| 秋山義三郎 | |||
| 職名 | 函館新選組第三分隊 | ||
| 出身 | 会津 | ||
| 終焉場所 | 函館弁天台場 | ||
| 終焉方法 | 降伏 | ||
青山次郎らとともに明示2年に入隊します。
弁天台場にて降伏し松代藩に引き渡されます。
以後の消息は不明です。
目次
秋山義三郎をもっと深く——会津から来て、官軍の藩に預けられた
会津の出。青山次郎ら一党とともに明治二年に入隊し、函館新選組第三分隊に配されました。そして弁天台場で降伏し、松代藩に引き渡されました。
預けられた先が、どういう藩だったか
ここが少し皮肉です。松代藩は戊辰戦争で新政府側についた藩で、北越へ出兵しています。つまり会津出身の元隊士が、会津を攻めた側の藩に身柄を預けられたことになります。
降伏した旧幕府軍の将兵は、いったん箱館の寺院などに収容されたあと、各藩へ「御預け」として振り分けられました。出身地や縁故を考慮した形跡はあまりなく、受け入れ能力のある藩に機械的に割り当てられています。名古屋、静岡、桑名、唐津、豊津、そして松代。
ちなみに松代藩は、佐久間象山を出した藩でもあります。象山の門下からは吉田松陰も勝海舟も河井継之助も出ました。思想の源流を持つ藩が、その思想の果てに敗れた若者を預かりました。
台場での数か月
弁天台場は武田斐三郎の設計で、周囲およそ七百十メートルの不等辺六角形。砲眼十五門。海に向けては堅固だったが、箱館市中を取られると孤立します。明治二年五月、まさにその状況に陥りました。
五月十一日、土方歳三が台場の救援に向かう途中、一本木関門で戦死しました。五月十五日、永井尚志以下二百四十名が降伏しました。この日、隊士たちは相馬主計を隊長に選んでいます。
秋山義三郎のその後は分かっていません。多くの者は明治三年に放免されているので、この人も故郷へ帰ったのかもしれません。ただし帰る故郷が、そのころどうなっていたか——会津藩は取り潰され、多くの人が斗南藩の下北へ送られていました。

