青山次郎【新選組隊士 函館新選組第一分隊指図役 幕末】

青山次郎
職名 函館新選組第一分隊指図役
出身 江戸
終焉場所 函館弁天台場
終焉方法 降伏

会津藩士、幕臣など20人を連れて蝦夷にて入隊しました。
函館戦争にて弁天台場で降伏します。
終戦後は静岡藩に引き渡されて、以後の消息は不明です。

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青山次郎をもっと深く——二十人を連れて、負ける側に入った男

新選組の隊士名簿を読んでいくと、たいていは「いつ入隊したか」が書かれています。文久三年の壬生浪士組から、池田屋の年から、鳥羽伏見のあとから。だが青山次郎の場合は違います。蝦夷地で入隊しているのです。

しかも一人で入ったのではありません。会津藩士や幕臣らおよそ二十人を引き連れて加わりました。そして函館新選組第一分隊の指図役となります。

その時点で、勝ち目はなかった

時期を確かめると、この人の選択の重さが分かります。旧幕府軍が蝦夷地に渡ったのは慶応四年十月。仙台の折浜を出て、鷲ノ木に上陸しました。翌明治二年には新政府軍が海と陸から攻めてきます。

青山次郎が二十人を連れて入隊したのは、その明治二年です。開陽丸は前年の暮れに江差沖で沈み、制海権はすでに失われていました。負けると分かっている側に、負ける直前に、二十人を連れて入ります。その判断がどこから来たのかは、記録が残っていません。

指図役という役

「指図役」は分隊の実務を指揮する役職です。ただし正直に書いておくと、函館新選組が第一から第四までの分隊に分かれていたことについて、詳しい編成を伝える資料は乏しい。島田魁や中島登が残した記録に断片が見えるだけで、各分隊の規模も任務の違いも判然としません。

確かなのは、明治元年十二月の時点で、桑名藩士だった森常吉が「頭取改役」として隊士およそ百五十名を率いていたこと。そして彼らの配置が弁天台場の守備と箱館山の番兵だったことです。

土方は、この台場を救いに来る途中で死んだ

弁天台場は安政三年に着工し、文久三年に完成した砲台です。設計は五稜郭と同じ武田斐三郎。周囲およそ七百十メートルの不等辺六角形で、高さ十一メートルほどの石垣を土塁が囲み、砲眼を十五門備えていました。

明治二年五月十一日、新政府軍の総攻撃。土方歳三はわずかな兵を率いて五稜郭を出ました。孤立した弁天台場の新選組を救うためだったとされます。そして一本木関門で指揮を執っている最中に撃たれ、落馬して死にました。

台場に残された者たちは、四日後の五月十五日に降伏します。箱館奉行・永井尚志以下二百四十名。五稜郭より先でした。この日、隊士たちは常陸笠間出身の相馬主計を隊長に選び、恭順の書状に連名しています。

その後

降伏した者は各藩へ「御預け」となりました。青山次郎は静岡藩に引き渡され、以後の消息は分かっていません。多くは翌明治三年に放免されています。

二十人を連れてきた男が、そのあとどう生きたのか。記録がないというのは、そういうことです。弁天台場そのものも明治期に解体され、いまは碑が立つだけになっています。

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