【現地取材】宇都宮城と太平山を歩く——5日間で二度主が変わった城と、天狗党の鎮魂碑

水堀に映る宇都宮城の土塁と復元櫓

昼に餃子を食べてから宇都宮城址公園へ向かいました。妻は受付で御城印をいただいて満足そうでしたが、私の頭のなかは別のことでいっぱいでした。この城は、慶応4年4月のわずか5日間で二度も主が入れ替わった城だからです。しかもその攻防に、旧幕府軍の主だった部隊がほとんど顔をそろえている。伝習隊、回天隊、桑名藩兵、そして新選組。

この記事は、その5日間を軸に書きます。江戸期の宇都宮城も面白い城ですが、いちばん厚く書くべきは、やはり幕末です。

復元された本丸土塁と土塀。この長い土の斜面が、そのまま城の輪郭になっている
復元された本丸土塁と土塀。この長い土の斜面が、そのまま城の輪郭になっている
目次

将軍が泊まる城だった

まず押さえておきたいのは、宇都宮城が普通の城ではなかったことです。

清水門の説明板。門そのものは失われ、位置と規模が地面に表示されている
清水門の説明板。門そのものは失われ、位置と規模が地面に表示されている

説明板によれば、ここは清水門——宇都宮城本丸正面の出入口です。そして重要なのはこの一文でした。日光社参の時には、将軍もこの門を通って本丸の御成御殿に向かった。門は現存しませんが、絵図に基づいて位置と規模が地面に表示されています。

この「御成御殿」を整えたのが本多正純でした。元和5年(1619)に15万5千石で入城した正純は、縄張りを広げ、水堀をめぐらせて宇都宮城を近世城郭に作り替えます。同時に城下の日光街道と奥州街道を整え、宇都宮宿の宿場・伝馬の機能を強化した。すべては将軍の日光社参のための整備です。江戸から日光へ向かう将軍が泊まる城——それが宇都宮城の役割でした。

釣天井事件——「将軍が泊まる城」だから生まれた噂

ところが正純は、わずか3年後の元和8年(1622)に改易されます。世に言う宇都宮城釣天井事件です。将軍秀忠を暗殺するため寝所に釣天井を仕掛けた、という噂が流れました。

釣天井そのものは後世の伝説とされます。実際の改易理由は別にあった。ただ、この噂がなぜ宇都宮城で生まれたのかを考えると、話は先ほどの一点に戻ります。ここは将軍が実際に泊まる城だった。だから「寝所」という舞台装置が成立してしまう。日本中の城のなかで、この伝説が生まれうる城はごく限られていたわけです。

その後、江戸中期以降は戸田家が六万石から七万七千石で治め、幕末を迎えます。慶応4年の藩主は戸田忠友。宇都宮藩は新政府側につきました。

慶応4年4月、この城は5日間で二度主が変わった

ここからが本題です。

慶応4年(1868)4月、江戸を出た旧幕府軍が北関東を進みます。総監は大鳥圭介。フランス式の訓練を受けた伝習隊を中核に、回天隊(隊長は相馬左金吾)、歩兵第七連隊、桑名藩兵といった諸隊が加わりました。伝習第一大隊を率いたのは、会津藩士の秋月登之助(江上太郎)です。

そして別動隊の軍参謀に、土方歳三。その指揮下に新選組が約30人いました。近藤勇はすでに板橋で捕らえられる直前という時期で、新選組は隊としての形を保ちながらも、もはや土方の手駒のひとつになっていた——そんな規模です。

第一次攻城戦——4月19日、城下は焼けた

4月19日(新暦5月11日)。土方らの別動隊は蓼沼の満福寺を出陣します。

午前4時頃、砂田村に到達。ここを守っていた彦根藩の小隊を急襲しました。かつて幕府の筆頭譜代であった井伊家の兵と、幕府に殉じようとする新選組が撃ち合う。この一点だけでも、戊辰という戦争のねじれが凝縮されています。

旧幕府軍は城下に火を放ちながら進軍しました。この日の火で、宇都宮城の二ノ丸御殿、三ノ丸の藩士邸宅、そして二荒山神社まで焼失します。藩校の修道館など一部を残して、城と城下の建造物はほとんど失われました。夕刻に戦闘は終息し、旧幕府軍は宇都宮城を手に入れます。

枝越しに見上げる土塁と復元櫓。この土塁の内側が焼けた
枝越しに見上げる土塁と復元櫓。この土塁の内側が焼けた
水堀ごしの城と、堀の外に立ち並ぶ現代のビル
水堀ごしの城と、堀の外に立ち並ぶ現代のビル

ここを歩いていて、いちばん重く感じたのがこの点でした。城を落とした側が、城下を焼いている。守るためではなく、進むために焼く。宇都宮の町に住んでいた人たちにとって、旧幕府軍も新政府軍も等しく災厄だったはずです。

第二次攻城戦——4月22〜23日、新政府軍が奪い返す

旧幕府軍が城を保てたのは、わずか数日でした。

4月22日未明、旧幕府軍は新政府軍の安塚陣地に総攻撃をかけます。しかしここで押し切れなかった。そして23日早暁、新政府軍の救援軍が宇都宮城の奪還戦を開始します。

この救援軍の顔ぶれがまた濃い。指揮したのは東山道総督府参謀の有馬藤太、そして大山弥助野津七次。大山弥助はのちの大山巌、野津七次はのちの野津道貫です。日露戦争で日本軍を率いることになる二人が、このとき宇都宮の城下で銃を撃っていました。

新政府軍側には、東山道総督府の先遣隊(香川敬三)、鳥取藩兵(河田景与)、土佐藩兵(祖父江可成)、薩摩藩兵(伊地知正治)、長州藩兵、大垣藩兵が集まっていました。旧幕府軍が諸隊の寄せ集めなら、新政府軍もまた諸藩の寄せ集めです。宇都宮城の攻防は、そのまま戊辰戦争の縮図でした。

土塁の上に復元された二重櫓。城址公園には富士見櫓と清明台の二基が建つ
土塁の上に復元された二重櫓。城址公園には富士見櫓と清明台の二基が建つ

そして土方歳三は、ここで戦場を降りた

4月23日午後。松が峰門を守備していた土方歳三が、足に銃弾を受けます。

負傷した土方は戦線を離脱しました。この一発が、その後の戊辰戦争を少し変えたと思っています。宇都宮を失った旧幕府軍は日光方面へ、そして会津へ。土方は会津で療養することになり、白河や母成峠の戦いには出られませんでした。彼が再び前線に立つのは、仙台を経て蝦夷地へ渡ってからです。

京都で新選組を鬼の副長として率いた男が、下野の城門の前で足を撃たれて担ぎ出される。華々しさは何もありません。けれども、その地味な一発があったからこそ、土方は箱館まで生き延びて、あの最期にたどり着いた——とも言えます。新選組の物語を京都で終わらせず、北へ延ばしたのは、この宇都宮の負傷でした。

ちなみに新選組最後の隊長となった相馬主計も、この北関東からの敗走に加わった一人です。

いま残っているもの、失われたもの

奪還後の宇都宮城は、東山道軍が会津攻めの拠点になりました。城としての最後の仕事が、味方だったはずの東北諸藩を攻めるための基地だった、というのも皮肉な話です。

その後の歩みは駆け足でした。明治23年(1890)に城郭一帯が民間へ払い下げられ、御本丸公園が整備される。戦後は戦災復興の都市計画によって、残っていた遺構も撤去されました。つまり幕末に焼け、明治に売られ、昭和に均された。

水堀に映る土塁と櫓。この静けさが平成の復元によるものだと知ると、見え方が変わる
水堀に映る土塁と櫓。この静けさが平成の復元によるものだと知ると、見え方が変わる

いま私たちが見ているものは、平成19年(2007)3月25日に宇都宮城址公園として開園したときの復元です。本丸土塁の一部、その上に建つ富士見櫓清明台櫓、そして土塀。堀の水面に土塁が映る風景は美しいのですが、これは百五十年前に一度すべて消えたものを、市民が作り直した風景だということになります。

だからこそ、土塁の向こうに高層マンションが見えるのが、私にはむしろ正直に思えました。ここは公園に囲われた過去ではなく、街のまん中で焼けた場所なのです。

そして太平山へ——天狗党が45日間いた山

宇都宮を出て、その日の夕方に足を延ばしたのが栃木市の太平山でした。標高341メートル、謙信平からの眺めで知られる山です。

ここに石碑があります。

謙信平の南に立つ水戸天狗党鎮魂碑。風化した碑面に「勤王士」「義旗」「此地」の字が読める
謙信平の南に立つ水戸天狗党鎮魂碑。風化した碑面に「勤王士」「義旗」「此地」の字が読める

水戸天狗党鎮魂碑です。じつはこの太平山、元治元年(1864)4月14日から5月29日までの45日間、天狗党の屯所でした。最盛期には800名ほどがこの山にいたといいます。

時系列を並べると、この山の位置づけがはっきりします。3月27日に筑波山で挙兵した天狗党は62人でした。4月3日に日光を目指すも近隣諸藩に阻まれ、そこから移ってきたのがこの太平山です。62人が800人にふくれ上がったのが、まさにこの45日間だった。前回歩いた筑波山の続きが、県境を越えたこの山にあったわけです。

碑を建てたのは、幕府の学問所奉行だった男だった

碑文にはこうあります。

懐昔勤王士 義旗此地揚 方今頼無事 題石米元章
——むかし勤王の士がこの地に義の旗を揚げ、いまはそれによって世は無事である

建立は明治14年(1881)6月24日。天狗党が敦賀で処刑されてから16年後です。そして発起人が誰かを知ったとき、私はしばらく碑の前から動けませんでした。

秋月種樹(あきづき たねたつ)。日向国高鍋藩主家の人で、明治14年6月に栃木を訪れ、地元の有志と太平山に遊んだ際に発起人となってこの碑を建てました。

問題は、この人の経歴です。文久2年(1862)に幕府の学問所奉行に登用され、翌年には若年寄格を兼任。そして元治元年——天狗党が挙兵したまさにその年——に学問所奉行を解かれ、将軍徳川家茂の侍読になっています。慶応3年には若年寄を命じられますが、幕府の衰退を理由に病と称して出仕せず、薩摩藩の援助で脱出した。維新後は新政府の参与、公議所議長、元老院議官を歴任し、明治14年に隠居しています。

つまり天狗党を追討した側の政権中枢にいた人物が、隠居したその年に、追われた側の鎮魂碑を建てたということになります。しかも「勤王士」と刻んで。

彼らを賊として討った幕府はもう無く、討たれた側は「勤王の士」と呼ばれるようになった。その両方を見てきた人間が、老いてから山に登り、石に字を刻む。詩文と書に優れた人だったといいます。この四句には、勝ち負けを超えたところにある何かが込められている気がしてなりませんでした。

碑の向こうに広がる関東平野。天狗党の800人も、この眺めを毎日見ていたはずである
碑の向こうに広がる関東平野。天狗党の800人も、この眺めを毎日見ていたはずである

謙信平からの眺めは、名前のとおり見晴らしがききます。この山に45日間こもった800人は、毎日この平野を見下ろしていたわけです。ここから彼らは下り、那珂湊へ、大子へ、そして中山道を通って敦賀へ向かった。

もうひとつ、前回の筑波山と同じことがこの山にも起きています。太平山も明治以前は三光神社・大平山大権現社があり、別当寺は連祥院でした。明治の神仏分離でその関係は断ち切られ、旧仁王門は「随神門」と改称されて残っています。筑波山とまったく同じ構図です。天狗党が屯した山は、二つとも、彼らの掲げた尊皇の帰結によって姿を変えました。

歩いてみて

この日は、餃子から始まって鎮魂碑で終わりました。ずいぶん振れ幅のある一日です。

宇都宮城で見たのは、4年後の下野でした。元治元年に天狗党が太平山にいて、慶応4年に旧幕府軍が宇都宮を焼く。同じ栃木県内で、たった4年しか離れていない。しかも、天狗党を追った幕府の側だった人々が、今度は自分たちが追われる側になって城下に火を放っている。攻める側と攻められる側が、数年でくるりと入れ替わる。それが幕末という時代の正体なのだと思います。

そしてその両方を見届けた人が、明治14年に石を建てた。碑文の「方今頼無事」——いまは無事である——という一句が、いちばん重く残りました。無事になるまでに、どれだけの人が死んだのかを知っている人の言葉だからです。

妻がもらった御城印は、いま我が家の記録になっています。城の建物はほとんど残っていませんが、こうして紙の一枚に残していく人がいて、土塁を作り直す人がいて、石を建てた人がいた。史跡というのは結局、残そうとした人の積み重ねなのだと、この日はっきり感じました。

アクセスと地図

宇都宮城址公園/栃木県宇都宮市本丸町。JR宇都宮駅から徒歩約20分、バスも便利。清明台と富士見櫓は無料で入れ、土塁の上を歩けます。清水門跡の位置表示や説明板も見どころ。御城印は公園内の清明館で扱っています(配布方法は時期により変わるので現地でご確認を)。市内は言うまでもなく餃子店だらけなので、昼食を先に済ませてからの登城をおすすめします。

太平山 謙信平/栃木県栃木市平井町。水戸天狗党鎮魂碑は茶店の並ぶ謙信平の南側にあります。車で上がれ、太平山神社の随神門や参道のあじさい坂も近い。関東平野を一望できる眺望地で、名物は「太平山三味」(玉子焼き・焼き鳥・だんご)です。

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