大村益次郎暗殺とは—日本陸軍の父はなぜ斬られたのか。京都の宿での襲撃と、大阪で迎えた最期

京都三条木屋町の旅宿、大村益次郎遭難(イメージイラスト)

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明治2年(1869)9月4日の夕方、京都・三条木屋町の宿で、新政府の兵部大輔(いまでいう防衛次官)・大村益次郎が刺客に襲われました。大村は一命をとりとめたものの、傷がもとで2か月後に大阪で亡くなります。上野戦争で彰義隊を破り、戊辰戦争を勝利に導いた「日本陸軍の父」は、なぜ味方であるはずの者たちに斬られたのでしょうか。

目次

先に答え—大村益次郎暗殺とは

いつ 明治2年(1869)9月4日の夕方。亡くなったのは11月5日
どこで 京都・三条木屋町の宿。亡くなったのは大阪の病院(浪華仮病院)
誰が 神代直人ら、元長州藩士を含む攘夷派の士族たち
誰を 兵部大輔・大村益次郎(数え46歳)
なぜ 武士の特権をなくす国民皆兵の兵制改革や、西洋式のやり方への反発
結果 大村は脚の傷が悪化し、右脚を切断したものの敗血症で死去しました

大村益次郎は何をした人か

大村益次郎(はじめ村田蔵六)は、長州藩の村医者の家に生まれ、大坂の適塾で蘭学と医学を学びました。宇和島藩や幕府の講武所で西洋の兵学を教えたのち、長州藩に迎えられ、第二次長州征討(四境戦争)で幕府軍を破って名を上げます。

戊辰戦争では新政府軍の作戦を指揮し、慶応4年(1868)5月には上野の彰義隊をわずか1日で破りました(彰義隊とは—上野戦争・黒門口の激戦)。新政府では兵部大輔となり、近代的な軍隊づくりに取り組みます。

なぜ大村は狙われたのか

大村が目指したのは、藩ごとの兵を解き、身分に関係なく国民から兵を集める軍隊でした。のちの徴兵制につながる考え方です。しかしこれは、戦うことを誇りとしてきた武士の立場を奪うものでもありました。

さらに、西洋式の兵制や、大坂に兵学校や造兵の施設を集める計画などは、攘夷の考えを持ち続ける士族たちから「西洋かぶれ」と強く反発されました。刺客の中には、大村と同じ長州出身の者もいました。

京都の宿で何が起きたのか

京都三条木屋町の旅宿、大村益次郎遭難(イメージイラスト)
京都三条木屋町の旅宿、大村益次郎遭難(イメージイラスト)

9月4日の夕方、大村は京都・三条木屋町の宿で、来客と話をしていました。そこへ刺客たちが押し入り、斬りかかります。同席していた者や従者が斬られ、大村も額や腕、脚などに傷を負いました。大村は風呂場の湯船に身を隠して難を逃れたと伝えられます。

命はとりとめましたが、脚の傷が悪化します。大村は大阪の病院に移され、オランダ人医師ボードウィンらの治療を受けました。右脚を切断する手術が行われましたが、手術にあたって政府の許しを得るのに時間がかかったともいわれ、すでに手遅れでした。11月5日、大村は敗血症で亡くなりました。

この大村の看病にあたった一人が、シーボルトの娘で日本最初の女性の産科医とされる楠本イネです。大村は宇和島時代からイネと親しく、オランダ語を教えたこともありました。

事件のその後

犯人たちはやがて捕らえられ、処刑されました。ただ、処刑をめぐって政府の中で意見が割れ、一時刑の執行が止められる騒ぎも起きたとされます。大村の改革をよく思わない人びとが、政府の内側にもいたことを示す出来事でした。

大村の構想は、同じ長州の山県有朋らに引き継がれ、明治6年(1873)の徴兵令として形になります。東京・九段の靖国神社には、大村の銅像が立っています。

大村益次郎ゆかりの地

  • 大村益次郎卿遭難之碑(京都市中京区、高瀬川沿い):近くに佐久間象山の遭難の碑もあります(【現地取材】佐久間象山・大村益次郎 遭難の地)。
  • 大村益次郎殉難報国之碑(大阪市中央区法円坂、国立病院機構大阪医療センターの南東角):亡くなった病院の跡です。
  • 靖国神社の大村益次郎像(千代田区九段北)
  • 大村益次郎の墓(山口市鋳銭司):故郷にあります。

▶ この事件を起こした側の人物

✎ 筆者のひとこと

洋式の軍隊づくりを急いだ大村は、同じ長州の攘夷派に襲われました。新しい時代の設計図を描いた人ほど、古い考えの人たちから狙われたことがよくわかります。

古いものを壊すときには、必ずその代償がある—大村の死はそのことを教えてくれます。

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