【現地取材】鹿島城跡・塚原卜伝の墓・潮来を歩く——水戸藩「南の入口」に刻まれた幕末

鹿島城本丸跡から北浦方面をのぞむ眺望

茨城県の鹿嶋市潮来市を歩きました。目当ては鹿島城跡と、剣聖・塚原卜伝の墓。正直に書いておくと、どちらも幕末の史跡ではありません。鹿島城が落ちたのは戦国の天正十九年(1591)、卜伝が世を去ったのは元亀二年(1571)です。それでも一帯を歩き終えたとき手元に残ったのは、「ここは幕末そのものの土地だった」という手応えでした。鹿島も潮来も、江戸時代を通じて御三家・水戸藩の領分。つまり、天狗党と諸生党が同じ藩の中で殺し合ったあの内乱の、まぎれもない当事者エリアなのです。

目次

まずは鹿島神宮へ——水戸徳川家がもっとも篤く仰いだ「武の社」

常陸国一之宮・鹿島神宮の祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。武の神です。この一点が、のちの水戸藩の振る舞いをほとんど説明してしまいます。

鹿島神宮の大鳥居。木肌がまだ新しい。これは平成の再建で、境内の杉から生まれた鳥居である
鹿島神宮の大鳥居。木肌がまだ新しい。これは平成の再建で、境内の杉から生まれた鳥居である

大鳥居の前に立って、まず「新しいな」と思いました。以前ここに立っていたのは昭和四十三年(1968)竣工の御影石製で、国産花崗岩としては日本最大級の鳥居だったそうです。それが平成二十三年三月十一日の地震で根元に亀裂が入り、三十分後の余震で倒れました。人的被害がなかったのは不幸中の幸いです。再建で選ばれたのは石ではなく木、しかも境内から切り出した杉四本でした。山形県酒田市の工場で乾燥・加工され、平成二十六年六月一日に竣工しています。よそから運んできた材ではなく、この森が自分で自分の門を建て直した。そう思って見上げると、新しさが急に頼もしく見えてきます。

社殿まわりは徳川づくしでした。慶長十年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の礼として本殿を建て、元和五年(1619)に二代秀忠の命で現在の社殿一式が造営される。そして寛永十一年(1634)、初代水戸藩主・徳川頼房が楼門を建てました。大宮司から「楼門と回廊が壊れて困っている」と聞いた頼房が、将軍家光の病気平癒の礼を兼ねて手を入れたと伝わります。この楼門はいま重要文化財で、日本三大楼門のひとつ。社領は慶長七年(1602)の加増で二千石。一介の神社としては破格の扱いです。

斉昭は鹿島の神を「学校」と「軍艦」に載せた

ここからが、今回いちばん面白かったところです。

九代藩主・徳川斉昭は、鹿島神宮への関わり方が歴代でも突出していました。天保五年(1834)には五百名を超える家臣を引き連れて参詣しています。歴代藩主の参詣として最大規模でした。さらに異国船が姿を見せて国が揺れると、鹿島神宮に祈祷を依頼している。ただし斉昭は、神頼みで終わる人ではありません。やったことはもっと即物的でした。

ひとつは学校です。斉昭は藩校・弘道館に鹿島神宮の武甕槌神を勧請しました。天保十二年(1841)に創建が決まり、安政四年(1857)五月に正式に分祀されています。孔子を祀る学校に、あえて日本の神を並べて祀る。「神は道の本であり、孔子の教えはその道を助け広めるもの」という理屈で、神道と儒学をひとつの学び舎に同居させた。水戸学が何を目指していたのかが、建物の配置そのものに出ています。

もうひとつが軍艦でした。斉昭は、水戸藩が建造した洋式軍艦「旭日丸」の船内にも、鹿島の神の分霊を勧請しています。旭日丸は黒船来航の翌年、嘉永七年(1854)正月に江戸・石川島で起工され、進水の際に船体が横転する事故を経て、安政三年(1856)ごろに竣工しました。完成した船は水戸藩から幕府へ献上され、幕府海軍で運用されます。任務の中心は輸送でしたが、慶応二年(1866)の第二次長州征討では大島口で陸上への砲撃も行い、戊辰戦争も生き延びました。

攘夷を叫んだ藩が、西洋式の船を自力で造り、その船に鹿島の武神を乗せて幕府へ差し出す。矛盾しているようで、当人たちの中ではおそらく一本の筋でした。海防のための船であり、その船を守るのは日本の神である、と。鹿島神宮の森の静けさと、石川島の造船台の騒がしさが、斉昭の頭の中では地続きだったわけです。幕末の軍艦水戸藩の話も、鹿島から見上げるとずいぶん手ざわりが変わってきます。

鹿島城跡——「幕末には城でなかった城跡」を歩く

神宮から少し走ると、丘の上が鹿島城跡です。現在は鹿島城山公園。二の丸ほかの区域には県立鹿島高等学校が建っています。

鹿嶋市教育委員会の説明板。鎌倉時代初期から天正十九年の落城まで、約四百年この城が鹿島氏の居城だったと記す
鹿嶋市教育委員会の説明板。鎌倉時代初期から天正十九年の落城まで、約四百年この城が鹿島氏の居城だったと記す

説明板によれば、鹿島城は鎌倉時代初期のおよそ八百年前から、天正十九年(1591)に佐竹氏によって落城するまでの約四百年間、鹿島氏(常陸大掾氏族)の居城でした。永正の終わりごろ、一五二〇年前後に義幹が大改造をおこない、それが高天原合戦と呼ばれる一族の内紛につながったと『鹿島治乱記』は伝えます。昭和五十九年の発掘調査では萱葺きの痕跡や地鎮の祭祀遺物、墨書土器などが出土しました。昭和六十三年から城山公園として整備が進み、いまは桜とやつつじの名所です。

明治二十六年七月建立の鹿嶋城址記念碑。左は現代文訳の解説板で、碑文をていねいに読み下している
明治二十六年七月建立の鹿嶋城址記念碑。左は現代文訳の解説板で、碑文をていねいに読み下している

本丸跡には背の高い記念碑が立っています。明治二十六年(1893)七月の建立、撰文は鹿嶋吉川久勤。すぐ隣に現代文訳の解説板が併設されていて、これがありがたい。碑文は鹿島氏の出自から城の来歴、佐竹氏による滅亡までを述べたうえで、こう嘆きます——先代の遺跡が、ひょっとすると消滅してしまうのではないか。だから子孫が碑を建てて後世に伝えようとした、と結ばれています。

明治二十六年といえば、廃藩置県から二十年あまり。武士の世が終わり、城も屋敷も次々に姿を消していった時期です。碑を建てた人は、幕末維新という地滑りを実際に生きた世代でしょう。「消えてしまう」という危機感が、そのまま石になっている。この石碑自体が幕末以後の産物なのだと気づいたとき、城跡の見え方が変わりました。

記念碑の脇から北浦方面をのぞむ。手前は稲の実った水田、その向こうに水面が光る
記念碑の脇から北浦方面をのぞむ。手前は稲の実った水田、その向こうに水面が光る

碑のわきに立つと、視界がひらけます。手前に稲の実った水田、その先に北浦の水面。ここは水運の内側なのだと、地形が一目で教えてくれる場所でした。この水はやがて常陸利根川に注ぎ、潮来を経て江戸へつながる。城が城でなくなったあとも、この土地の値打ちは水路の要衝であり続けたわけです。

本丸まわりに残る空堀。草に覆われても輪郭は明瞭で、深さがしっかり残る
本丸まわりに残る空堀。草に覆われても輪郭は明瞭で、深さがしっかり残る
別角度から見た空堀。人の背丈をはるかに超える落差がある
別角度から見た空堀。人の背丈をはるかに超える落差がある

遺構としては、この空堀がいちばんの見どころだと思います。江戸時代に入って泰平の世になると防御施設は不要とされ、二重三重にあったという堀は埋められていきました。国道五十一号の建設時にはさらに空堀が埋め立てられ、道になっています。それでも本丸まわりには、覗き込むのが少し怖いくらいの堀が残っていました。城としての鹿島城は戦国で終わりましたが、土だけは正直です。

そして幕末。鹿島城はこの時代、もう城として使われていません。この記事で「幕末の城」と書かないのはそのためです。ただし土地は別でした。ここは水戸藩領であり、元治元年(1864)の天狗党の乱では戦場になっています。筑波山で挙兵した勢のうち、藤田小四郎らの本隊と別れて江戸へ進撃した一派が、鹿島付近で幕府軍に敗れました。城のなくなった城下のまわりで、水戸の人間が撃ち合っていたのです。

剣聖・塚原卜伝——鹿島の剣は、どうやって幕末に噴き出したか

鹿嶋のもうひとつの顔が、剣です。市街地の一角、集合住宅を背にした小さな広場に、その人は立っていました。

「剣聖 塚原卜伝生誕之地」の標柱。奥に銅像が見える
「剣聖 塚原卜伝生誕之地」の標柱。奥に銅像が見える
木刀を手にした塚原卜伝の立像。生活道路のすぐ脇に、当たり前のように立つ
木刀を手にした塚原卜伝の立像。生活道路のすぐ脇に、当たり前のように立つ

史跡というより、町の広場でした。背後は普通のマンションで、正面には入居者募集の看板が下がっている。生涯無敗と伝わる剣豪の生誕地が、こうも日常の中に置かれているのが、かえって鹿嶋らしいと思いました。剣がこの土地にとって特別なものではなく、地元のものだという感じがします。

墓所は市の南、須賀にあります。

「剣聖塚原卜伝先生墓地入口」の標柱。ここから細い道を上がっていく
「剣聖塚原卜伝先生墓地入口」の標柱。ここから細い道を上がっていく
覆屋に守られた塚原卜伝の墓。花と賽銭箱があり、いまも詣でる人が絶えない
覆屋に守られた塚原卜伝の墓。花と賽銭箱があり、いまも詣でる人が絶えない

集落の墓地の奥、覆屋の下に素朴な石が立っていました。造花と生花、水のペットボトル、線香。いまも参る人が絶えない墓だと、ひと目でわかります。剣道をやっている人が訪ねるのでしょう。所在地は鹿嶋市大字須賀五〇三番地、かつての梅香寺跡にあたります。

墓のかたわらに掲げられた説明板。鹿嶋市史跡第一号、昭和四十六年十月二十日の指定である
墓のかたわらに掲げられた説明板。鹿嶋市史跡第一号、昭和四十六年十月二十日の指定である

この説明板の中身が、じつによく書けていました。要点だけ拾うと——卜伝は延徳元年(1489)、鹿島神宮の神職である卜部家・吉川覚賢の二男として生まれ、幼名を朝孝といった。幼くして塚原安幹の養子となり、元服して塚原新右衛門高幹と名乗る。父からは鹿島の太刀を、師の松本備前守からは天真正伝香取神道流を学び、永正二年(1505)、十六歳で最初の廻国修行に出る。以後十四年、真剣勝負と戦場を重ねた。永正十五年に帰国すると鹿島神宮に千日籠り、大永三年(1523)に悟りを得て二度目の廻国修行へ。天文元年(1532)に戻ると塚原城主となり、妻を迎える。しかし妻が亡くなると城を養子に譲って三度目の旅に出て、京では将軍足利義輝や伊勢の北畠具教ら多くの大名・武人に剣を教えた。十一年後に鹿島へ戻り、塚原城近くの草庵で弟子に剣を指南しながら、元亀二年(1571)、八十三歳の生涯を閉じた。

そして説明板は、こう締めくくります。親子が、兄弟が、血で血を争う戦国時代にあって「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」——活人剣と平和思想をもって生ききった卜伝を、人々はいつしか剣聖と呼んだ、と。

その一文の前で、しばらく立っていました。ここから約三百年後、同じ常陸国で、水戸藩の人間が水戸藩の人間を斬るのですから。

剣を奨励した藩が、剣に足をすくわれる

卜伝の流れをくむ鹿島新當流は、いまも茨城県の無形文化財として伝えられています。では、その「剣の国」は幕末に何をしたか。

斉昭は剣にも本気でした。天保十年(1839)、江戸で玄武館を構えて名を上げていた千葉周作を、水戸藩の剣術師範に招きます。天保十二年には馬廻役として百石。次男の栄次郎、三男の道三郎も同じく水戸藩の馬廻役になりました。周作が創始した北辰一刀流は、北辰夢想流と小野派一刀流中西派を合わせたもので、掛かり稽古中心の実戦的な指導と、免許の段階を三つに簡素化した合理性で、江戸の道場界を席巻していた流派です。

その門からは、のちの日本を動かす人間が続々と出ます。浪士組を建策した清河八郎、江戸無血開城の山岡鉄舟、そして新選組の山南敬助。昌平坂学問所で学問を、玄武館で剣を——という組み合わせが、幕末の江戸には確かにありました。

ところが水戸藩では、この北辰一刀流が一時禁止されます。周作の門弟・塚田孔平が弘道館で会沢正志斎ら藩の中枢と交わり、天狗党の乱に関与したためでした。剣術を奨励して人を集めた藩が、その剣術を自ら封じる。剣を育てた藩が、剣に足をすくわれたのです。

卜伝が「人を活かす道」と言い残した土地で、剣は人を殺す道具に戻り、しかも身内へ向かった。墓前で読んだ活人剣の一行が、そのあとずっと頭に残りました。

潮来——水戸藩の南の玄関口、そして党争の場

鹿嶋から常陸利根川を渡れば潮来です。ここも水戸藩領でした。正確には、潮来市の説明によれば、江戸時代のこの一帯は御三家・水戸藩領(旧香澄・八代・潮来・津知・延方の各地区)と、外様大名の麻生藩領(旧大生原地区)に分かれていました。

潮来のろ舟遊覧。舟から見る水面は低く、両岸の石積みが目の高さに来る
潮来のろ舟遊覧。舟から見る水面は低く、両岸の石積みが目の高さに来る

江戸期の潮来は、下総の佐原と並ぶ水運の要所です。東北諸藩から江戸へ運ばれる米・海産物・材木といった物資は、銚子から利根川をさかのぼり、この潮来を経由して江戸へ入りました。前川沿いにはその名残の河岸が並びます。津軽河岸、仙台河岸、大門河岸、上米(城米)河岸、天王河岸——藩の名がそのまま河岸の名になっているのが、この町の性格を言い切っています。

どれくらい儲かっていたか。水戸藩が御用金制度をはじめた元禄十三年(1700)、潮来の商人の献金額は藩全体の三分の一を占めたといいます。三十五万石の藩の財布の三分の一が、この水辺の町から出ていた。遊郭や引出茶屋が軒を連ね、江戸から文人墨客が舟でやってきては作品を残した、という賑わいも納得です。

そして幕末。潮来市の説明は端的です。幕末期の潮来地方は、水戸藩の潮来郷校と潮来陣屋が置かれたため、天狗派と諸生派の党争の場となった——と。天狗党の激派は、根拠地ごとに筑波勢潮来勢といった集団に分かれ、それぞれ独自に動き回っていました。潮来は「潮来勢」という名前を持つほどの拠点だったのです。

隣の行方には、麻生藩に処刑された天狗党員を供養する天狗塚があり、大宮神社の境内には天狗党の忠魂碑が建っています。舟から見た穏やかな水郷の風景と、この事実の落差は、正直かなりこたえました。

なお、訪ねたのは初秋のこと。あやめまつりは五月下旬から六月にかけての行事なので、花の季節はとうに過ぎていました。あやめは見られませんでしたが、そのぶん舟はゆったりで、船頭さんの櫓の音がよく聞こえます。昼はうなぎをいただきました。霞ヶ浦・北浦の水郷らしい昼食で、これはこれで正解だったと思っています。

歩いてみて

この日まわった四か所——鹿島神宮、鹿島城跡、塚原卜伝の墓、潮来——のうち、幕末に直接ゆかりのある「建物」はひとつもありません。城は戦国で落ち、卜伝は戦国の人で、神宮の社殿は江戸初期のもの、潮来の河岸は跡地です。

それでも歩き終えてみると、幕末の輪郭がやけにはっきりしていました。武の神を仰ぎ、剣を育て、水運で富を集めた土地。その三つがそろっていたからこそ、水戸藩の攘夷は思想で終わらず、人と金と武力を伴って暴走できたのだと思います。斉昭が鹿島の神を軍艦に載せ、卜伝の国に千葉周作を呼び、潮来の商人の金が藩を支えた。天狗党の乱は、この土地の資源がそのまま燃料になった事件でした。

史跡そのものより、史跡と史跡のあいだにある線を見にきたような一日でした。城跡の空堀の底に立って北浦の方角を見上げたときの、あの手応えは写真ではうまく伝わりません。ぜひ現地で。

アクセスと地図

鹿島城山公園(鹿島城跡)/茨城県鹿嶋市城山。鹿島神宮駅から歩ける距離で、鹿島神宮からも近い。本丸跡が公園、二の丸ほかは県立鹿島高校。駐車場あり。

塚原卜伝の墓/茨城県鹿嶋市大字須賀503(梅香寺跡)。集落の墓地の一角にあります。塚原卜伝の銅像・生誕之地は鹿嶋市街の広場にあり、両者は少し離れているので順路にご注意を。

潮来/茨城県潮来市。前川沿いが河岸跡と水郷潮来あやめ園。あやめまつりは五月下旬から六月で、ろ舟遊覧もその時期が本番です。花の季節を外すとあやめはありませんが、舟自体は静かで良いものでした。

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