山中崇さんが演じる岩倉具視とは何をした人物か—下級公家から王政復古の立役者へ。二人の息子は小栗忠順を斬った東山道総督府の長だった

京都御所の紫宸殿と、前庭の白砂に二列に控える束帯姿の公家たち(イメージイラスト)

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、山中崇さんが岩倉具視を演じます(2026年9月15日発表)。

岩倉具視(いわくら ともみ)は、幕末から明治にかけて朝廷と新政府を動かした公家です。家柄は高くありませんでしたが、知恵と度胸で朝廷の中心に上り、王政復古の大号令をまとめ上げました。かつての五百円札の肖像としても知られています。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順とは、直接の接点はほとんどありません。けれども、小栗を斬った東山道総督府の総督と副総督は、岩倉の二人の息子でした。この記事では、岩倉具視が何をした人なのかを、小栗の最期とのつながりも含めてまとめます。

目次

岩倉具視とは?—先に答え

読み方いわくら ともみ
生没文政八年九月十五日(1825年10月26日)〜明治十六年(1883年)七月二十日。満五十七歳
生まれ京都。公家・堀河康親の次男。天保九年(1838年)に岩倉具慶の養子となる
何をした人和宮降嫁を推し進め、いったん失脚して五年間蟄居したのち、王政復古の大号令をまとめた公家。明治政府では右大臣を務め、岩倉使節団を率いて欧米を回りました
子次男・岩倉具定は東山道鎮撫総督、三男・岩倉具経は副総督。小栗忠順を処刑した軍の長でした
最期明治十六年七月二十日、咽頭がんで死去
大河ドラマ『逆賊の幕臣』で山中崇さんが演じます

下級公家の家から

岩倉具視は文政八年(1825年)、公家・堀河康親の次男として京都に生まれ、十四歳で岩倉具慶の養子となりました。岩倉家は公家のなかでは家格が低く、暮らし向きも楽ではありませんでした。

その岩倉が頭角を現したのが、安政五年(1858年)の条約勅許問題です。幕府が日米修好通商条約への勅許を求めると、岩倉は反対の公家たちをまとめ、八十八人が御所に押しかけて抗議しました(廷臣八十八卿列参)。孝明天皇が勅許を拒んだ背景には、こうした公家たちの動きもありました(孝明天皇とは)。

和宮降嫁を推し、失脚する

桜田門外の変のあと、幕府は天皇の妹・和宮を将軍・徳川家茂に嫁がせる公武合体を望みました。岩倉は天皇に意見書を出し、幕府が条約を破棄して攘夷を行うことを条件に、縁組を認めるべきだと説きます。和宮が江戸へ下るとき、岩倉は随行しています(徳川家茂とは)。

ところがこれが、攘夷派からは「幕府にすり寄った」と見られました。文久二年(1862年)、岩倉は尊攘派の激しい攻撃を受けて官を辞し、出家して洛北の岩倉村に蟄居します。この謹慎は、慶応三年(1867年)十一月まで五年あまり続きました。

岩倉村から王政復古へ

蟄居中の岩倉のもとには、薩摩藩の大久保利通らがひそかに出入りし、政局を語り合いました。慶応三年に許されて朝廷に戻ると、岩倉は一気に表舞台に立ちます。

慶応三年十二月九日、岩倉は王政復古の大号令の案を天皇に奏上しました。幕府と摂政・関白を廃し、新しい政府をつくるという宣言です。その夜の小御所会議では、土佐藩の山内容堂らが慶喜を擁護するのを退け、慶喜に官職と領地を返させることを決めました。

▶ 「大河の登場人物を知る」の記事

東山道を進んだ二人の息子—小栗忠順の最期

慶応四年一月、鳥羽・伏見の戦いのあと、新政府は東へ軍を送ります。このとき東山道鎮撫総督に任じられたのが岩倉の次男・岩倉具定、副総督が三男の岩倉具経でした。父は京都で新政府の中枢を握り、二人の息子は中山道を進む軍の長となったのです。

その東山道総督府が、上州権田村にいた小栗忠順を捕らえるよう周辺の藩に命じました。閏四月六日、小栗は取り調べもないまま斬られます。現地で処刑を指揮した軍監・原保太郎は、岩倉の側近にあたる人物でした(原保太郎とは)。

ただし、岩倉自身が小栗を斬れと命じた記録は見つかっていません。残っているのは「捕らえよ」という追捕令だけです。命令系統の詳しい話は小栗上野介を斬ったのは誰かにまとめています。

岩倉使節団と明治政府

明治に入ると岩倉は政府の中心にあり続け、明治四年(1871年)には右大臣となりました。同じ年の十一月、岩倉は特命全権大使として、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らとともに欧米へ旅立ちます。岩倉使節団です。一行は一年十か月をかけてアメリカとヨーロッパを回り、条約改正の下交渉と各国の制度の調査を行いました。

思えば、十一年前の万延元年に、小栗忠順たち遣米使節がすでにアメリカを見ていました(万延元年遣米使節とは)。幕府が先に見た西洋を、今度は新政府の首脳がそろって見に行ったことになります。

帰国後、岩倉は西郷隆盛らの征韓論を退け、内政を優先する道を選びました。明治十六年(1883年)七月二十日、咽頭がんで亡くなります。ドイツ人医師ベルツが岩倉に病名を告げたことは、日本で記録に残る最初のがん告知といわれています。

大河『逆賊の幕臣』で山中崇さんが演じる岩倉具視—役どころと史実の見せ場

役どころ(NHKの発表):下級公家の出で、朝廷のフィクサーとして頭角を現す

史実から見た見せ場:岩倉の次男・具定と三男・具経は、小栗を処刑した東山道総督府の総督と副総督でした。王政復古をまとめた「朝廷のフィクサー」が、小栗の運命とどう結びつくのかが見どころです。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、山中崇さんが岩倉具視を演じます。2026年9月15日に発表された朝廷側の四人の一人で、下級公家の出から朝廷のフィクサーとして頭角を現していく人物と紹介されています。

朝廷側の配役は大河『逆賊の幕臣』朝廷側のキャスト、全体は大河『逆賊の幕臣』特集にまとめています。

岩倉具視の家族・先祖・子孫と最期—人物データ

家族実父は公家・堀河康親(具視は次男)。岩倉具慶の養子となりました。妻は誠子、のちに槇子。子に、次男・具定(のち公爵・宮内大臣、東山道鎮撫総督)、三男・具経(東山道鎮撫副総督)ほか
先祖・家岩倉家は村上源氏・久我家から分かれた公家で、家格は羽林家。決して裕福な家ではありませんでした
子孫具定が公爵を授かり、家は続きました。俳優の加山雄三さんは岩倉家の血を引くことで知られます
最期明治十六年(1883年)七月二十日、東京で死去。数え五十九歳。ドイツ人医師ベルツから病名を告げられた、日本で記録に残る最初のがん告知といわれます。日本で初めての国葬が行われました
墓所海晏寺(東京都品川区)

岩倉具視の逸話

  • 和宮の降嫁を進めたことで「四奸」の一人と非難され、五年間、洛北の岩倉村に隠れ住みました
  • 明治七年、赤坂喰違で不平士族に襲われて負傷しています(喰違の変)
  • 岩倉使節団でアメリカに渡り、シカゴで髷を切ったと伝わります

岩倉具視のゆかりの地めぐり

  • 岩倉具視幽棲旧宅(京都市左京区岩倉上蔵町、国史跡)
  • 海晏寺の墓(東京都品川区)

山中崇さんの歴史ドラマ・映画への出演

  • 大河ドラマ『八重の桜』(2013年)大庭恭平
  • 大河ドラマ『おんな城主 直虎』(2017年)
  • 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年)平賀朝雅
  • 映画『武士の家計簿』(2010年)前田斉泰
  • 映画『菊とギロチン』(2018年)

※出演歴は公開されている出演作の一覧などをもとに、主なものを挙げています。

小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

小栗忠順をもっと知る本

記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。

楽天ブックス
¥2,420 (2026/10/16 14:32時点 | 楽天市場調べ)

※この欄の商品リンクはアフィリエイトリンク(PR)です。価格は掲載時点のものです。

2027年NHK大河ドラマ

『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集

放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。

▶ 『逆賊の幕臣』特集を見る

あわせて読みたい

参考資料

国立国会図書館「近代日本人の肖像 岩倉具視」、多田好問編『岩倉公実記』、佐々木克『岩倉具視』(吉川弘文館)、久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』、高崎市立中央図書館『市史のひろば』第七号(東山道総督府の命令系統)、NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』出演者発表(2026年9月15日)。

  • URLをコピーしました!
目次