門の両脇に、二本の石柱が立っています。右に「縣社 相馬神社」、左に「縣社 中村神社」。城の門が、そのまま神社の門になっていました。

この城から、幕末はどう見えるか
相馬中村城は幕末まで現役の城でした。慶長十六年(1611年)から明治初年まで、相馬氏歴代の居城として二百六十年続いています。
そしてこの城は、幕末に四つの顔を見せます。
- 「北の伊達氏に備えるため」に築かれた城——現地の案内板がそう書いています。その伊達と、二百五十年後に本当に向き合うことになります
- 奥羽越列藩同盟を離脱し、旧同盟軍と戦いました。慶応四年八月七日、薩摩・長州の兵がこの城に入り、降伏が確定します
- 二宮尊徳の御仕法。人口が半分以下に落ちた藩が、二十七年かけて立て直しました。城跡に尊徳の像が立っています
- 相馬野馬追。戊辰戦争のその年も、騎馬一騎だけの略式で神事は続けられました
「北の伊達氏に備えるため」

縄張図の脇に、こう書かれていました。
本城は、小規模ながら北の伊達氏に備えるため、北方に守り堅い名城といわれ、石垣が少なく土塁を巡らし多くの堀に囲まれているのも特徴で、現在も築城当時の姿をとどめています——。
相馬六万石の北隣は、仙台藩六十二万石です。十倍の相手が国境の向こうにいる。この城の設計思想は、その一点で決まっています。


築城から、天守焼失まで

案内板によれば、中村城は一名馬陵城ともいうそうです。古くこの地は天神山といわれ、中世にはその一部に館が構えられたこともありました。
慶長十六年(1611年)七月、相馬利胤が木幡勘解由長清を責任者として築城に着手し、十一月に完成、十二月二日に小高城からここへ移りました。以後、明治初年に廃されるまで、約三百年にわたる相馬氏歴代藩主の居城となります。

三重の天守は築城時の慶長十六年、本丸の西南隅に建てられました。ですが寛文十年(1670年)、落雷で焼失し、以後再建されることはありませんでした。
幕末の相馬藩には、天守がなかったことになります。高田城も明治三年の火災で御三階を失い、水戸城の御三階櫓は昭和の空襲で焼けました。城のシンボルというのは、意外なほど簡単に失われるものです。
本丸跡の中央に建つ相馬神社は、明治十三年に相馬氏の祖・相馬師常を祭神として創建されたものです。
二百五十年後、本当に伊達と向き合った
慶応四年(1868年)、相馬中村藩は奥羽越列藩同盟に加わりました。北の仙台藩、米沢藩、南の磐城平藩と連携し、浜街道を北上する新政府軍に応戦しています。
ところが、そこから先が速いのです。
七月二十九日、同盟側の藩兵への糧食の供給を停止します。八月二日、重臣会議で同盟離脱と降伏を内定しました。仙台藩の重臣が抗議に来ましたが、決定は覆りません。そして八月七日、薩摩・長州の兵と奥羽鎮撫総督・四条隆謌がこの中村城に入り、降伏が確定します。
十日足らずの出来事です。伊達に備えて築かれた城に、薩摩と長州の兵が入りました。
駒ヶ嶺、そして旗巻峠
降伏した相馬藩は、そのまま新政府軍として北へ向かいます。八月十一日、駒ヶ嶺を攻略。藩境を越えて、仙台領へ入っていきました。
そして九月十日、旗巻峠の戦い。ここには仙台藩兵千二百名が籠もっていました。新政府軍の編成を見ると、右翼部隊に「長州藩二中隊と中村藩一小隊」とあります。
北の伊達に備えて築かれた城の兵が、長州の兵と肩を並べて、伊達の陣地を攻めたのです。
旗巻峠が落ちたという報は、仙台藩の抗戦論に冷水を浴びせました。伊達慶邦は降伏を決断し、九月十五日に正式に降伏します。
もっとも、相馬藩の離脱が仙台藩の敗因だった、とまで言い切る記録は見あたりません。ただ、この城が二百五十年間ずっと想定してきた「北の相手」と、最後に本当に戦ったという事実だけは動きません。想定していた向きは合っていて、立っている側が逆になりました。
幕末の藩主は相馬誠胤。慶応元年に父・充胤の隠居を受けて家督を継いだばかりの、若い当主でした。
なぜ、城跡に二宮尊徳の像があるのか

本丸の一角に、二宮尊徳の坐像があります。薪を背負って本を読む、あの学校の銅像ではありません。羽織をまとって座した、壮年の姿です。
なぜここに尊徳がいるのか。相馬藩が、藩をあげて尊徳の仕法を導入した藩だからです。
人口が半分以下になった藩
天明・天保の飢饉で、相馬藩は壊滅的な打撃を受けました。江戸中期に約九万人だった人口が、約三万六千人まで落ちたといいます(どの飢饉によるかは資料によって記述が分かれます)。藩の借金は三十万両を超えていました。
田を耕す人がいない。年貢が取れない。倹約令を出しても追いつかない。
弟子が持ち帰った
転機は一人の藩士から始まります。富田高慶。天保十年に二宮尊徳へ入門した中村藩士です。高慶は藩の復興策として尊徳の仕法を家老・草野正辰に進言し、家老たちが藩論をまとめて藩主に上申しました。
導入を決断したのは、十二代藩主・相馬充胤です。弘化二年(1845年)十二月、成田村と坪田村から御仕法が始まりました。
ここが面白いところなのですが、二宮尊徳自身は、一度も相馬に来ていません。指導したのは弟子の富田高慶でした。尊徳は小田原や日光の仕事に追われていたのです。
それでも仕法は動きました。藩領二百二十六か村のうち百一か村で施行され、五十五か村で完了しています。四十六か村は途中で打ち切られました。数年で立ち直った村もあったそうです。
二十七年、そしてその後
御仕法は明治四年の廃藩置県で廃止されました。弘化二年から数えて二十七年です。
ただし惜しむ声が大きく、明治十年に興復社が設立され、富田高慶が初代社長として事業を縮小して引き継ぎました。明治二十三年に高慶が没すると、尊徳の孫・二宮尊親が社長となり、北海道への移民事業へと発展していきます。
そして尊徳の妻子は、明治元年に相馬へ移り住んでいます。尊徳の墓と廟も、いま相馬の西山にあります。
一度も来なかった土地に、像があり、墓がある。思想というのは、本人が行かなくても届くものらしいのです。水戸で、吉田松陰が一か月学んだことが長州を動かしたという説明板を読んだばかりだったので、なおさらそう思いました。
いまの像は昭和三十八年に復元されたものです。
戊辰の年も、一騎だけ出した


相馬といえば、相馬野馬追です。千年以上の歴史を持つとされる神事で、いまも夏に甲冑の騎馬が野を駆けます。
この神事は、藩が苦しいときには規模を落として続けられてきました。天保四年(1833年)の飢饉で藩財政が逼迫すると、翌年は略式となります。藩主の旗と代表の騎馬一騎だけを出し、神旗奉献の神事に絞ったのです。
そして慶応四年(1868年)——戊辰戦争のその年も、天保の先例にならって代表一騎の略式で神事が続けられました。
八月に城へ薩長の兵が入り、翌月には藩兵が旗巻峠で仙台藩と戦っている、その年です。それでも一騎だけは出しました。
廃藩置県で武家主導の野馬追は存続の危機に陥りますが、明治五年に太田神社の神事へ移行して生き延びました。いま毎年行われているものは、その延長線上にあります。
工事中の石垣

訪ねたとき、本丸の南側の石垣に工事のシートが掛かっていました。緑のネットが張り巡らされ、その向こうに朱塗りの橋の欄干がのぞいています。
この城は石垣が少なく、土塁と堀で守りを固めた城です。数少ない石垣が手当てを受けている最中に来合わせたことになります。少し残念でもあり、直しているところを見られたのは悪くない、とも思いました。城跡というのは、放っておけば崩れます。誰かが直し続けているから、四百年前の形が残っているのです。

朱塗りの橋を渡って本丸へ入りました。御朱印と御城印もいただきました。
歩いていて印象に残ったのは、この城の慎ましさです。六万石。天守はない。石垣も少ない。土を盛って、水を張って、それで二百六十年もちました。北に十倍の相手がいるという前提で、身の丈に合った守りを組み上げた城です。
そして最後には、その北の相手と戦う側に回りました。案内板の「北の伊達氏に備えるため」という一行を読み返すと、書いた人がどこまで意識していたかは分かりませんが、ずいぶん重い言葉だと思います。
【実録】水戸で割れた火が、白石で同盟になった ― 弘道館と常磐共有墓地、太田舞鶴城から相馬中村城・白石城、そして土浦城へ
相馬中村城を含む、水戸から白石までの一泊二日です。
【中村城跡(馬陵公園)・場所・アクセス・地図】
中村城跡は福島県相馬市中村字北町。JR常磐線・相馬駅から西へ徒歩十五分ほどです。福島県指定史跡で、指定面積は約二十三ヘクタール。城域はいま馬陵公園として整備され、本丸跡に相馬神社、城内に相馬中村神社(本殿・幣殿・拝殿が国の重要文化財)が鎮座しています。
外大手一ノ門が現存し、石垣・土塁・堀もよく残っています。本丸の藤棚、堀端の桜が季節の見どころで、二宮尊徳像は本丸の一角にあります。相馬野馬追は毎年夏に行われます。
あわせて読みたい(現地取材)
この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「中村城跡」
- 現地の案内板「本丸及び天守閣跡」
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。
