この記事で紹介する小栗くには、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
小栗忠順の母は、くに(邦子、くに子とも書かれます)という人です。小栗家に生まれ、婿を迎えて家を継がせた「家付き娘」でした。息子が斬られた慶応四年(1868年)には数えで六十三歳。その年齢で、嫁と孫娘にあたる少女を連れ、上州から越後、会津へと山を越えています。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では鈴木京香さんが演じ、「小栗家の太陽」と紹介されている人物です。
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小栗家に生まれた家付き娘
くには、小栗家十代当主・小栗忠清の娘です。慶応四年に六十三歳ですから、生まれは文化三年(1806年)ごろになります。忠清には家を継ぐ男子がなく、くにに婿を取って家を続けることになりました。迎えられたのが、駿河台の隣家・中川家の四男、のちの小栗忠高です。
弟の庄次郎は他家へ出て日下数馬と名乗りました。その娘が、のちに忠順の養女となる鉞子(よきこ)です。つまり鉞子は、くにから見れば実の姪にあたります。家の血筋はくにの側にあり、夫も、跡取りの許婚も、まわりはくにの縁で結ばれていました。家族の関係は小栗忠順の家族にまとめています。
「又一」の名を語り継ぐ
小栗家の当主は代々「又一」を名乗ります。初代の小栗忠政が戦のたびに一番槍をあげ、徳川家康から「又も一番槍か」と言われてこの名をもらった、という言い伝えによるものです(小栗家のルーツ)。
大河の発表では、くには家を守る意識が誰よりも強く、この「又一」の名の重みを、毎年変わらぬ熱量で忠順や家臣たちに話して聞かせる人として描かれます。穏やかな婿の忠高とは反対に、歯に衣着せぬ物言いで家の中を取りしきる、強く明るくたくましい母です。家付き娘として家の名を背負ってきた人の姿として、うなずける設定です。
夫を新潟で亡くす
文政十年(1827年)、くにと忠高のあいだに長男の剛太郎、のちの忠順が生まれます。忠順が八歳のときに妹も生まれましたが、早くに亡くなりました。
夫の忠高は嘉永七年(1854年)に新潟奉行となって越後へ赴き、わずか一年ほどの安政二年(1855年)、任地で病没しました。墓は新潟市の法音寺にあります。この年の十月に忠順が家督を継ぎ、又一を名乗ります。くには五十歳ほどで夫を見送り、そこから先は当主となった息子の家を支えていくことになりました。
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六十三歳の山越え
慶応四年三月、勘定奉行を罷免された忠順は、家族を連れて知行地の上州権田村へ移ります。そして閏四月、新政府軍に捕らえられ、六日に水沼河原で斬られました(小栗忠順はなぜ斬られたのか)。
家族は会津を目指して村を離れます。一行は二手に分かれ、身重の妻・道子は村人たちに守られて山道を進み、くには鉞子とともに善光寺参りの一行を装って、草津白根山の北の渋峠を越え、信州回りで越後へ向かいました。二組は越後の堀之内村でたまたま行き会い、そこから先は一緒に進んでいます。道中の日付や経路は小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのかに詳しく書きました。
東善寺の記録では、一行は新潟で亡き夫・忠高の墓に参ってから会津へ向かったとされています。夫の死から十三年。夫の眠る町を、息子を失ったばかりの母が通っていったことになります。
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会津から東京へ
会津に着いた一家は、会津藩の横山家を頼りました。六月には道子が女の子を産み、国子と名づけられます。くににとっては初めての、そしてただ一人の孫でした。会津はやがて戦場になり、一家は避難先で冬を越しています。
明治二年(1869年)の春、一家は会津から静岡を経て東京へ戻りました。家族を支えたのは、小栗に恩を受けた三井の大番頭・三野村利左衛門です。その後の小栗家の再興については小栗忠順の遺児はどう生きたかにまとめています。くにの晩年の暮らしや没年については、今回あたった公開資料では確かめることができませんでした。
大河『逆賊の幕臣』のくに
演じるのは鈴木京香さんです。夫の忠高(北村有起哉さん)、忠順の妻・みち(上白石萌音さん)らとともに、第三弾の出演者として発表されました。鈴木さんは、連続テレビ小説『わろてんか』以来の松坂桃李さんとの共演について、当時からきれいでまっすぐな瞳が印象的だったと話し、みんなの成長を後押しできる母親になりたいと語っています。
家の名を誰より大事にした母が、その家の当主である息子を「逆賊」として失う。くにの人生は、そのまま小栗家の幕末を映しています。
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参考資料:Wikipedia日本語版「小栗忠順」、東善寺「小栗上野介忠順の略歴」「会津へ逃れた小栗上野介夫人」、ステラnet・オリコンニュースの番組発表記事ほか。年齢は数え年です。

