新選組の物語は、京都の壬生で始まり、北海道の箱館(函館)で終わります。けれども、最後に弁天台場で降伏した新選組は、京都のころとは顔ぶれがまるで違っていました。隊士の多くは、仙台や蝦夷地で新しく加わった人たちだったのです。この記事では、箱館の新選組がどんな隊だったのか、そこにいたのは誰だったのかをまとめます。
仙台での再編—桑名・唐津の藩士が加わる
慶応四年(1868)、会津での戦いに敗れた旧幕府軍は仙台に集まり、榎本武揚の艦隊に合流して蝦夷地へ渡ることになります。土方歳三の率いる新選組もその一つでした。ただ、京都以来の隊士は戦死や離脱で大きく減っていました。三番隊組長だった斎藤一も、会津に残る道を選んでいます。
そこへ加わったのが、他藩の藩士たちです。とくに多かったのが桑名藩士でした。藩主・松平定敬は蝦夷地へ向かいましたが、船に乗れる随行者は限られていました。選に漏れた藩士たちが新選組に入りました。この時期の隊はふつう「箱館新選組」と呼ばれます。その橋渡しをしたのが、桑名藩の重臣森常吉だったとされます。
老中・小笠原長行に従っていた唐津藩士の大野右仲も、仙台で新選組に入った一人です。
蝦夷地での新選組
明治元年(1868)十月、旧幕府軍は蝦夷地に上陸し、五稜郭と箱館を押さえました。箱館政権で土方は陸軍奉行並という上の役に就き、新選組の直接の指揮からは離れます。代わって新選組を率いたのは、頭取改役となった森常吉でした。森が頭取改役に就いたのは年が明けた明治二年の初めとされます。
土方のそばには、直属の陸軍奉行添役として安富才輔・野村利三郎・大野右仲らがつきました。新選組は分隊に分けられ、箱館市中の取り締まりや、弁天台場・箱館山の守りを受け持っています。
蝦夷地に入ってから新選組に加わった人もいました。青山次郎は、会津藩士や幕臣など二十人ほどを連れて蝦夷地で入隊しています。
宮古湾、二股口、そして弁天台場
- 明治二年三月・宮古湾海戦:新政府軍の軍艦「甲鉄」を奪おうとした作戦で、野村利三郎が真っ先に斬り込み、戦死しました。
- 四月・二股口の戦い:土方が新政府軍を二週間あまり食い止めた戦い。大野右仲らが土方を補佐しました。
- 五月十一日・箱館総攻撃:市街を落とされ、弁天台場の新選組は孤立します。救いに向かった土方は、一本木関門のあたりで銃弾を受けて戦死しました。
- 五月十五日・弁天台場の降伏:永井尚志以下およそ二百四十名が降伏しました。この二百四十名は弁天台場の守備隊全体の数で、函館市の観光情報は「百余名の新選組隊士を含めた約二百四十名」と説明しています。このとき隊長として恭順の書状に名を記したのが相馬主計で、新選組「最後の隊長」とされます。五稜郭が降伏したのは、その三日後の五月十八日でした。
箱館の新選組にいた主な隊士
| 隊士 | 箱館での立場など |
|---|---|
| 土方歳三 | 陸軍奉行並。五月十一日に戦死 |
| 森常吉 | 桑名藩士。頭取改役(隊長)。戦後、藩主に代わって切腹 |
| 大野右仲 | 唐津藩士。頭取・陸軍奉行添役。のちに『函館戦記』を著す |
| 相馬主計 | 土方の戦死後、隊長として降伏の書状に署名 |
| 安富才輔 | 陸軍奉行添役。土方の最期を日野の土方家へ伝える |
| 野村利三郎 | 陸軍奉行添役。宮古湾海戦で戦死 |
| 島田魁 | 京都以来の古参。弁天台場で降伏し、のちに記録を残す |
| 中島登 | 隊士の姿を描いた『戦友姿絵』を残す |
| 横倉甚五郎 | 第三分隊教導役。弁天台場で降伏 |
| 田村銀之助 | 十一歳で入隊した少年。箱館では榎本武揚の小姓 |
| 青山次郎 | 第一分隊指図役。蝦夷地で二十人ほどを連れて入隊 |
| 石井勇次郎 | 桑名藩士。第四分隊指図役 |
| 明石覚四郎・秋山義三郎・五十嵐伊織・岩崎勝次郎・印具馬作・上田安達之助 | 箱館新選組の各分隊の隊士 |
新選組隊士全456名情報では、役職欄に「函館新選組」とある隊士が八十人あまりいます。多くはまだ個別ページがありませんが、順に増やしていきます。
箱館の新選組を読み解く
京都の新選組と、箱館の新選組
同じ「新選組」という名でも、京都時代と箱館時代とでは、隊の中身が大きく違っていました。
| 京都の新選組 | 箱館の新選組 | |
|---|---|---|
| 率いた人 | 局長・近藤勇、副長・土方歳三 | 頭取改役・森常吉ら。土方は陸軍奉行並として上に立つ |
| 隊士の出身 | 多摩・江戸の剣客、各地の浪士 | 桑名藩士、唐津藩士、蝦夷地で加わった者など |
| おもな役目 | 京都の市中の見回り、尊攘派の取り締まり | 箱館の市中の取り締まり、弁天台場などの守り |
| 戦い方 | 刀と槍による斬り込み | 洋式の銃を使う戦い |
| 上に立つ組織 | 会津藩(京都守護職) | 箱館政権(総裁・榎本武揚) |
面白いのは、箱館でも新選組が「市中の取り締まり」を受け持ったことです。京都で町を見回った治安の部隊としての役目が、北の港町でもう一度与えられたことになります。隊士の顔ぶれは変わっても、新選組という名に期待された仕事は、最後まで同じでした。
「入札」で選ばれた箱館政権
明治元年十二月、蝦夷地を押さえた旧幕府軍は、士官たちの入札(投票)によって総裁や奉行を選びました。総裁には榎本武揚が選ばれ、土方歳三は陸軍奉行並に就いています。日本で行われたいちばん早い時期の「選挙」の一つとして語られることもある出来事です。
京都時代の新選組は、会津藩の預かりとして上からの命令で動く組織でした。その新選組の副長だった土方が、仲間の投票で役職に選ばれたことは、幕府という大きな後ろ盾を失った人々が、自分たちで新しい仕組みを作ろうとしていたことを示しています。
弁天台場は、なぜ最初に降ったのか
五月十一日の総攻撃では、新政府軍は箱館山の裏手からも兵を上げ、箱館の市街を一気に押さえました。港の入り口にあった弁天台場は、五稜郭との連絡を断たれて孤立します。土方はこれを救おうとして出撃し、一本木関門のあたりで命を落としました。
孤立した台場では、水や食べ物、弾薬が尽きていきました。台場を指揮していた箱館奉行の永井尚志は、かつて近藤勇を連れて広島へ向かった幕府の高官です。永井と新選組の隊長・相馬主計らは、十五日に降伏を決めました。五稜郭の降伏はその三日後です。新選組は、箱館政権の中でも一足早く、その戦いを終えることになりました。降伏の書状に名を記した相馬については相馬主計のページをご覧ください。
降伏のあと
降伏した隊士たちは、それぞれの藩や静岡藩に引き渡されました。森常吉は桑名藩主の身代わりとして切腹し、相馬主計は伊豆の新島へ流されます。一方で大野右仲や石井勇次郎のように、明治政府や県の役人として生きた人もいました。
訪ねるなら(函館)
- 弁天台場跡:函館どつくの入口前に碑があります。台場そのものは明治の中ごろに取り壊されました。
- 土方歳三最期の地碑:函館市若松町。一本木関門の跡とされる場所です。
- 五稜郭:箱館政権の本拠。
- 碧血碑:函館山のふもと。箱館戦争で亡くなった旧幕府軍の人々を弔う碑です。
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参考にした資料:大野右仲『函館戦記』、島田魁・中島登の記録、箱館戦争に関する諸研究。人数や役職の時期には資料により違いがあります。

