| 井上泰助 | |||
| 職名 | 両長召抱人 | ||
| 出身 | 武州日野 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
6番隊隊長井上源三郎の甥。
慶応三年に入隊しました。
鳥羽伏見の戦いで戦死した叔父の首を持っていこうとしたがその重さに断念し近くの寺の門前に埋めました。江戸帰還後は許しを得て離隊し、維新後は昭和二年までの長寿を得ました。
井上泰助をもっと深く—十一歳で入隊し、叔父の首を抱えられなかった少年
この隊士は、六番隊組長井上源三郎の甥にあたります。父は八王子千人同心の井上松五郎。源三郎の兄です。
数え十一歳での上洛
安政四年十二月、武蔵国日野宿の生まれ。慶応三年十月、数え十一歳で土方歳三・井上源三郎とともに上洛しました。京都に着いたのは同年十一月三日です。
役は近藤勇の小姓、刀持ちでした。慶応三年十二月の名簿『京都ヨリ会津迄人数』には「井上大助」の名で両長召抱人として記されています。局長・副長の身のまわりを務める少年たちの一人です。同じ役に市村鉄之助がいました。
慶応四年一月五日、淀千両松
鳥羽・伏見の戦いのさなかでした。叔父の井上源三郎が腹部に銃弾を受けて戦死します。享年四十。泰助はそれを目の前で見ていました。
そして首を持ち帰ろうとします。ですが、重すぎて運べませんでした。
本人の言葉が伝わっています。
人間の首があれほど重い物とは、それまで思ってもみなかった
ほかの隊士に諭され、その場の近くに埋めて、船で大坂へ退きました。十一歳です。
百四十年後に、埋葬地が特定されます
首を埋めた場所は、長く分かっていませんでした。伝わっていたのは「欣浄寺(ごんじょうじ)」という寺の名だけです。
平成二十年(2008年)三月、井上源三郎資料館の館長・井上雅雄氏—源三郎の子孫にあたる方が京都で現地調査を行い、「百四十年ぶりに埋葬地を確認した」と発表しました。京都市伏見区墨染の欣浄寺です。
特定が遅れた理由も説明されています。祖母のケイが「欣浄寺」と明言していたにもかかわらず、研究者が日野にある同名の寺と取り違え、しかも当時の京都の欣浄寺が廃寺になっていたためでした。
ただし埋めた場所を「寺の境内」とする記述と「門前の田畑」とする記述があり、また淀古城跡付近の欣浄寺とする別説もあります。諸説あることは書いておきます。
そして日野へ帰りました
慶応四年三月の甲陽鎮撫隊にも同行しましたが、日野まで来たところで離隊したとみられます。勝沼の戦いには加わっていません。ほかの八王子千人同心の子弟と同じように、帰農しました。
姉のモトは松本捨助に嫁ぎ、妹のはなは沖田総司の兄の息子に嫁いでいます。日野という土地が、新選組といかに濃くつながっていたかが分かります。
没年は昭和二年とも、その二年後とも伝わります。叔父の源三郎と同じ、日野の宝泉寺に眠っています。
新選組隊士全456名情報
鳥羽伏見の戦いでの新選組については、鳥羽伏見の戦いと新選組—伏見奉行所、淀千両松、そして江戸へにまとめています。
井上泰助の生きた時代—日野宿と佐藤彦五郎
日野の人々 井上泰助は、武州日野の出身で、新選組六番隊組長・井上源三郎の甥にあたります。日野は甲州街道の宿場町で、宿場の名主・佐藤彦五郎は自宅に天然理心流の道場を開き、近藤勇や土方歳三、沖田総司らがここで稽古をしました。土方は彦五郎の妻の弟でもあります(新選組のふるさとを歩く)。
叔父の最期 慶応四年(1868)正月五日、淀の千両松の戦いで叔父の源三郎が戦死すると、まだ少年だった泰助は叔父の首と刀を抱えて退きましたが、重さに耐えられず、途中の寺に葬ったと伝えられます。日野から京都へ上った若者たちは、こうして戊辰の戦場で倒れていきました。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

