慶応四年(1868)正月三日、京都の南の鳥羽と伏見で、旧幕府軍と薩摩・長州を中心とする新政府軍の戦いが始まりました。戊辰戦争の始まりです。新選組はこの戦いで伏見奉行所に陣取り、四日間の戦いのなかで、京都以来の仲間を何人も失いました。この記事では、鳥羽伏見の戦いでの新選組をたどります。
鳥羽伏見の新選組(年表)
| 日付 | できごと |
|---|---|
| 慶応三年十二月 | 王政復古ののち、新選組は伏見奉行所に入る。十二月十八日、近藤勇が伏見街道で御陵衛士の残党に撃たれ、右肩に重傷を負う。近藤は大坂へ移って療養し、隊の指揮は土方歳三がとる |
| 一月三日 | 鳥羽と伏見で戦いが始まる。伏見奉行所の新選組は、高台の御香宮に陣取った薩摩の砲撃を受け、夜には奉行所が燃え落ちる |
| 一月四日 | 旧幕府軍は淀方面へ退く |
| 一月五日 | 淀千両松の戦い。井上源三郎が戦死する。敗れた旧幕府軍は淀城に入ろうとするが、淀藩に拒まれる |
| 一月六日 | 橋本の戦い。対岸の山崎を守っていた津藩(藤堂家)が新政府側について旧幕府軍を砲撃し、旧幕府軍は大坂へ退く |
| 一月六日夜 | 将軍・徳川慶喜が大坂城を抜け出し、軍艦で江戸へ向かう |
| 一月中旬 | 新選組も幕府の軍艦(富士山丸など)で江戸へ引き上げる |
最初の砲声が響いたのは、鳥羽街道が鴨川を渡る小枝橋のあたりでした。大目付の滝川具挙が「朝廷の命で上京するのだから通せ」と迫り、薩摩藩兵が「許しが出るまで待て」と押しとどめる押し問答が続いた末、夕方に薩摩の砲が火を噴きます。

伏見奉行所の戦い
一月三日の夕方、鳥羽街道で戦いが始まると、伏見でも砲声が響きました。伏見奉行所のすぐ近くの高台には御香宮があり、そこに陣取った薩摩の砲兵が奉行所を見下ろして撃ち込みます。新選組は斬り込みで応じましたが、新しい銃砲の前に押し返され、奉行所は火に包まれました。
「これからの戦は、刀や槍では役に立たない」—のちに土方歳三がこう語ったと伝わるのは、この戦いのことだといわれます。
淀千両松—井上源三郎の死
一月五日、旧幕府軍は淀川の堤の細い道、千両松で新政府軍を迎え撃ちました。激しい戦いのなかで、試衛館以来の古参・井上源三郎が腹に銃弾を受けて戦死します。四十歳でした。なお井上家に伝わる記録では、戦死は一月四日とされています。
甥で当時十二歳(数え)の井上泰助は、叔父の首と刀を持ち帰ろうとしましたが、重くて運びきれず、ほかの隊士に諭されて近くの寺の境内に埋めたと伝えられます。埋めた場所は今も特定されていません。
敗れた兵は淀城に逃げ込もうとしました。しかし淀藩は門を開きませんでした。藩主の稲葉正邦は老中の職にあって江戸にいましたが、城を守っていた国元が入城を拒んだのです(淀藩/稲葉家)。
橋本—味方の砲撃
一月六日、旧幕府軍は石清水八幡宮のふもとの橋本で踏みとどまろうとしました。ところが淀川の対岸、山崎の関門を守っていた津藩が新政府側に寝返り、旧幕府軍の横から砲弾を浴びせます。これで旧幕府軍は総崩れとなり、大坂へ退きました(津城跡を歩く(現地取材))。
江戸への引き上げ
一月六日の夜、将軍・徳川慶喜は大坂城を抜け出し、軍艦で江戸へ向かいました。取り残された新選組も、傷ついた隊士を連れて幕府の軍艦で江戸へ引き上げます。
監察として池田屋のころから働いた山崎烝は、戦いで傷を負い、江戸へ向かう富士山丸の船上で亡くなって海に葬られたと伝えられます(戦場で死んだとする説もあります)。
鳥羽伏見の戦いを読み解く
局長不在の戦い
鳥羽伏見の戦いのとき、局長の近藤勇は、十二月十八日に伏見街道で撃たれた傷のため大坂で療養していました。隊を率いたのは副長の土方歳三です。近藤を撃ったのは、油小路事件を生き延びた御陵衛士の篠原泰之進・加納鷲雄・富山弥兵衛らでした。新選組の内側の争いから生まれた一発が、戊辰戦争の最初の戦いで局長を戦場から遠ざけたことになります。
刀の隊から、銃の隊へ
伏見奉行所で新選組は、高台の御香宮から撃ち下ろす薩摩の砲撃に押されました。京都の町で浪士を取り締まるには刀や槍が役に立ちましたが、大砲と洋式銃の野戦では歯が立ちません。この敗戦のあと、新選組は大きく姿を変えます。
| 時期 | 新選組の戦い方 |
|---|---|
| 京都時代(文久三年〜慶応三年) | 刀・槍による市中の取り締まりと斬り込み |
| 鳥羽伏見(慶応四年一月) | 刀と槍で斬り込むが、銃砲に押し返される |
| 甲州勝沼(慶応四年三月) | 甲陽鎮撫隊として大砲や銃も備えて出陣 |
| 会津・箱館(慶応四年〜明治二年) | 洋式の軍装・銃を使う部隊として戦う |
土方歳三が洋装の軍服姿で写真に残っているのも、この変化の表れです。
隊士たちの分かれ道
鳥羽伏見は、隊士一人ひとりにとっても分かれ道でした。この戦いで久米部正親や近藤芳助は傷を負いながら、そのあとも戦い続けます。一方、江戸へ引き上げたところで隊を離れた者も少なくありません。近藤勇の養子だった近藤周平も、江戸で隊を離れたと伝わります。山野八十八のように、戦いのあと京都へ戻って暮らした隊士もいました。
味方に背かれた戦い
鳥羽伏見では、淀藩が城に入れず、津藩が対岸から砲撃してくるなど、味方と思っていた藩が次々に離れていきました。新選組を支えてきたのは、京都守護職の会津藩と幕府の権威です。その幕府の軍が、身内とも言える譜代の藩からも見放されたことは、新選組の立場が大きく変わったことを意味していました。このあと江戸へ戻った新選組は、甲州勝沼、流山へと戦いの場を移していきます。その流れは近藤勇、最後の百日にまとめています。
伏見の町に残る戦いの跡
目と鼻の先にあった敵の本陣
慶応四年正月三日、新選組と会津藩兵が守る伏見奉行所のすぐ北には、薩摩藩兵が陣を構えた御香宮神社がありました。両者の距離は、歩いて数分ほどしかありません。高台にある御香宮から撃ち下ろされる大砲の弾が奉行所に次々と落ち、奉行所は炎に包まれました。
新選組は刀を抜いて斬り込みを試みたと伝えられますが、高い場所から銃と大砲で狙う相手に近づくのは容易ではありませんでした。伏見の戦いの勝ち負けを分けたのは、隊士の腕前よりも、陣の位置と武器の差だったといえます。御香宮神社は今も伏見の町の中にあり、奉行所の跡との近さを歩いて確かめることができます。
格子に残る弾の跡
伏見の町には、この戦いの跡がいまも残っています。京料理の店・魚三楼の表の格子には、鳥羽伏見の戦いのときのものと伝わる弾の跡が残されています。町なかの店先が戦場になったことを、目で見て感じられる数少ない場所です。
伏見奉行所の跡は、のちに陸軍の施設や団地となり、いまは跡地を示す石碑が立つばかりです。新選組が京都で最後に屯所を置いた場所は、戦火と時代の移り変わりのなかで、ほとんど形をとどめていません。
伏見を歩くときの道すじ
| 場所 | 見どころ |
|---|---|
| 伏見奉行所跡 | 新選組・会津藩兵が守った奉行所の跡。石碑が立つ |
| 御香宮神社 | 薩摩藩兵の本陣。奉行所跡から歩いてすぐ |
| 魚三楼 | 格子に弾の跡と伝わる傷が残る |
| 寺田屋 | 慶応二年に坂本龍馬が襲われた船宿(建物は後に建て直されたものとされる) |
| 淀千両松のあたり | 井上源三郎が戦死した戦場。伏見から南西へ |
伏見の町は、京阪や近鉄の駅から歩いて回れる範囲に見どころが集まっています。酒蔵の並ぶ落ち着いた町並みの中に、慶応四年正月の激しい戦いの記憶が点々と残されています。
鳥羽伏見で戦った主な隊士
| 隊士 | 鳥羽伏見でのこと |
|---|---|
| 土方歳三 | 負傷した近藤に代わって隊を指揮する |
| 近藤勇 | 前年十二月の狙撃の傷のため大坂で療養し、戦いには出られなかった |
| 井上源三郎 | 一月五日、淀千両松で戦死 |
| 井上泰助 | 源三郎の甥。叔父の首と刀を持ち帰ろうとした |
| 山崎烝 | 負傷し、江戸へ向かう船上で亡くなったと伝わる |
| 久米部正親 | 負傷しながらも、のちに甲州・会津と戦う |
| 池田小三郎 | 鳥羽伏見で戦死したと伝わるが、生きて江戸に戻ったとする説もある |
| 吉村貫一郎 | 敗戦ののち大坂の南部藩邸で帰藩を願って断られ、切腹したと伝わる(浅田次郎『壬生義士伝』のモデル) |
| 永倉新八・斎藤一・原田左之助 | 伏見で戦い、江戸へ引き上げる |
訪ねるなら(京都・伏見)
- 伏見奉行所跡(京都市伏見区):新選組が陣取った奉行所の跡。いまは団地になっていて、碑が立っています。
- 御香宮神社(京都市伏見区):薩摩が陣取った高台の神社。
- 淀・千両松(京都市伏見区):井上源三郎が戦死した淀川堤のあたり。
- 橋本(京都府八幡市):津藩の寝返りで旧幕府軍が崩れた地。
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- 油小路事件とは—伊東甲子太郎と御陵衛士が斬られた夜
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参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』、子母澤寛『新選組始末記』、鳥羽伏見の戦いに関する諸研究。日付や細部には諸説があります。

