慶応4年(1868)7月16日の夜明け前。雨の降る奥州・浅川(いまの福島県浅川町)で、川向こうの小山から大砲の音が響きました。会津・仙台・二本松・棚倉・三春の兵、あわせて千人あまりといわれる奥羽越列藩同盟の軍が、落ちた棚倉城を取り返すために、新政府軍の陣に攻めかかったのです。
ところが、山の横から新政府軍の援軍が回りこむと、同盟軍は総崩れになります。しかも同盟側の記録には、味方の三春藩が「途中で裏切った」という一文が残されていました。これが「浅川の戦い」です。この記事では、その一日を進軍図とイラスト、そして筆者が歩いた三春城跡の写真で解説します。

浅川の戦いとは?ひとことで言うと
新政府軍に奪われた棚倉城を取り返そうとした列藩同盟軍が、棚倉の北の浅川で新政府軍の陣を攻め、横から回りこまれて敗れた戦いです。この10日後、三春藩は新政府軍に降り、同盟の崩れが一気に進みます。
| 日時 | 慶応4年7月16日(1868年9月2日)未明〜午後 |
|---|---|
| 場所 | 陸奥国白川郡浅川(現在の福島県石川郡浅川町)。浅川の宿と、社川をはさんだ城山(古館山)のあたり |
| 列藩同盟軍 | 会津藩・仙台藩・二本松藩・棚倉藩・三春藩の兵。黒羽藩の記録では「千余人」 |
| 新政府軍 | 浅川を守る土佐藩・彦根藩の兵と、釜之子から駆けつけた薩摩藩・黒羽藩の援軍(約100人) |
| 損害 | 同盟軍の戦死は、仙台藩の記録で16人(新政府側の記録では20人あまり、4人など食い違う)。新政府軍は負傷2人などと記録されている |
| 結果 | 新政府軍の勝利。同盟軍は棚倉城を取り返せなかった |
なぜ浅川で戦いが起きたのか
落ちた棚倉城
白河城をめぐる戦いが続くなか、新政府軍は6月24日、白河の南東にある棚倉城を攻め落としました。棚倉藩は主力を白河口に出していたため、城はわずか一日で落ちています(棚倉城の戦い)。
棚倉を押さえられると、白河にいる同盟軍は東の側面をおびやかされることになります。そこで会津・仙台・二本松・棚倉・三春の兵が集まり、棚倉城を取り返す作戦を立てました。その足がかりとして狙ったのが、棚倉の北にある浅川の宿です。浅川には、棚倉を守る外側の陣地として、新政府軍の土佐藩・彦根藩の兵が入っていました。
三春藩という不安
同盟軍の中には、三春藩の兵もいました。5万石の三春藩は、同盟に加わってはいたものの、藩の中には新政府に通じる動きもあり、周りの藩からは疑いの目で見られていました(三春城と三春藩)。この不安が、浅川の戦いの結末に影を落とすことになります。

両軍の顔ぶれと兵力
列藩同盟軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 仙台藩 | 伊達家 62万石 |
塩森主税らが棚倉方面から攻めた。戦死者の多くは仙台藩兵だった |
| 会津藩 | 松平家 23万石 |
同盟軍の一角として加わった |
| 二本松藩 | 丹羽家 10万700石 |
同盟軍の一角として加わった |
| 棚倉藩 | 阿部家 10万石 |
城を失った藩。取り返すための戦いだった |
| 三春藩 | 秋田家 5万石 |
仙台藩の記録には、戦いの途中で「反覆(裏切り)」したとある |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 土佐藩 | 山内家 24万石 |
浅川の陣を守った。大監察の片岡健吉が監督した |
| 彦根藩 | 井伊家 25万石 |
土佐藩とともに浅川の陣を守った |
| 薩摩藩 | 島津家 77万石 |
釜之子から援軍に出た(約60人) |
| 黒羽藩 | 大関家 1万8千石 |
薩摩藩とともに援軍に出た(約30人) |
両軍の条件を比べる
| 列藩同盟軍 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 千人あまりといわれ、数では上回っていた | 浅川の守備兵に、約100人の援軍 |
| 地の利 | 社川の対岸の城山に大砲をすえ、上から撃てた | 宿場の陣で持ちこたえ、援軍を待った |
| まとまり | 五つの藩の寄せ集め。三春藩への疑いもあった | 土佐藩の指揮のもと、援軍との連携がとれていた |
| 天気 | 雨。社川は大水で、渡るのに苦労した | |
戦いの流れ

未明:城山からの砲撃
7月16日の夜明け前、雨の中を同盟軍が押し寄せました。同盟軍は浅川の北東、社川をはさんだ対岸の城山(古館山)に大砲をすえ、浅川の新政府軍の陣地に撃ちこみます。大砲の数は3門とも5門とも伝わります。歩兵も山を下りて、浅川へ攻めかかりました。
持ちこたえる浅川の陣
浅川を守る土佐藩・彦根藩の兵は、陣地にこもって撃ち返し、援軍が来るのを待ちました。社川は大雨で水かさが増しており、攻める側も守る側も、川を渡るのに苦労したといいます。

横からの援軍
やがて、西の釜之子から薩摩藩と黒羽藩の援軍約100人が駆けつけました。援軍はまっすぐ浅川へ入らず、大きく回りこんで城山の横腹に出ます。正面の浅川ばかりに気をとられていた同盟軍は、不意を突かれて山を下り、北東の滝輪の方へ逃げていきました。

「三春藩、反覆す」
仙台藩の記録には、このとき三春藩が途中で「反覆」したため、各藩が支えきれなかったと書かれています。ただし、三春藩が本当に戦場で寝返ったのかどうかは、はっきりした証拠がありません。三春藩の兵が先に退いたのを、ほかの藩が「裏切り」と受け取った可能性もあります。
いずれにしても、午後2時ごろには同盟軍は散り散りになり、新政府軍は浅川に陣を置きました。土佐藩の記録は「官軍大勝利なり」と結んでいます。

戦いのあと
三春の降伏と二本松の落城
浅川の戦いから10日後の7月26日、新政府軍が三春に迫ると、三春藩は戦わずに降りました。それどころか、新政府軍の道案内として二本松へ向かう進軍を助けたとされます。この素早い変わり身から、三春藩は同盟の藩から「三春狐」とそしられることになりました。
三春が降りたことで、二本松への道は開かれます。7月29日、二本松城は一日で落ちました(二本松の戦い)。浅川の敗北は、同盟軍が中通りで総崩れになっていく、その入口の戦いだったといえます。
永昌寺の供養塔
浅川町の永昌寺には、7月16日に戦死した同盟軍の兵を弔う供養塔が残っています。台石には町の若者たちの名が刻まれており、地元の人々が建てたものと考えられています。
この戦いが示したもの(筆者の感想)
浅川の戦いは、数では同盟軍が上回っていた戦いでした。それでも、横から回りこまれただけで崩れてしまった。五つの藩の兵が集まっても、一つの軍として動けなければ、少ない敵にも勝てません。寄せ集めの軍の弱さが、そのまま出た戦いだと思います。
そして、三春藩の「反覆」。本当に寝返ったのか、先に退いただけなのか、記録からははっきりしません。ただ、味方の中に信じきれない藩がいるという不安そのものが、すでに同盟の力を削いでいたのでしょう。疑いは、裏切りと同じくらい軍を弱くします。
筆者は三春城跡を歩いたことがあります。本丸跡は静かで、ここが「三春狐」の舞台だったとは思えないほどでした。三春藩は、小さな藩が生き残るために必死で情勢を読んだ結果、戦わずに降りる道を選びました。その選択が、浅川や二本松で戦った人々の目にどう映ったのか。どちらの立場にも、それぞれの切実さがあったのだと思います。
現地を歩く ― 浅川の戦いの史跡
- 城山(古館山)(浅川町):同盟軍が大砲をすえた山。かつての浅川城(青葉城)の跡
- 永昌寺(浅川町浅川字荒町):同盟軍戦死者の供養塔がある
- 社川:両軍が大水に苦しんだ川
- 三春城跡(三春町):三春藩の居城。本丸跡に石柱や石段が残る


あわせて読みたい
- 本宮の戦いとは?阿武隈川を渡った新政府軍と二本松藩の運命
- 【現地取材】三春城と三春藩|伊達政宗の妻・愛姫の里、そして「三春狐」
- 棚倉城の戦いとは?主力を白河口に出した棚倉藩が1日で城を失った戦い
- 二本松の戦いとは?主力不在の城が1日で落ち、二本松少年隊が散った戦い
- 白河口の戦いとは?
- 三春藩|棚倉藩|仙台藩|黒羽藩
参考にした資料
- 「浅川の戦い」(栃木、福島の戊辰戦争史跡ブログ。『仙台藩記』『黒羽藩記』『山内豊範家記』『慶応出軍戦状』などを引く)
- 三春町歴史民俗資料館「河野広中の生涯」
文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。写真は三春城跡


