石井勇次郎【新選組隊士 函館新選組第四分隊指図役 幕末】

石井勇次郎
職名 函館新選組第四分隊指図役
出身 桑名藩士
終焉場所 函館弁天台場
終焉方法 病没

明治元年に入隊しました。
いわゆる「桑名新選組」の一員です。
弁天台場にて降伏し、桑名藩に引き渡されます。
その後は三重県職員などを務め明治三十六年新潟にて死去しました。

会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

石井勇次郎をもっと深く—「桑名新選組」から、三重県の役人へ

桑名藩士です。明治元年に入隊し、函館新選組第四分隊の指図役となりました。いわゆる「桑名新選組」の一員です。

船に乗れなかった藩士たち

桑名藩主・松平定敬は、鳥羽伏見のあと江戸から北へ転戦し、蝦夷地まで戦い抜いた人です。国元の桑名は早々に城を明け渡していたから、定敬とその周囲は藩から切り離された形で戦い続けました。

問題は人数でした。蝦夷地へ渡る船に乗れる随行者は限られています。選に漏れた桑名藩士たちが、仙台で新選組に加わりました。旧知の土方歳三に相談を持ちかけたのは、桑名藩士の森陳明(常吉)だったとされます。その森自身が、明治元年十二月には「頭取改役」として隊士およそ百五十名を率いる立場になっています。

つまり蝦夷地の新選組は、指揮官も隊士のかなりの部分も桑名の人間でした。京都で壬生浪士組として始まった集団の、最後の姿です。

弁天台場

配置は弁天台場の守備と箱館山の番兵。台場は武田斐三郎の設計で、周囲およそ七百十メートル、砲眼十五門。海には強く、背後を取られると孤立する構造でした。

明治二年五月、市街を落とされて孤立。十一日に土方歳三が救援に向かう途中で戦死し、十五日、永井尚志以下二百四十名が降伏しました。

そして明治を生きた

石井勇次郎は弁天台場で降伏し、桑名藩に引き渡されました。ここまでは他の隊士と同じです。違うのはその後です。

三重県の職員などを務め、明治三十六年に新潟で死去しています。

賊軍として降伏した男が、赦されて、県庁に勤めます。函館新選組の隊士の多くが「以後の消息は不明」で終わるなかで、この人の後半生ははっきり残っています。明治という時代が、彼らをどう扱ったのかを示す数少ない実例です。

JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)

この人は、自分で記録を書き残している

函館新選組の隊士で後半生が分かる人は少ないのですが、石井勇次郎にはもうひとつ珍しいところがあります。自分の戊辰戦争を書き残しているのです。

国立国会図書館のレファレンス協同データベースに、三重県立図書館の回答として書誌が載っています。それによると『戊辰戦争見聞略記』は、桑名藩士の石井勇次郎が旧幕府軍として日光、越後、会津と転戦し、箱館で降伏するまでのことを、青森での謹慎中にまとめた記録です。

降伏して青森に留め置かれているあいだに、自分が通ってきた戦場を書き出している。賊軍として捕らえられた身で、記憶が薄れる前に書いたということになります。

平成に入ってから、市民が解読した

この手記が読めるようになった経緯も変わっています。

同じ書誌によりますと、刊行したのはくわな市民大学歴史専門学科の受講生有志で、市民大学の講座で解読した成果をまとめたものでした。監修は大塚由良美、平成二十二年二月の刊行です。原文と注釈が収められています。

また『新選組史料集 続』(新人物往来社編、平成十八年)には、『戊辰戦争見聞略記』の解説と書き下し、註解が収録されました。京都府立京都学・歴彩館はこの史料集を続編まで所蔵しています。

桑名の市民が講座で古文書を読み、百四十年前の藩士の手記が本になる。石井勇次郎の後半生がはっきり残っている理由の一つは、この地元の作業でした。

経路をたどると、藩主と別の道を歩いている

桑名市の公開資料によりますと、藩主の松平定敬は鳥羽伏見を皮切りに各地を転戦し、最後は五稜郭へ向かいました。石井の手記にある経路は日光・越後・会津・箱館で、藩主の動きとぴったり重なるわけではありません。

藩主に従えた者と、従えずに自分の足で北へ向かった者がいて、仙台で新選組という受け皿に入り、箱館で合流する。桑名藩の戊辰戦争は一本の線ではなく、何本かの線が最後に五稜郭で束ねられた形でした。

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箱館での新選組と、そこにいた隊士たちについては、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。

石井勇次郎の生きた時代—桑名藩と箱館の新選組

桑名藩の出身 石井勇次郎は桑名藩(松平家十一万石)の藩士です。桑名藩主・松平定敬は京都所司代として、兄の会津藩主・松平容保とともに京都の治安を担いました。新選組とはともに幕府の側に立つ、近しい間柄でした(桑名城)。

藩主とともに北へ 戊辰戦争で桑名城が明け渡されたあとも、定敬は抗戦派の藩士とともに越後・会津をへて箱館へ渡りました。箱館では、定敬に従ってきた桑名藩士たちの多くが新選組に加わります。石井もその一人で、第四分隊の指図役として最後まで戦い、明治まで生き延びて明治三十六年(1903)に亡くなりました。

桑名藩士が加わった新選組と、京都以来の幹部

藩主を追って北へ

石井勇次郎は桑名藩士です。桑名藩主・松平定敬は、兄の会津藩主・松平容保とともに京都で幕府を支えた人物で、鳥羽伏見の戦いののちも新政府に降らず、柏崎・会津を経て箱館まで渡りました。定敬に従った桑名藩士たちのうち、何人もが箱館で新選組に加わっています。石井もその一人でした。

京都以来の幹部の行方

石井が入隊したころ、京都で新選組を率いた幹部の多くは、すでに隊にいませんでした。主な幹部のその後は次のとおりです。

  • 近藤勇(局長):慶応四年四月、流山で投降し、板橋で斬首
  • 沖田総司(一番組長):慶応四年五月、江戸で病死
  • 井上源三郎(六番組長):慶応四年一月、淀千両松で戦死
  • 永倉新八・原田左之助:慶応四年三月に隊を離れ、靖兵隊を結成。原田は上野戦争で負った傷がもとで死去
  • 斎藤一:会津に残って戦う
  • 土方歳三(副長):箱館政権の陸軍奉行並となり、明治二年五月十一日に戦死
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