建部政醇とは何をした人物か—小栗忠順の義父、国学を学んだ林田藩主

陣屋の書院で娘からの手紙を読む林田藩主・建部政醇のイラスト

この記事で紹介する建部政醇は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

建部政醇は、播磨国林田藩(いまの兵庫県姫路市林田町)の八代藩主です。小栗忠順の妻・道子の父で、小栗にとっては義理の父にあたります。一万石の小さな大名でしたが、国学を学び、藩士の子どもたちの教育に力を入れました。嘉永二年(1849年)に隠居してからも長く生き、明治八年(1875年)、数え八十一歳で亡くなっています。娘婿の小栗が斬られてから、七年後のことでした。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、飯尾和樹さんが演じます。

目次

建部政醇とはどんな人か

  • 家:播磨国林田藩一万石の建部家。七代藩主・建部政賢の四男
  • 藩主:文化九年(1812年)、父の隠居を受けて八代藩主に。官位は従五位下・内匠頭
  • 幕府の役:大番頭(1830年)、奏者番(1841〜46年)
  • 学問:国学者の清水浜臣に学び、藩士の子弟の教育に力を入れる
  • 子:娘の道子が小栗忠順の正室。別の娘はつ子の子が、のちに『小栗上野介』を書く蜷川新
  • 最期:嘉永二年(1849年)に隠居して聖岡と号す。明治八年(1875年)死去。墓は京都・大徳寺の芳春院

林田藩と建部家

林田藩は、姫路の北西にあった一万石の小さな藩です。藩を開いた建部政長は、姫路藩主・池田輝政の一族にあたり、伯父の池田重利(播磨新宮藩の祖)とともに大坂の陣で手柄を立てて大名に取り立てられました。元和三年(1617年)に林田へ移ってから、建部家は一度も国替えされることなく、明治まで十代にわたって林田を治めています。藩の歩みについては林田藩のページにまとめています。

国学を学んだ藩主

政醇は文化九年(1812年)、父の政賢の隠居を受けて藩主となりました。幕府では大番頭や奏者番を務めています。

政醇は学問を好み、江戸の国学者・清水浜臣に学びました。藩では学者の石野充蔵を招いて藩士の子どもたちの教育にあたらせています。藩の医師だった辻元崧庵は、のちに幕府の医学館で講義をし、将軍の侍医にまでなりました。小さな藩から、学問で名を上げる人が出たことになります。

娘・道子と小栗忠順

政醇の娘の道子は、旗本・小栗家の跡取りだった小栗忠順に嫁ぎました。二千七百石の旗本と、一万石の大名の娘の縁組みです。大河の発表では、道子(みち)は「珍しい物や道具を好み、記録と帳簿の管理が得意」と紹介されています。演じるのは上白石萌音さんです。

政醇は嘉永二年(1849年)に家督を長男の政和に譲って隠居し、聖岡と号しました。娘婿の小栗が遣米使節としてアメリカへ渡り、横須賀に造船所をつくり、勘定奉行として幕府を支えた日々を、政醇は隠居の身で見守ったことになります。

慶応四年(1868年)閏四月、小栗は上州の権田村で斬られます。身重だった道子は、家臣たちに守られて会津へ逃れ、そこで娘を産みました(小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのか)。政醇がこの知らせをどう受け止めたのかを伝える記録は、見つけられていません。

孫の蜷川新と『小栗上野介』

政醇の別の娘・はつ子は、旗本の蜷川家に嫁ぎました。その子が、明治から昭和にかけて活躍した国際法学者の蜷川新です。蜷川は、叔母の夫にあたる小栗忠順の名誉回復に力を尽くし、『小栗上野介』などの本を書いて、「罪なくして斬られた」小栗の姿を世に伝えました。政醇の孫が、小栗の再評価の旗振り役になったことになります。小栗の再評価の歩みは小栗忠順はいつ再評価されたのかをご覧ください。

明治まで生きた藩主

林田藩は戊辰戦争では早くから新政府に従い、明治四年(1871年)の廃藩置県を迎えます。政醇は明治八年(1875年)、数え八十一歳で亡くなりました。墓は京都・紫野の大徳寺の塔頭、芳春院にあります。

大河『逆賊の幕臣』の建部政醇

演じるのは飯尾和樹さんです。第六弾の「小栗家・勝家ゆかりの人々」として、勝海舟の妻・たみ(瀧内公美さん)、小栗の養子・忠道(齋藤潤さん)、従者の荒川祐蔵(草川拓弥さん)、権田村の名主・佐藤藤七(甲本雅裕さん)らとともに発表されました。娘を旗本に嫁がせた大名の父として、小栗家の場面に登場しそうです。

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参考資料:Wikipedia日本語版「建部政醇」「林田藩」、姫路市の公開資料、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

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