三重県津城跡。いまは「お城公園」という名の、市街地のまん中の公園です。
この城について書くなら、避けて通れない話が一つあります。鳥羽・伏見の戦いで、この城の兵が旧幕府軍に砲を向けたという話です。幕末史でもっとも有名な寝返りのひとつ。それをやったのが、津藩・藤堂家でした。

藤堂高虎の城

津城のもとを築いたのは織田信包で、天正五年(1577)には五重の天守と小天守が落成しています。その後慶長十三年(1608)、藤堂高虎が入城。ここから城の性格が変わります。
高虎は築城の名手として知られる人です。彼はこの城を輪郭式——本丸を二の丸が囲み、その外を三の丸が囲む同心円状の縄張——に作り替え、城下町ごと整備しました。公園に立つ騎馬像は、その高虎です。
天守については少しややこしい。関ヶ原で焼失したと長く言われてきましたが、近年の研究では寛永年間の絵図に三重天守と二重小天守が描かれており、富田氏による再建と推定されています。そして寛文二年(1662)の火災で焼失し、幕府への遠慮から再建されませんでした。
つまり幕末の津城にも、天守はありません。掛川城が地震で天守を失ったのに対し、津城は火事で失って、遠慮して建て直さなかった。桑名城も元禄の火災以来、天守なしでした。幕末の東海道筋には、天守のない城がずいぶん多いのです。
藤堂高猷 ― 佐幕派だった藩主

幕末の津藩主は藤堂高猷(とうどう たかゆき)。文化十年(1813)二月九日の生まれで、文政八年に十二歳ほどで家督を継ぎ、明治四年六月に次男・高潔へ譲るまで、およそ四十六年にわたって二十七万九百五十石を治めました。
この人の立場を、はっきり書いておきます。高猷は佐幕派でした。公武合体を推し進める側で、ただし幕政の中枢に深く関わることはあまりなかった。掛川の太田資始や沼津の水野忠誠のように老中を出す家ではなく、外様の大藩として距離を保っていた家です。
そして慶応四年正月、鳥羽・伏見。津藩は当初、旧幕府軍に与していました。
橋本にて ― 味方の背後から砲が火を噴く
鳥羽・伏見の戦いの終盤、旧幕府軍は淀から橋本へ後退します。淀川と木津川に挟まれた狭い土地で、ここを抜かれれば大坂まで一直線という要所でした。
その橋本の守備に就いていたのが、津藩兵です。対岸の高地に、津藩の砲隊が布陣していました。
そして——橋本を守備していた津藩兵が新政府軍に転じ、幕軍を攻撃しました。
味方だと思っていた砲台から、砲弾が飛んでくる。旧幕府軍は正面と側面の両方から撃たれる形になり、橋本の防衛線は崩壊しました。この寝返りが、新政府軍勝利の一因になったと記録されています。
幕末の裏切りは数多くありますが、これほど戦局を直接動かしたものは多くありません。もし津藩が動かなければ、橋本はもう少し持ちこたえたかもしれない。そうすれば徳川慶喜の大坂脱出も、その後の展開も、少し違っていた可能性があります。


寝返りをどう見るか
この一件は、いまも「裏切り」として語られます。実際、旧幕府方から見れば裏切り以外の何物でもない。
ただ、津藩の立場も考えてみたくなります。藤堂家は外様です。関ヶ原で徳川に付いて以来、二百六十年を譜代並みの待遇で過ごしてきましたが、血筋の上では徳川一門ではない。そして津は京都と伊勢のあいだ、朝廷のすぐ隣にあります。
錦の御旗が翻ったとき、京都に近い外様の大藩が何を選ぶか。松坂を統轄していた紀州藩は御三家として旧幕府軍を受け入れ、隣の津藩は新政府側に転じました。同じ伊勢国の二つの大藩が、まったく逆へ動いたわけです。
その後、津藩は新政府軍として戊辰戦争にも箱館戦争にも派兵しています。転じたあとは、最後まで新政府側で戦い抜きました。
いま残っているもの、残っていないもの

正直に書いておきます。あの三重櫓は、津城の櫓ではありません。
昭和三十三年(1958)にコンクリートで建てられたもので、旧来の丑寅櫓とは場所も形も異なる、観光用の模擬櫓とされています。復元ではない。写真映えはしますし、公園の目印としてはよく効いているのですが、「これが幕末に建っていた櫓だ」と思って見ると間違いになります。
その代わり、石垣は本物です。とくに隅の算木積み——長い石と短い石を交互に組んで角を固める技法——が、目を見張るほどきれいに決まっています。築城の名手と呼ばれた高虎の仕事が、ここには残っている。
建物は明治四年の廃藩置県で城が廃されたあと、破却されました。堀も多くが埋められ、輪郭式の縄張のうち水をたたえているのは内堀の一部だけ。公園の外に出ると、そこはもう普通の市街地です。
歩いてみて
津城跡は、静かな公園でした。日本庭園があり、高山神社があり、市民が散歩している。ここで戊辰戦争の帰趨を変える決断が下された藩の、城の跡だとは思えないほど穏やかです。
橋本での寝返りは、いまも津藩の評判に影を落としています。「藤堂は裏切る家」といった言われ方をすることもある。けれども石垣の前に立っていると、少し違うことを考えました。
二百六十年、徳川に忠実であることで存続してきた外様の大藩が、二百六十年目に生き延びる道を選んだ。それを裏切りと呼ぶのはたやすい。ただ、二十七万石には数万の領民がいて、家臣とその家族がいる。桑名藩のように藩主が蝦夷まで戦い続けた家もあれば、山形藩のように家老が一人で責めを負って城下を守った家もある。津藩の選択は、その振れ幅のなかのひとつだったのだと思います。
正しかったかどうかは、私には言えません。ただ、あの日あの砲台にいた津藩の兵たちが何を思って引き金を引いたのかは、算木積みの角を見上げながら、しばらく考えていました。
アクセスと地図
津城跡(お城公園)/三重県津市丸之内。近鉄・JRの津駅から徒歩約十五分、津新町駅からなら徒歩約十分。入園無料で、石垣・内堀・藤堂高虎像・三重櫓・日本庭園が見どころです。所要は三十分ほど。石垣の算木積みは南東の隅がよく見えます。
あわせて読みたい
- 【現地取材】伊賀上野城——家康が大坂に備えた城が、徳川を撃つ側の城になるまで
- 津藩(安濃津藩)/藤堂家27万950石——鳥羽伏見で旧幕府軍を突如攻撃した藩
- 久居藩(津藩支藩)/藤堂家——本藩に従い新政府軍に恭順
- 【現地取材】松坂城跡——逆の道を選んだ紀州藩の城代の城
- 【現地取材】桑名城跡——最後まで戦い続けた伊勢のもう一つの藩
- 【現地取材】掛川城——同じく幕末に天守を持たなかった城
- 紀州藩(和歌山藩)/徳川家55万5千石——旧幕軍を受け入れた御三家
あわせて読みたい(現地取材)
この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「史跡 津城跡」
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。
