岩崎勝次郎【新選組隊士 函館新選組第三分隊 幕末】

岩崎勝次郎
職名 函館新選組第三分隊
出身 江戸
終焉場所 函館弁天台場
終焉方法 降伏

新選組への入隊は蝦夷渡航後とされています。
明治二年弁天台場にて降伏しました。
静岡藩に引き渡され、以後の消息は不明です。

JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)
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岩崎勝次郎をもっと深く—京都を知らない、新選組の隊士

江戸の出。入隊は蝦夷渡航後とされています。函館新選組第三分隊に配され、明治二年に弁天台場で降伏し、静岡藩に引き渡されました。以後の消息は不明です。

「新選組」と聞いて思い浮かべるもの

新選組といえば、壬生の屯所、池田屋、油小路、そして鳥羽伏見。近藤勇と土方歳三と沖田総司。だいたいそういう絵が浮かぶ。

ところが岩崎勝次郎は、そのどれも見ていません。この人が入隊したのは、隊が蝦夷地に渡ったあとです。京都にいたことがありません。近藤勇はすでに板橋で処刑されており、沖田総司も死んでいます。

この人にとっての新選組とは、箱館の砲台に籠もって撃たれ続ける集団のことでした。

それでも隊は膨らんでいた

不思議に思えるかもしれないが、蝦夷地でも新選組には人が入っています。仙台では唐津藩士・桑名藩士・備中松山藩士らが加わり、蝦夷地では青山次郎が会津藩士や幕臣ら二十人を連れて入隊しました。明治元年十二月の時点で、隊士はおよそ百五十名を数えています。

負けが見えている軍に、人が集まり続けました。行き場のない者の受け皿だった面も、名前が持つ引力もあったでしょう。「新選組」という三文字は、この時点でもう一種のブランドになっていました。

四日

明治二年五月十一日、土方歳三が弁天台場の救援に向かう途中、一本木関門で戦死しました。台場が降伏したのはその四日後、五月十五日です。永井尚志以下二百四十名。

京都を知らない隊士たちが、最後の新選組を看取りました。隊長に選ばれたのは、入隊が慶応三年と遅かった相馬主計です。最初から見てきた者はもう誰もいませんでした。

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会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)

同じ姓の隊士とは、別人のようです

当サイトには岩崎一郎という隊士のページもあって、姓が同じです。ところがこの二人を結びつける記述は、どこを探しても見つかりませんでした。岩崎一郎のほうは陸奥盛岡の出、別名を南一郎といい、慶応三年五月ごろに仮同志として入って六月の幕臣取立で見廻組並御雇となり、甲州へ出陣したあと江戸で脱けて彰義隊に移り、沼津に住んで明治四年に亡くなっています。かたや岩崎勝次郎は江戸の出で、蝦夷地へ渡ってから入隊した人です。出身も入隊の時期も場所も、何一つ重なりません。同姓の別人とみるのが自然でしょう。

箱館では第三分隊にいました

表にある「函館新選組第三分隊」という肩書きについて書いておきますと、蝦夷地の新選組はいくつかの分隊に分かれていて、第三分隊の嚮導役は阿部隼太でした。同じ第三分隊には秋山義三郎もいます。そして降伏したあと静岡藩へ引き渡されたという点では、青木連と同じ道をたどりました。江戸の出で静岡へ送られたというのは、徳川家が移った先へ返されたということになります。

ここから先が、調べても出てきません

正直に書いておきますと、この隊士について隊士名簿の類を当たってみたものの、名前が載っているという以上の記述を見つけられませんでした。板橋の新選組供養塔にも名はありません。上に書いた箱館での所属や静岡藩への引き渡しは当サイトが依拠している資料によるもので、その資料がどの史料に拠ったのかまでは確かめられていません。同じ姓の岩崎一郎について沼津での暮らしぶりや勝海舟を訪ねた日付まで伝わっているのと比べると、落差がずいぶん大きいのですが、隊士の記録とはたいていこういうもので、たまたま誰かが書き留めた人だけが残ります。

箱館での新選組と、そこにいた隊士たちについては、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。

岩崎勝次郎の生きた時代—箱館の新選組

再編された新選組 明治元年(1868)の暮れ、蝦夷地に渡った旧幕府軍は、箱館を拠点に新しい政府をつくりました。土方歳三はその陸軍奉行並となり、新選組は桑名藩士や唐津藩士、会津藩士らを加えて再編されます。隊長には森常吉が就き、のちに相馬主計が務めました。

最後まで 箱館の新選組は、分隊に分かれて箱館の市中の取り締まりや弁天台場の守りにあたりました。江戸出身の岩崎勝次郎は第三分隊に属し、明治二年(1869)の降伏まで戦っています。

岩崎勝次郎がいた箱館の新選組

京都の幹部たちのその後

岩崎勝次郎が箱館で新選組の一員として戦ったころ、京都の時代から隊を率いてきた幹部の多くは、すでに隊を離れていました。主な幹部のその後は次のとおりです。

  • 近藤勇(局長):慶応四年四月、流山で投降し、板橋で斬首
  • 沖田総司(一番組長):慶応四年五月、江戸で病死
  • 井上源三郎(六番組長):慶応四年一月、淀千両松で戦死
  • 永倉新八・原田左之助:慶応四年三月、甲州から戻ったのち隊を離れ、靖兵隊を結成。原田は上野戦争で負った傷がもとで死去
  • 斎藤一:会津に残って戦う
  • 土方歳三(副長):箱館へ渡り、箱館政権の陸軍奉行並となる。明治二年五月十一日に戦死

新選組の最後の日々

明治二年五月十一日、新政府軍が箱館に総攻撃をかけ、土方歳三は一本木関門の付近で銃弾に倒れました。新選組は弁天台場に立てこもりましたが、五月十五日に降伏します。そのとき隊長として降伏の書状に名を記したのは、慶応三年に入隊した相馬主計でした。京都時代を知る者の少なくなった隊が、新選組の最後を見届けたのです。

参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)

◀ 前の隊士:岩崎一郎(平隊士)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

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