2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
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明治4年(1871)1月、東京・麹町の屋敷で、明治政府の参議・広沢真臣(ひろさわ さねおみ)が刺し殺されました。木戸孝允・大久保利通と並ぶ新政府の中心人物で、のちに「維新の十傑」のひとりに数えられる長州藩出身の政治家です。
明治天皇は犯人を必ず捕らえるよう命じる異例の詔(みことのり)を出し、80人を超える人々が取り調べを受けました。それでも犯人は見つからず、事件はいまも謎のままです。
誰が、なぜ、広沢を殺したのか。幕末から明治へ移る時代に起きた「未解決の暗殺事件」を、わかっていることと、わかっていないことを分けながら見ていきます。
先に答え—広沢真臣暗殺とは
| いつ | 明治4年(1871)1月8日の夜から9日の未明にかけて。命日は一般に1月9日(西暦1871年2月27日)とされます |
|---|---|
| どこで | 東京・麹町富士見町(いまの東京都千代田区富士見)の広沢の私邸 |
| 誰が | 不明。不平士族や旧幕府方の残党、政府内の対立など諸説ありますが、犯人は特定されていません |
| 誰を | 明治政府の参議・広沢真臣(長州藩出身、満37歳・数え39歳) |
| なぜ | 動機もわかっていません。新政府の改革に反発する者の犯行とみる説が有力ですが、決め手はありません |
| その後 | 明治天皇が犯人逮捕を命じる詔を出し、80数人が取り調べを受けました。屋敷の家令(執事)や同じ部屋にいた女性らが疑われて裁判にかけられましたが、明治8年(1875)に全員無罪。明治13年(1880)の別の被告の裁判も無罪で、事件は迷宮入りしました |
広沢真臣はどんな人だったのか
広沢真臣は天保4年12月29日(1834年2月7日)、長州藩士・柏村安利の四男として萩に生まれました。11歳のとき、同じ藩士の波多野家に養子に入り、「波多野金吾」と名乗ります。のちに藩命で「広沢」と姓を改め、通称を兵助、名を真臣としました。
藩校・明倫館に学び、黒船が来航した嘉永6年(1853)には江戸湾の大森台場の警備に出ています。兄の柏村数馬が藩主の世子・毛利元徳の側近だったことから藩政にかかわるようになり、桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞とともに京都で藩の実務を担いました。
元治元年(1864)、禁門の変で長州藩が敗れると、藩の中では幕府に従おうとする一派が力を持ち、広沢も萩の野山獄に入れられます。しかし翌年、高杉晋作らが藩の実権を取り戻すと、広沢は出獄し、藩政の中心に戻りました。
広沢の持ち味は、交渉と実務でした。慶応2年(1866)、幕府が長州を攻めた戦いの休戦交渉では、安芸の宮島で幕府側の勝海舟と向き合っています。坂本龍馬とも会い、薩摩藩との協力や、長州と薩摩の産物を扱う商社づくりの話し合いにも加わりました。慶応3年(1867)には、大久保利通らとともに「討幕の密勅」が下されるよう動いています。
木戸孝允が表に立って藩の方針を決めるとすれば、広沢はその裏で交渉をまとめ、実務を回す人でした。木戸のよき相棒であり、代理人でもあったのです。
時代背景—生まれたばかりの明治政府

慶応4年(1868)に戊辰戦争が始まると、広沢は新政府の参与となり、軍務や内政の仕事を受け持ちました。戊辰戦争では、会津藩などに対して寛大な処分を求める立場をとり、米沢藩士の宮島誠一郎と話し合って、会津藩を新政府に帰順させるための働きかけもしています。
明治2年(1869)、広沢は維新に功のあった者として、木戸・大久保と同じ1800石の永世禄(えいせいろく)を与えられました。民部官(のちの民部省)の副知事や民部大輔を務めたのち、参議となります。参議は、いまでいえば内閣の中心メンバーにあたる重職です。木戸とともに版籍奉還を進め、藩の領地と人民を朝廷に返させる大改革にも関わりました。
しかし、この時期の新政府は決して安定していませんでした。武士の特権がしだいに奪われていくことへの不満、開国へと方針を変えた政府への反発。新政府の要人は、つねに命を狙われていました。
| 明治2年1月 | 横井小楠(参与)—京都・寺町で斬られる |
|---|---|
| 明治2年9月 | 大村益次郎(兵部大輔)—京都の旅館で襲われ、のちに死去 |
| 明治4年1月 | 広沢真臣(参議)—東京の私邸で殺される |
広沢は、わずか2年のあいだに相次いで命を奪われた新政府の要人の、3人目でした。
事件当夜の模様—麹町の屋敷で何が起きたのか

明治4年1月8日。広沢は、麹町富士見町の私邸で宴を開いていました。宴が終わり、屋敷が寝静まった深夜から9日の未明にかけて、何者かが寝所に忍び込み、広沢を襲います。命日は一般に1月9日とされますが、8日とする記録もあるのはこのためと考えられます。
広沢の体には十数か所の傷があったと伝えられます(法制史家・尾佐竹猛の研究などでは13か所、15か所とする本もあります)。のどには突き傷があったともいい、逃げる間も、助けを呼ぶ間もないまま、命を奪われたと考えられます。満37歳(数え39歳)でした。
ところが、現場にはふしぎな点が多くありました。同じ部屋にいた妾(めかけ)の福井かねは、軽い傷を負っただけで命は助かっていたのです。屋敷の中のことをよく知る者が関わったのではないか—捜査の目は、やがて屋敷の内側に向けられていきます。
捜査—天皇の詔と80人の容疑者
政府の中心にいた参議が、首都の自宅で殺された。この事件は、新政府に大きな衝撃を与えました。しかし犯人は捕まりません。事件から1か月半ほどたった明治4年2月25日、広沢を深く信頼していた明治天皇は、犯人を天下に探し求めるよう命じる詔を出します(国立公文書館に「詔シテ広沢参議暗殺ノ賊ヲ天下ニ索ム」の記録が残っています)。暗殺事件の捜査について天皇がじきじきに詔を出すのは、きわめて異例のことでした。
捜査は大がかりなものになりました。新政府に不満を持つ士族、旧幕府方の残党、攘夷を唱える者など、80数人が容疑者として取り調べを受けたといわれます。その中には、討薩の檄文で知られた米沢藩士・雲井龍雄の一派や、尊王攘夷派の小河一敏らも含まれていました。
また、この捜査の過程で、開国へと方針を変えた政府に反発する攘夷派が、公家の愛宕通旭(おたぎ みちてる)・外山光輔(とやま みつすけ)らを担いで政府転覆をはかった計画も明るみに出ます(二卿事件)。広沢の暗殺そのものとは別の事件ですが、当時の政府がどれほど多くの反対勢力を抱えていたかがわかります。
疑いはしだいに、屋敷の内部へ向かいました。屋敷の家令(家の事務を取り仕切る執事)の起田正一と、同じ部屋にいた福井かねです。取り調べには拷問も使われ、ふたりは密通を認め、起田は犯行も自白したとされます。家令が広沢家の金を勝手に使っていたことも明らかになりました。いったんは、男女の仲のもつれから起きた事件として片づけられそうになったのです。
裁判と迷宮入り—「参座」による異例の裁判

事件から4年後の明治8年(1875)、家令の起田らを含む5人が被告として裁判にかけられます。この裁判のために、政府は「広沢故参議暗殺事件別局裁判規則」という特別な規則までつくりました。
注目されるのは、「参座(さんざ)」と呼ばれるしくみが取り入れられたことです。裁判官のほかに、政府が任命した役人たち(はじめ7人、のちに12人)が審理に加わり、有罪か無罪かの判断にかかわりました。西洋の陪審制度を参考にしたものですが、一般の市民ではなく役人が選ばれた点で、いまの陪審とは違います。また、被告のために弁護する「弁護官」も、司法省の役人の中から置かれました。明治のはじめの司法制度を知るうえでも、注目される裁判です。
法廷で、起田は自白をひるがえしました。殺す理由もはっきりせず、拷問による自白のほかに決め手はありません。判決は、5人全員が無罪でした。
事件はこれで終わりませんでした。明治13年(1880)にも、同じ事件で別の人物が被告として立てられ、同じ規則のもとで裁かれましたが、こちらも無罪となっています。
多くの人があきらめていくなかで、最後まで捜査を急がせ続けたのが木戸孝允でした。木戸は日記に、王政一新のときに政府の中で自分を助けてくれたのは広沢ひとりだった、その死の知らせは兄弟を失ったのにも等しい悲しみだ、という思いを書き残しています。しかし犯人は見つからず、広沢暗殺は、日本の近代史に残る未解決事件となりました。
犯人は誰か—残された諸説
犯人がわからない以上、さまざまな説が語られてきました。主なものを整理すると、次のようになります。
| 不平士族説 | 横井小楠や大村益次郎を襲ったのと同じく、新政府の改革に不満を持つ士族や攘夷派のしわざとする説。最も一般的な見方です |
|---|---|
| 旧幕府方残党説 | 戊辰戦争で敗れた旧幕府方や東北諸藩の残党による報復とする説 |
| 屋敷内部説 | 家令の起田正一と福井かねが関わったとする説。現場の不自然さから当時も強く疑われましたが、自白は拷問によるもので、裁判では無罪になっています |
| 政府内対立説 | 同じ長州出身の木戸孝允と広沢の仲が悪かった、あるいは大久保利通が広沢の力を警戒した、として木戸や大久保を黒幕とする説。当時からうわさされました |
このうち政府内対立説は、話としてはおもしろいものの、根拠は弱いといえます。この時期、木戸・大久保・西郷隆盛らは廃藩置県の準備や自藩の改革のため東京を離れることが多く、その留守を任されていたのが広沢でした。木戸が最後まで捜査を急がせていたことも、木戸黒幕説とは合いません。大久保黒幕説も、のちに大久保自身が関与を強く否定しており、裏づける史料はありません。
西郷隆盛は、広沢について「温厚篤実の君子で、人の恨みを買うような人ではない。おそらく人違いで殺されたのだろう」という意味のことを語ったと伝えられます。人違いだったのか、それとも狙われた理由が別にあったのか。それすら、いまもわかっていません。
事件のその後—「もし広沢が生きていたら」
広沢には亡くなってすぐに正三位が贈られ、大正10年(1921)には従二位が追贈されました。明治12年(1879)には、維新の功によって遺児の金次郎が華族に列せられます。華族令ができる前に華族となった維新の功臣の家は、木戸家・大久保家・広沢家の3家だけでした。金次郎は明治17年(1884)に伯爵となっています。
広沢が残した日記『広沢真臣日記』は、木戸や大久保の日記と並んで、明治維新を知るための重要な史料とされています。
佐賀出身の政治家・副島種臣は、のちに「広沢が刺客に倒れず、木戸・大久保と並んで政府にいたなら、大久保といえども権力をひとり占めすることはできなかっただろう」という意味のことを語ったといわれます。明治のはじめ、政府は木戸・大久保・広沢らが支え合って動いていました。その一角が突然欠けたことは、のちの「大久保独裁」とも呼ばれる政治の形にも影響を与えたのかもしれません。
広沢真臣ゆかりの地
- 麹町富士見町の私邸跡(東京都千代田区富士見):事件の現場。いまは当時の面影はほとんど残っていません。
- 松陰神社(東京都世田谷区):広沢の墓所。はじめ芝の青松寺に葬られ、のちに吉田松陰の墓の近くに移されました(墓所の中には立ち入れません)。
- 広沢真臣の墓(山口県山口市赤妻町):ふるさと山口にまつられた広沢の墓。
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✎ 筆者のひとこと
木戸・大久保・西郷の名は誰でも知っていますが、広沢真臣の名を知る人は多くありません。それほどの人物が首都の自宅で殺され、犯人すらわからないまま150年以上がたっている—調べるほどに、明治のはじめがどれほど不安定な時代だったかを感じます。
拷問で自白させられ、のちに無罪となった人がいたことも忘れてはいけないと思います。謎の事件ほど、わかっていることとわからないことを分けて見ることが大事なのかもしれません。


