| 明石覚四郎 | |||
| 職名 | 函館新選組第二分隊 | ||
| 出身 | 唐津 | ||
| 終焉場所 | 函館弁天台場 | ||
| 終焉方法 | 降伏 | ||
明治元年、仙台にて入隊しました。
いわゆる「唐津新選組」の一員です。
函館戦争では弁天台場にて降伏し唐津藩に引き渡されます。
以後の消息は不明です。

明石覚四郎をもっと深く—なぜ唐津の武士が、新選組にいたのか
出身は唐津。九州です。京都でも江戸でもない土地の武士が、なぜ蝦夷地で新選組の隊士になっているのか。
入隊は明治元年、場所は仙台でした。函館新選組第二分隊。いわゆる「唐津新選組」の一員です。
仙台で、隊が膨らんだ
慶応四年秋、北関東を転戦してきた新選組は仙台にきました。榎本武揚の艦隊が仙台湾に着いたという報せを受けて集まってきたのです。この仙台滞在中に、唐津藩士、桑名藩士、備中松山藩士らが新選組へ加わりました。
事情があります。蝦夷地へ渡る船の定員は限られていました。桑名藩主・松平定敬に随行できる人数が絞られ、選に漏れた藩士たちが行き場を失います。一方の新選組は、戦死と離脱で人数を減らしていました。乗れない藩士と、足りない隊。この二つが仙台で噛み合いました。
唐津の場合も似た事情だったと考えられます。唐津藩そのものは新政府に恭順しており、唐津藩の世子や藩士の一部が旧幕府側で戦った形になります。
「新選組」の中身は、途中で入れ替わっている
この一事は、新選組という集団の見方を変えます。壬生浪士組から数えて七年、局長も副長も死に、京都で戦った隊士の多くも消えました。蝦夷地の新選組は、名前だけを受け継いだ別の集団に近いです。
明石覚四郎は弁天台場で降伏し、唐津藩に引き渡されました。以後の消息は不明です。
同じ唐津から加わった印具馬作は、この降伏のあとに驚くべきことをやってのけています。そちらもあわせて読んでいただきたい。

「第二分隊」とは、どういう部隊だったのか
表にある「函館新選組第二分隊」という肩書きについて、分かっていることを書いておきます。蝦夷地へ渡った新選組は、いくつかの分隊に分かれていました。第一分隊の指図役が青山次郎、第二分隊の嚮導役が中島登、第三分隊の嚮導役が阿部隼太、第四分隊の嚮導役が横倉甚五郎です。上には組長の相馬主計、頭取の大野右仲、頭取改役の島田魁がいました。つまり明石覚四郎は、隊士たちの姿を描いた『戦友姿絵』を残したあの中島登と、同じ部隊にいたことになります。ただし各分隊の人数までは分かっていません。
七重村で、肩を撃たれています
明治元年十月二十四日の七重村の戦いが初陣でした。ここで肩に銃弾を受け、傷が癒えてから隊に戻り、箱館市中の取り締まりやいくつかの戦いに加わっています。同じ日の同じ戦いで首に傷を負ったのが天野十郎で、この人も唐津藩から来て仙台で入隊した一人でした。二人とも九月中旬の入隊、二人とも初陣が十月二十四日、二人とも負傷して、二人とも生き延びています。仙台で隊の名を借りて船に乗った一団が、そろって同じ日に血を流したということになります。
降伏したあと、どこへ送られたか
明治二年五月十五日に弁天台場跡で降伏したあとの道筋も分かっています。まず台場で謹慎し、津軽藩に預けられ、東京へ送られて、そこから旧藩へ引き渡されました。放免されたのは明治三年正月です。ただし同じ台場で同じ日に降伏しても、送られる先は人によって違っていて、会津出身の秋山義三郎は松代藩に禁錮されて明治三年三月に許されていますし、青山次郎は静岡藩へ預けられました。もとがどこの者かによって行き先が決まったようです。唐津から来た明石覚四郎と天野十郎は、そろって唐津へ帰されました。
箱館での新選組と、そこにいた隊士たちについては、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。
明石覚四郎の生きた時代—唐津藩と小笠原長行
老中の藩 明石覚四郎は唐津藩(小笠原家六万石)の出身です。唐津藩の世子・小笠原長行は、文久年間から幕府の老中を務め、生麦事件の賠償金の支払いを独断で決めたり、第二次長州征討では小倉口の総指揮をとったりしました。
箱館へ 戊辰戦争が始まると、長行は旧幕府側に立って奥羽へ、さらに箱館へと渡ります。唐津藩士の中にも長行に従って北へ向かった人々がいて、その何人かは箱館で新選組に加わりました。明石もその一人で、明治二年(1869)に箱館で降伏しています。
明石覚四郎が加わったころの新選組
京都以来の幹部の行方
唐津藩士の明石覚四郎が箱館の新選組に加わったのは、隊が京都を離れて一年近くたってからのことです。そのころ、京都で隊を率いた幹部たちの多くは、すでに隊を去っていました。主な幹部のその後は次のとおりです。
- 近藤勇(局長):慶応四年四月、流山で投降し、板橋で斬首
- 沖田総司(一番組長):慶応四年五月、江戸で病死
- 井上源三郎(六番組長):慶応四年一月、淀千両松で戦死
- 永倉新八・原田左之助:慶応四年三月、甲州から戻ったのち隊を離れ、靖兵隊を結成。原田は上野戦争で負った傷がもとで死去
- 斎藤一:会津に残って戦う
- 土方歳三(副長):箱館へ渡り、箱館政権の陸軍奉行並となる。明治二年五月十一日に戦死
藩主と離れて戦った唐津藩士
明石と同じように、箱館には唐津藩士が何人も渡っていました。唐津藩の世子・小笠原長行が旧幕府軍とともに北へ向かい、藩士たちはその長行に従ったのです。一方で国元の藩主・小笠原長国は、長行との養子の縁を切って新政府に恭順しました。唐津の藩士たちは、藩の決定とは逆の側で、最後まで戦ったことになります。
参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:青山次郎(函館新選組第一分隊指図役)
次の隊士 ▶:秋山義三郎(函館新選組第三分隊)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



