| 横倉甚五郎 | |||
| 職名 | 函館新撰組 嚮導役 | ||
| 出身 | 武州多摩(八王子) | ||
| 終焉場所 | 東京(獄中) | ||
| 終焉方法 | 獄死 | ||
横倉甚五郎をもっと深く—箱館まで戦い、牢で死んだ古参
多摩の天然理心流から新選組に入り、京都・会津・箱館と戦い抜いた隊士です。そして明治になって、坂本龍馬暗殺の疑いで牢に入れられ、そこで亡くなりました。
八王子の天然理心流
天保五年、武州多摩郡堀ノ内村(いまの八王子市)に生まれ、天然理心流を学びました。近藤勇が江戸で隊士を募ったときに応じて入隊しています。
油小路から箱館まで
慶応三年十一月の油小路事件に出動し、翌年からは鳥羽伏見、甲州勝沼、会津と転戦します。仙台で榎本武揚の艦隊に合流して蝦夷地へ渡り、明治二年五月十五日、弁天台場で降伏しました。
龍馬暗殺の疑いで取り調べ
同年十一月、坂本龍馬と伊東甲子太郎の暗殺に関わった疑いで東京の糾問所に送られ、取り調べを受けます。そして明治三年八月十五日、獄中で亡くなりました。三十七歳でした。同じ疑いで調べられた大石鍬次郎が斬首されたのは、その二か月後です。
横倉甚五郎の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保五年(1834) | 武州多摩郡堀ノ内村(いまの八王子市)に生まれる。天然理心流を学ぶ |
| 元治年間 | 近藤勇の江戸での隊士募集に応じて新選組に入る |
| 慶応三年(1867)十一月 | 油小路事件に出動する |
| 慶応四年(1868) | 鳥羽・伏見、甲州勝沼、会津と転戦する |
| 明治元年(1868) | 仙台で榎本武揚の艦隊に合流し、蝦夷地へ渡る。函館新撰組の第三分隊教導役 |
| 明治二年(1869)五月十五日 | 弁天台場で降伏する |
| 明治二年十一月九日 | 坂本龍馬・伊東甲子太郎の暗殺に関わった疑いで、東京の糾問所へ送られる |
| 明治三年(1870)八月十五日 | 獄中で死去。三十七歳 |
横倉甚五郎を読み解く
多摩から出て、最後まで戦った一人
横倉は、近藤勇や土方歳三と同じ多摩の出身で、同じ天然理心流を学んだ人です。多摩出身の隊士の多くは、京都で倒れたり、戊辰戦争の途中で隊を離れたりしました。横倉は、油小路事件から箱館の弁天台場まで、新選組の最後の戦いを見届けています。
なぜ龍馬暗殺の疑いをかけられたのか
新政府は、降伏した新選組の隊士を取り調べ、坂本龍馬暗殺の犯人を探しました。横倉が疑われたのは、油小路事件に出動していたことと関わりがあります。油小路事件で伊東甲子太郎を討ったのは新選組で、伊東の仲間の御陵衛士は、龍馬暗殺も新選組の仕業だと訴えていました。取り調べでは、龍馬と伊東の二つの事件がまとめて問われています。龍馬暗殺と新選組の関わりは坂本龍馬暗殺と新選組にまとめています。
大石鍬次郎との違い
同じ疑いで取り調べられた大石鍬次郎は、いったん龍馬暗殺への関わりを認めたあと取り消し、明治三年十月に斬首されました。一方、横倉は判決を待たずに牢の中で亡くなっています。これより前の明治二年には、見廻組の今井信郎が取り調べで龍馬暗殺への関わりを供述しており、新選組の犯行説はすでに揺らいでいました。横倉は、疑いが晴れる前に亡くなった人でした。
辞世の歌
横倉の辞世として、「義のために つくせしことも 水の泡 打ちよす波に 消えて流るゝ」という歌が伝わります。義のために尽くしたことも、波に消える泡のように流れてしまう—箱館まで戦い、牢で終わった自分の歩みを見つめた歌です。
はっきりしないこと
横倉が新選組に入った正確な年や、獄中で亡くなった原因は、はっきりしていません。
横倉甚五郎をさらに掘り下げる
八王子と天然理心流
横倉の生まれた堀ノ内村は、八王子の南にあった村です。八王子には、甲州口の守りとして置かれた八王子千人同心がいました。ふだんは農業を営みながら、いざというときには幕府のために武器をとる半士半農の人たちです。天然理心流は、こうした千人同心や多摩の農民たちのあいだに広まった流派でした。新選組の六番隊組長・井上源三郎も、千人同心の家の出です。
「農民でありながら、いざとなれば幕府のために戦う」という千人同心の気風は、多摩から京都へ上った天然理心流の隊士たちの考え方の土台になっていたとも考えられます。横倉が最後まで新選組を離れなかったのも、そうした土地で育った人らしい生き方だったのかもしれません。
榎本は赦され、横倉は牢で死んだ
箱館で降伏した旧幕府軍の人々の処分は、立場によって大きく分かれました。
| 人物 | 降伏後 |
|---|---|
| 榎本武揚(箱館政権の総裁) | 東京で入牢ののち明治五年に赦され、のちに明治政府の大臣となる |
| 相馬主計(最後の新選組隊長) | 龍馬・伊東の暗殺の嫌疑で取り調べを受け、伊東殺害にかかわった罪で伊豆の新島へ流される。のちに赦される |
| 大石鍬次郎 | 龍馬・伊東の暗殺の嫌疑で取り調べられ、明治三年十月に斬首 |
| 横倉甚五郎 | 同じ嫌疑で取り調べ中、明治三年八月に獄死 |
総裁の榎本が赦されて新しい政府の要職につく一方で、新選組の隊士たちは、戦いの責任ではなく、京都での「事件」の責任を問われました。坂本龍馬は、新政府を作った人々にとって特別な存在です。その暗殺の疑いをかけられた新選組の隊士は、ほかの降伏者とは違う厳しい目で見られたのです。横倉の獄死は、箱館で戦いが終わったあとも、新選組にとっての戦いが終わっていなかったことを物語っています。取り調べのいきさつは坂本龍馬暗殺と新選組で詳しく扱っています。
取り調べで語ったこと
横倉は取り調べのなかで、油小路事件のことなどを語ったとされます。自ら出動した夜のことを、明治政府の役人の前で話さなければならなかったのです。龍馬の暗殺については関わりを認めなかったと伝えられます。同じころ、箱館で降伏した元見廻組の今井信郎が、龍馬を襲ったのは見廻組だったと供述し、新選組への疑いはしだいに薄らいでいきます。けれども横倉は、その結末を見ることなく牢の中で亡くなりました。
故郷に帰れなかった多摩の隊士
多摩の出の隊士のなかには、松本捨助のように途中で故郷に帰され、明治・大正まで生きた人もいます。横倉は、近藤・土方とともに戦い抜いた末、故郷の八王子に帰ることなく東京の牢で亡くなりました。三十七歳という若さでした。
横倉甚五郎と関わりの深い人たち
横倉甚五郎のゆかりの地
- 八王子(東京都八王子市)—生まれ故郷の多摩。
- 油小路七条のあたり(京都市下京区)—出動した油小路事件の現場。
- 母成峠古戦場(会津)—会津での転戦の地。
- 弁天台場跡(函館市)—降伏した場所。
参考にした資料:Wikipedia「横倉甚五郎」、新選組の名簿類。
蝦夷地で入った隊士も含めた箱館の隊については、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。
会津での新選組の戦いと、土方・斎藤の別れについては、会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂、土方と斎藤が別れた夏にまとめています。
坂本龍馬暗殺で新選組が疑われたいきさつは、坂本龍馬暗殺と新選組—なぜ疑われ、隊士たちは何を背負ったのかにまとめています。
役職名と、墓石が語る没年
箱館での役目は、これまで「第三分隊教導役」と記してきました。史料の用語は「嚮導役」で、分隊の番号についても、横倉を四分隊とする資料があります(中島登が二分隊の嚮導役です)。番号を確かめきれないため、ここでは「嚮導役」までを職名として示しています。
横倉の墓は八王子の大法寺にあります。墓石には「明治三年八月十五日歿 行年三十五歳」と刻まれています。一般に伝わる享年は三十七で、墓石の数字とは二つ違います。どちらが正しいとも決めがたく、こういう場合は両方を並べておくのが誠実だと思います。生家のあった堀之内村と同じ八王子に眠っていることになります。
弁天台場で降伏したあと、横倉はすぐ取り調べに移されたわけではありません。まず謹慎を命じられ、明治二年十一月九日に東京の糾問所へ送られました。嫌疑は坂本龍馬と伊東甲子太郎の暗殺への関与です。同じ嫌疑で捕らえられた大石鍬次郎は明治三年に処刑され、横倉は判決を待たずに獄で亡くなりました。同じ疑いをかけられた二人の結末が、処刑と獄死に分かれたことになります。
新選組をもっと知る本
土方のそばにいた横倉は、獄で死んだため自分の言葉を残していません。隊の内側を知るには、生き残った永倉新八の『新撰組顛末記』と、関係者の話を集めた子母澤寛『新選組始末記』に頼ることになります。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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