この記事で紹介する佐藤藤七は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
佐藤藤七は、上州権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町権田)の名主です。小栗忠順に才能を見込まれて江戸で仕え、万延元年(1860年)、数え五十四歳で遣米使節の小栗に従ってアメリカへ渡りました。そのまま喜望峰を回って帰国したため、「世界一周をした最初の日本の農民」と呼ばれます。旅のようすを書き留めた日記も残っています。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、甲本雅裕さんが演じます。
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佐藤藤七とはどんな人か
- 生まれ:文化四年(1807年)、上野国の本動堂村(いまの藤岡市)に生まれる
- 権田村の名主:権田村の名主・佐藤勘兵衛家に婿養子として入り、家を継ぐ。家業は酒造り
- 学問:漢学にすぐれ、村で寺子屋を開いて子どもたちを教えた
- 小栗とのつながり:権田村は小栗家の知行地(領地)の一つ。小栗に見込まれ、江戸で仕える
- 遣米使節:万延元年(1860年)、小栗の従者としてアメリカへ。大西洋・インド洋を回って帰国
- 最期:明治五年(1872年)六月二十七日、権田村で死去。数え六十六歳
小栗家の知行地・権田村
旗本の小栗家は、上野・下野・上総・下総などに合わせて二千七百石の知行地を持っていました。そのうち上野国の権田村は三百七十五石ほどの村で、小栗が晩年に移り住み、最期を迎える土地です。小栗家と知行地については小栗家とは—三河以来の旗本は何石で、城はあったのかをご覧ください。
藤七はこの村の名主でした。名主は村のまとめ役で、年貢を集めて領主に納め、村のもめごとを収める立場です。藤七は酒造りの家業のかたわら、漢学を学び、寺子屋で村の子どもたちに読み書きを教えていました。こうした学問の素養が、小栗の目に留まったのでしょう。
五十四歳でアメリカへ
安政六年(1859年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府はアメリカへ使節を送ることを決めます。目付として使節に加わった小栗は、自分の従者の一人に藤七を選びました。武士ではない農民が使節の一行に加わるのは、異例のことでした。
万延元年(1860年)一月、一行はアメリカの軍艦ポーハタン号で横浜を出ます。ハワイ、サンフランシスコをへてパナマ地峡を鉄道で越え、ワシントンで大統領に会い、フィラデルフィアの造幣局やニューヨークを訪れました。帰りはアメリカの軍艦ナイアガラ号で大西洋を渡り、アフリカの喜望峰、インド洋を回って、九月に江戸へ戻ります。地球をひと回りする旅でした。使節の旅程は万延元年遣米使節とはにまとめています。
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藤七の『航海日記』
藤七は旅のあいだ、見たものを細かく書き留めていました。出発から帰国までの道のり、各地で見たもの、スケッチまでが残された日記です。
この日記は長く知られてはいたものの、「農民の藤七がこれを書いたとは信じにくい」という声もあって、表に出されませんでした。ところが昭和四十三年(1968年)、伊勢崎の旧家から、当時のアメリカの新聞や藤七の写真、権田村の古文書などがまとまって見つかり、日記が確かに藤七のものだと裏づけられます。これらは、小栗家の家臣だった中島三左衛門の子孫とつながりのある家に伝わっていたものでした。中島三左衛門は、小栗が斬られたあと、小栗の妻を会津へ逃がした人物です(小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのか)。
帰国後と、小栗の最期
帰国した藤七は、権田村の名主として暮らしました。慶応四年(1868年)、勘定奉行を罷免された小栗が権田村に移り住んでくると、村は小栗を迎え入れます。しかし同じ年の閏四月、小栗は新政府軍に捕らえられ、村の近くの水沼河原で斬られました。かつて一緒に地球をひと回りした主人の死を、藤七はこの村で見届けたことになります。
藤七は明治五年(1872年)六月二十七日、数え六十六歳で亡くなりました。墓は権田の十王堂墓地にあります。跡を継いだ長男の代、明治十八年(1885年)に家は破産し、佐藤家は権田村を離れました。
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大河『逆賊の幕臣』の佐藤藤七
番組の発表では、藤七は「上州権田村の名主。農民から武士に取り立てられ、五十四歳で遣米使節団に随行した異色の人」と紹介されています。演じるのは甲本雅裕さん。同じく使節団に加わった従者の荒川祐蔵(草川拓弥さん)とともに、第六弾で発表されました。権田村の人々と小栗の結びつきを象徴する人物として、物語の最初から最後まで登場するのかもしれません。
権田村を訪ねる
藤七が名主を務めた権田村は、いまの高崎市倉渕町権田です。小栗の墓がある東善寺、小栗が斬られた水沼河原の碑などがあり、当サイトでも現地を歩いています。
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参考資料:Wikipedia日本語版「佐藤藤七」、村上泰賢『幕末遣米使節小栗忠順従者の記録—名主佐藤藤七の世界一周』(東善寺)、高崎市の公開資料、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

