎の言葉は、いずれも出典となる一次資料が確認できない伝承として扱っています。人物の経歴は各種人名辞典によります。

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