1853年の黒船来航は、日本人に「海からの脅威」をまざまざと突きつけました。蒸気で動く巨大な軍艦を目の当たりにした幕府や諸藩は、自分たちも近代的な海軍を持たなければならないと痛感します。ここから、日本の海軍の歴史が動き始めました。この記事では、幕末に日本がどのように西洋式の軍艦と海軍を手に入れていったのか、その歩みをたどります。
黒船の衝撃と「大船建造の解禁」
江戸時代、幕府は大きな船をつくることを長らく禁じていました。諸藩が強力な船を持てば、幕府にとって脅威になりかねなかったからです。しかし黒船来航によって、そんなことは言っていられなくなります。海防のためには近代的な軍艦が不可欠——そう判断した幕府は、大船建造の禁を解き、西洋式の艦船を導入する方針へと大きく舵を切りました。
長崎海軍伝習所——日本海軍のゆりかご
1855年、幕府はオランダの協力を得て、長崎に「海軍伝習所」を設けます。ここでは、オランダ人教官のもとで、航海術や砲術、蒸気機関の扱いなど、近代的な海軍の技術が本格的に教えられました。のちに幕府海軍の中心となる勝海舟らも、ここで学んでいます。長崎海軍伝習所は、いわば日本の近代海軍のゆりかごともいえる存在でした。
そして1860年には、伝習所で訓練を積んだ人々を乗せた咸臨丸(かんりんまる)が、日本の艦船として初めて太平洋を横断し、アメリカへと渡ります。これは、日本がわずか数年で近代航海の実力を身につけたことを示す象徴的な出来事でした。
幕府と諸藩、それぞれの海軍
軍艦の整備に乗り出したのは、幕府だけではありません。財力と危機感のある諸藩も、こぞって西洋の軍艦を買い求め、あるいは自前で建造しようとしました。とりわけ、早くから近代化を進めていた薩摩藩や、反射炉や造船で先進的だった佐賀藩などは、独自の海軍力を築こうと努めています。佐賀藩が国産の蒸気船を完成させたことは、その技術力の高さを物語ります。
一方、幕府もオランダに発注した最新鋭艦などをそろえ、海軍力の増強に努めました。こうして幕末の日本には、幕府と諸藩がそれぞれに軍艦を保有する、いわば「群雄割拠」の海が生まれたのです。
戊辰戦争、海の戦い
幕末に整えられた軍艦は、戊辰戦争でついに実戦の場に投入されます。旧幕府海軍を率いた榎本武揚は、艦隊を率いて北へ向かい、箱館(函館)を拠点に新政府軍と戦いました。なかでも、宮古湾で行われた海戦は、日本の近代史における本格的な軍艦どうしの戦いとして知られています。陸だけでなく海の上でも、新時代をめぐる激しい戦いが繰り広げられたのです。
幕末の軍艦を一隻ずつたどる
咸臨丸をはじめ、幕末には数多くの軍艦が日本の海を行き交いました。幕府や各藩がどんな艦を持ち、どんな役割を果たしたのか——それぞれの軍艦の詳細は、幕末軍艦の一覧から一隻ずつたどることができます。船種や装備、所属した藩などを見ていくと、幕末の海の全体像が浮かび上がってきます。
まとめ
黒船来航をきっかけに、日本は大船建造の禁を解き、長崎海軍伝習所を拠点に近代海軍の技術を吸収していきました。咸臨丸の太平洋横断、幕府や薩摩藩・佐賀藩などによる軍艦の整備を経て、戊辰戦争では海の戦いも繰り広げられます。わずか十数年で近代海軍の礎を築いた幕末の歩みは、日本の技術史のうえでも見逃せません。個々の軍艦の記事とあわせて、幕末の海の世界を楽しんでみてください。

