雲井龍雄とは?「討薩檄」で奥羽を奮い立たせ、27歳で斬られた米沢藩の志士—永倉新八をかくまった縁まで

行灯の下で討薩檄を書く雲井龍雄のイメージイラスト

戊辰戦争のさなか、薩摩を「薩賊」と呼んで激しく非難し、奥羽越列藩同盟の諸藩を奮い立たせた檄文があります。「討薩檄(とうさつのげき)」。書いたのは、米沢藩の若い藩士・雲井龍雄(くもい たつお)でした。戦いに敗れたあとも新政府に抗い続けた雲井は、明治3年(1870)、27歳で首を斬られます。

この記事では、雲井龍雄の生涯を、米沢での生い立ちから、京都での探索、討薩檄、永倉新八をかくまった米沢、そして明治の東京での最期までたどります。永倉新八とのつながりは「靖兵隊とは」もあわせてご覧ください。

目次

雲井龍雄とは?ひとことで言うと

戊辰戦争で「討薩檄」を書いて奥羽越列藩同盟の側に立ち、維新後も薩長中心の新政府に抗い続けて処刑された、米沢藩出身の志士・詩人です。

雲井龍雄
雲井龍雄(パブリックドメイン)
生まれ 天保15年(1844)3月25日、米沢城下の袋町(いまの山形県米沢市松が岬)
家 米沢藩士・中島総右衛門の次男。のちに叔父の小島家の養子となり、小島龍三郎と名のる
名前 「雲井龍雄」は慶応4年ごろから使った名。遠山翠・桂香逸などの名も使った
学問 藩校・興譲館で学び、江戸では儒者・安井息軒の三計塾で塾頭を務めた
知られること 戊辰戦争中に書いた「討薩檄」。漢詩人としても名高い
最期 明治3年(1870)12月、政府転覆をはかったとして東京・小伝馬町の牢で斬首。27歳

米沢の秀才

興譲館で頭角をあらわす

雲井龍雄は、天保15年(1844)、米沢藩士・中島総右衛門の次男として米沢城下に生まれました。18歳のとき叔父の小島家の養子となり、小島龍三郎と名のります。幼いころから秀才として知られ、14歳で藩校・興譲館に入ると抜群の成績を収めました。決まった学説にとらわれるのをきらい、のちには陽明学に心を寄せています。

江戸の三計塾で塾頭に

慶応元年(1865)、雲井は藩の命で江戸へ出て、儒者・安井息軒の三計塾に入りました。全国から才能ある若者が集まる塾で、雲井はやがて塾頭を務めるまでになります。ここで諸藩の若者と交わったことが、のちに雲井が全国を舞台に動く下地になりました。

京都での探索と、新政府の貢士

慶応2年(1866)ごろ、雲井は藩の命を受けて京都へ上り、名前を変えながら政局を探る探索方として働きました。米沢藩にとって、遠い京都の動きを知るための目と耳の役です。

慶応3年の大政奉還、そして王政復古ののち、雲井は米沢藩を代表して新政府に出る「貢士」に選ばれます。新しい政府のただ中にいたからこそ、雲井は薩摩藩のやり方を間近に見ることになりました。

「討薩檄」—奥羽を奮い立たせた檄文

行灯の下で討薩檄を書く雲井龍雄
行灯の下で「討薩檄」を書く雲井龍雄(イメージ)

薩摩を「薩賊」と呼ぶ

慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いのあと、新政府軍は「朝敵」とされた会津藩・庄内藩を討つため、奥羽へ兵を向けます。これに対して奥羽・越後の諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、新政府の軍に抗いました。

このとき雲井が書いたのが「討薩檄」です。新政府の名のもとに兵を進めているのは、実は天皇の意を借りて私欲を満たそうとする薩摩藩である—雲井は薩摩を「薩賊」と呼んで激しく非難し、列藩同盟の戦いこそが正しいと説きました。この檄文は同盟の諸藩に広まり、その士気を大いに高めたといわれます。

永倉新八と芳賀宜道をかくまう

この戦いのなかで、雲井は江戸から北へ逃れてきた旧幕府側の者たちとも関わっています。近藤勇と別れて靖兵隊をつくった永倉新八と、その隊長・芳賀宜道は、戦況が悪くなると雲井の手引きで米沢に身をひそめました。二人はそこで会津藩の降伏を知り、町人の姿で江戸へ戻っています(靖兵隊とは・芳賀宜道とは)。

新選組の永倉が戊辰戦争を生き延び、のちに新選組の姿を語り残すことができたのは、米沢での雲井の手助けがあったからでもあります。

同盟の崩壊と謹慎

やがて米沢藩は新政府に降り、列藩同盟は崩れます。討薩檄を書いた雲井は、米沢で謹慎を命じられました。

明治の東京で—帰順部曲点検所

集議院を一月あまりで追われる

明治2年(1869)、許された雲井は、その才を買われて東京へ出て、新政府の議事機関である集議院に入りました。しかし薩摩への批判をやめない激しい気性から孤立し、一月あまりで退けられます。

行き場のない旧幕府の兵を集める

東京には、戊辰戦争に敗れて行き場を失った旧幕府側の兵や浪士が大勢いました。雲井は芝の寺に「帰順部曲点検所」を設け、そうした者たちを集めて名簿をつくり、新政府に彼らの身の振り方を願い出ます。願い出は4度にのぼりました。

しかし新政府はこれを、不平をもつ者を集めて政府を倒そうとする企てとみなしました。明治3年(1870)、雲井は捕らえられます。

小伝馬町での最期

明治3年12月、雲井は政府転覆をはかった罪で、首をさらす刑(梟首)を言い渡され、東京・小伝馬町の牢で斬首されました。27歳でした。首は小塚原でさらされ、亡きがらは解剖に回されたといいます。この事件では同志13人も処刑され、22人が牢の中で亡くなりました。辞世の詩には「死して死を畏れず」という一節があります。

雲井龍雄のその後—詩と墓

反逆者として処刑された雲井ですが、その漢詩は明治の若者たちに広く愛誦され、自由民権運動に加わった人々にも慕われました。今も詩吟で吟じられています。作家の藤沢周平は、雲井を主人公にした小説『雲奔る』を書いています。

小塚原の回向院に墓石もなく埋められた首は、明治16年(1883)、米沢出身の山下千代雄によって谷中の天王寺に改葬されました。米沢でも、親族が持ち帰った遺髪をもとに、小島家の菩提寺・常安寺に墓が建てられます。昭和5年(1930)の六十年忌には、遺骨が米沢へ戻されて常安寺に改葬されました。いまも命日には「雲井祭」が行われています。

雲井龍雄が示したもの(筆者の感想)

戊辰戦争の勝者の側から見れば、雲井龍雄は最後まで新政府に逆らった反逆者です。けれども、雲井が最後にしようとしたことは、戦いに敗れて行き場を失った人々を集め、その身の振り方を政府に願い出ることでした。それが「政府転覆の企て」とされ、27歳の命が絶たれています。

そして、近藤勇と袂を分かった永倉新八が生き延びられたのも、この人が米沢でかくまったからでした。新選組の話を調べていて、思いがけず米沢の志士にたどりつく。戊辰戦争の敗者の側には、藩の違いをこえて人を助け合うつながりがあったことが、ここから見えてきます。

現地を歩く ― 雲井龍雄ゆかりの地

  • 常安寺(山形県米沢市城南5丁目):雲井龍雄の墓所。命日には雲井祭が行われます
  • 雲井龍雄の生誕地(米沢市松が岬2丁目、旧袋町):米沢城跡(松が岬公園)のすぐ近くです
  • 興譲館(米沢市):雲井が学んだ米沢藩の藩校。その流れは山形県立米沢興譲館高校に受け継がれています
  • 回向院(東京都荒川区南千住):小塚原の刑場跡。雲井の首がはじめに葬られた場所です

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参考にした資料

  • 米沢市「雲井龍雄」「雲井龍雄の墓」
  • Wikipedia「雲井龍雄」「芳賀宜道」「靖兵隊」

文:佐藤秀信
※イラストはイメージです。雲井龍雄の肖像はパブリックドメイン

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