慶応4年(1868)7月27日。奥州街道の宿場・本宮(いまの福島県本宮市)の目の前を流れる阿武隈川に、新政府軍の兵が次々と飛びこみました。向こう岸の二本松藩兵が渡し舟を押さえていたため、泳いで舟を奪いに行ったのです。
本宮を落とせば、二本松城と郡山にいる同盟軍の主力のあいだに楔を打ちこめる。翌28日には、本宮を取り返そうと仙台藩兵が押し寄せますが、これも退けられました。二本松落城の二日前に起きた「本宮の戦い」です。この記事では、阿武隈川をはさんだ二日間を進軍図とイラスト、そして筆者が歩いた二本松城跡の写真で解説します。

本宮の戦いとは?ひとことで言うと
三春藩を降した新政府軍が、二本松城と郡山のあいだにある本宮を、阿武隈川を渡って奪い、取り返しに来た仙台藩・二本松藩の兵を退けた戦いです。この戦いで、二本松城は南からの援軍を断たれました。
| 日時 | 慶応4年7月27日〜28日(1868年9月13日〜14日) |
|---|---|
| 場所 | 陸奥国安達郡本宮・高木・糠沢のあたり(現在の福島県本宮市) |
| 新政府軍 | 板垣退助の支隊。薩摩藩・土佐藩・大垣藩・黒羽藩、降ったばかりの三春藩・守山藩など |
| 同盟軍 | 二本松藩兵、28日は仙台藩兵を中心とする部隊(指揮・塩森主税) |
| 損害 | 27日、糠沢で二本松藩兵26人が戦死。28日までの戦いで、仙台藩51人・二本松藩93人が戦死、新政府軍の死傷は26人とされる |
| 結果 | 新政府軍が本宮を押さえた。二日後の7月29日、二本松城が落ちる |
なぜ本宮で戦いが起きたのか
三春藩の降伏
7月16日の浅川の戦いで棚倉城の奪回に失敗した同盟軍に、さらに大きな打撃が加わります。7月26日、新政府軍が三春に迫ると、三春藩は戦わずに降り、新政府軍を城に迎え入れました(浅川の戦い)。翌27日には、三春の西の守山藩も新政府に降ります。
このとき、二本松藩の主力は仙台藩とともに、三春の南西の郡山にいました。三春がこれほどあっさり開城するとは、仙台藩も二本松藩も考えていなかったのです。新政府軍は、郡山にいる同盟軍の主力の北側に回りこむ形になりました。

二本松と郡山のあいだ
平潟から北上してきた軍も三春で合流し、板垣退助の支隊は兵力を倍以上にふくらませます。板垣が狙ったのは、北の二本松城と南の郡山のちょうど中間にある本宮でした。本宮を押さえれば、郡山の同盟軍は二本松へ戻れなくなります。
二本松藩では、新政府軍が迫るなかで降伏するかどうかの軍議が開かれましたが、家老の丹羽一学の「死を賭して信義を守るは武士の本懐」という言葉で、戦う道が選ばれました(二本松藩)。
両軍の顔ぶれと兵力
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 薩摩藩 | 島津家 77万石 |
3隊が土佐藩2小隊とともに、独断で糠沢に夜襲をかけた |
| 土佐藩 | 山内家 24万石 |
板垣退助が率いた。断金隊長の美正貫一郎が阿武隈川で戦死 |
| 黒羽藩 | 大関家 1万8千石 |
先鋒として高木で二本松藩兵とぶつかり、阿武隈川の舟を奪った |
| 大垣藩 | 戸田家 10万石 |
本宮へ向かった諸隊の一つ |
| 三春藩・守山藩 | 秋田家5万石 松平家2万石 |
降ったばかりの藩。土地に詳しいため道案内をつとめた |
同盟軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 二本松藩 | 丹羽家 10万700石 |
本宮と糠沢に兵を置いていた。主力は郡山にいて、本宮には予備の兵しかいなかった |
| 仙台藩 | 伊達家 62万石 |
28日、塩森主税の指揮で郡山から本宮を取り返しに出た |
両軍の条件を比べる
| 新政府軍 | 同盟軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 平潟の軍と合流して倍以上に増えていた | 主力は郡山。本宮・糠沢には少ない兵しかいなかった |
| 道案内 | 降ったばかりの三春藩・守山藩が土地をよく知っていた | 地元だが、三春の寝返りで背後をとられた |
| 地の利 | 阿武隈川を渡らなければ本宮に入れない | 川を盾にし、舟を押さえていた |
| 指揮 | 薩摩藩が板垣に知らせずに抜け駆けするなど、足並みに乱れもあった | 28日、総司令官は郡山に残り、動かせたのは兵の一部だけだった |
戦いの流れ

7月27日深夜:糠沢の夜襲
新政府軍は、二本松藩兵が本宮と、その東の糠沢にいることをつかみ、大垣藩・三春藩・土佐藩・黒羽藩などをまず本宮へ向かわせました。ところがそれとは別に、薩摩藩の3隊と土佐藩の2小隊が、自分たちの判断で動いていました。彼らは深夜に糠沢へ夜襲をかけて大勝し、二本松藩兵26人が戦死します。
この夜襲は、本宮へ向かった味方には知らされていませんでした。板垣の慎重な指揮に不満をもった薩摩藩の抜け駆けだったともいわれます。
高木での遭遇
本宮にいた二本松藩兵は、糠沢を助けるため兵を分け、4小隊が舟で阿武隈川を渡って、対岸の高木へ向かいました。しかしその途中、本宮をめざしていた新政府軍の黒羽藩兵とばったり出会います。すぐに後続の新政府軍と、糠沢から来た薩摩藩・土佐藩の兵が殺到し、二本松藩兵は打ち破られました。

阿武隈川の舟を奪え
新政府軍はそのまま本宮へ向かいますが、高木と本宮のあいだには阿武隈川が流れています。渡るには舟が必要でした。先鋒の黒羽藩兵と土佐藩兵は、二本松藩の舟を奪おうと川に飛びこみます。向こう岸からの狙撃で、三春藩の降伏に力を尽くした土佐藩断金隊の隊長・美正貫一郎が撃たれて戦死しました。
新政府軍は大砲と銃で対岸を撃ちつづけて援護し、土地に詳しい三春藩・守山藩の案内で、黒羽藩兵がついに舟を手に入れます。舟で敵の目の前の川を渡った新政府軍は、本宮になだれこんで二本松藩兵を追い払い、宿場を押さえました。

7月28日:仙台藩の反撃
本宮を奪われたことで、郡山の同盟軍は北の二本松から切り離されてしまいました。28日、本宮を取り返すため、仙台藩兵を中心とする部隊が郡山から出陣します。指揮をとったのは、浅川の戦いでも戦った塩森主税でした。
塩森は、東を阿武隈川にふさがれた本宮を、北・西・南の三方から囲もうと考えます。しかし総司令官の坂英力は郡山に残り、動かせたのは兵の一部だけでした。北と西に回す兵が足りず、包囲はかないません。同盟軍の部隊はばらばらに新政府軍とぶつかり、それぞれ打ち破られていきました。

この二日間の戦いで、同盟軍は仙台藩51人、二本松藩93人が戦死したとされます。新政府軍の死傷は26人でした。
戦いのあと
二本松城の落城
本宮を押さえた新政府軍は、7月29日、二本松城へ攻めかかりました。二本松藩の主力は郡山などに出ていて城には戻れず、城を守ったのは老人や少年たちでした。二本松城はその日のうちに落ち、少年隊の悲劇が生まれます(二本松の戦い)。
本宮の戦いは、その二本松落城の直前に、南からの援軍の道を断った戦いだったのです。
そして会津へ
二本松を落とした新政府軍は、8月21日に母成峠を破って会津へなだれこみます(母成峠の戦い)。三春の降伏から本宮、二本松、母成峠へ。7月の終わりからわずか一か月足らずで、奥州の戦いの形勢は大きく変わりました。

この戦いが示したもの(筆者の感想)
本宮の戦いを見ると、三春藩の降伏がどれほど大きな意味をもっていたかがわかります。三春が降りたことで、新政府軍は郡山の同盟軍の背後に回りこみ、しかも三春藩・守山藩という道案内まで手に入れました。阿武隈川の舟を奪えたのも、土地に詳しい案内があったからです。一つの藩の選択が、まわりの藩の運命を変えてしまう。戊辰戦争の東北では、そういう場面が何度もありました。
一方で、新政府軍も一枚岩ではありませんでした。薩摩藩は板垣に知らせずに夜襲をかけ、味方は後からそれを知った。勝ったからよかったものの、一歩間違えば混乱を招いたはずです。勝ち戦の陰にも、こうしたきしみがありました。
筆者は二本松城跡を歩いたことがあります。城山の石垣の下に咲く彼岸花を見ながら、少年たちが城を守ったその二日前に、南の本宮で仙台藩や二本松藩の兵が命を落としていたことを思いました。二本松の悲劇は、城の中だけで起きたのではなく、こうした周りの戦いの積み重ねの上にあったのだと思います。
現地を歩く ― 本宮の戦いの史跡
- 阿武隈川と本宮の宿(本宮市):新政府軍が舟を奪って渡った川と、奥州街道の宿場
- 高木・糠沢(本宮市):二本松藩兵と新政府軍がぶつかった阿武隈川の東側の村
- 二本松城跡(霞ヶ城公園)(二本松市):本宮の戦いの二日後に落ちた城。総石垣と空堀が残る
- 三春城跡(三春町):新政府軍が本宮へ向かう前に拠点とした三春藩の城


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- 二本松藩|仙台藩|三春藩|黒羽藩
参考にした資料
- Wikipedia「二本松の戦い」(本宮村の戦いの節)
文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。写真は二本松城跡と三春城跡


