徳川家茂とは何をした人物か—十三歳で将軍、和宮と結ばれ、二十一歳で大坂城に没した十四代

蒸気船の甲板から大坂湾を見渡す十四代将軍・徳川家茂のイラスト

この記事で紹介する徳川家茂は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

徳川家茂は、江戸幕府の十四代将軍です。紀州藩主から数え十三歳で将軍となり、公武合体のために天皇の妹・和宮を妻に迎え、将軍として二百二十九年ぶりに京都へ上りました。そして第二次長州征討のさなか、大坂城で数え二十一歳の若さで亡くなります。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、神尾楓珠さんが演じます。主人公の小栗忠順が勘定奉行や軍艦奉行として幕府を支え、横須賀製鉄所の建設に取りかかったのは、この家茂の時代でした。

目次

徳川家茂とはどんな人か

  • 生まれ:弘化三年(1846年)、紀州藩主・徳川斉順の子として江戸の紀州藩邸で生まれる。幼名は菊千代。十一代将軍・家斉の孫にあたる
  • 紀州藩主:嘉永二年(1849年)、数え四歳で紀州藩主に。のちに慶福と名乗る
  • 将軍:安政五年(1858年)、数え十三歳で十四代将軍に。名を家茂と改める
  • 正室:孝明天皇の妹・和宮(文久二年〈1862年〉に婚礼)。側室は置かなかった
  • 最期:慶応二年(1866年)七月二十日、大坂城で死去。数え二十一歳。墓は芝の増上寺

十三歳の将軍—跡継ぎ争いの末に

十三代将軍・徳川家定には子どもがいませんでした。跡継ぎの候補は二人。年長で賢いと評判の一橋慶喜と、将軍家に血筋の近い紀州藩主の慶福です。慶喜を推す一橋派と、慶福を推す南紀派が激しく争い、大老となった井伊直弼の力で、安政五年(1858年)に慶福が跡継ぎと決まりました。

その直後に家定が亡くなり、慶福は家茂と名を改めて将軍となります。数え十三歳。政治の実際は大老の井伊が握り、勅許を待たずに結んだ通商条約と、反対派を罰した安政の大獄によって、世の中は大きく揺れていきます。条約の批准のためにアメリカへ渡った遣米使節に、目付として小栗忠順が加わったのも、家茂が将軍になって二年目のことでした。

和宮との結婚—公武合体

万延元年(1860年)、井伊が桜田門外で討たれると、幕府は朝廷との関係を立て直そうとします。そのしるしとして考え出されたのが、孝明天皇の妹・和宮を将軍の妻に迎えることでした。朝廷と幕府が一つになって国難にあたる「公武合体」です。

和宮にはすでに婚約者がおり、本人も江戸行きを強く嫌がりましたが、最後は受け入れて文久元年(1861年)に江戸へ下り、翌年、家茂との婚礼が行われました。このとき幕府は、いずれ外国を打ち払う(攘夷)と朝廷に約束しています。この約束が、のちに家茂を苦しめることになります。

政略のための結婚でしたが、二人の仲はよかったと伝えられます。家茂は側室を置かず、和宮も家茂を気づかう手紙や歌を残しています。和宮については【現地取材】増上寺を歩く—十四代将軍家茂と和宮が並んで眠る、徳川将軍家の菩提寺もご覧ください。

二百二十九年ぶりの上洛

文久三年(1863年)、家茂は京都に上りました。将軍が京都へ行くのは、三代将軍・家光以来、二百二十九年ぶりのことです。朝廷から攘夷の実行を迫られた家茂は、五月十日を攘夷の期限とすることを約束させられます。その日、長州藩は下関で外国船に砲撃を加え、のちの下関戦争へとつながっていきました。

家茂はこのあと、慶応元年(1865年)まで含めて三度、京都・大坂に上っています。二度目は幕府の軍艦・翔鶴丸に乗って海から向かいました。将軍が船で上洛したのは、これが初めてです。

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勝海舟と順動丸

最初の上洛のさなか、文久三年四月、家茂は大坂湾で幕府の蒸気船・順動丸に乗り、軍艦奉行並の勝海舟の案内で海の上から大坂湾の守りを見て回りました。勝が蒸気船の速さと海軍の大切さを説くと、家茂はその場で、神戸に海軍の訓練所をつくることを許します。これが神戸海軍操練所で、坂本龍馬もここで学んだ一人です。

勝はのちに家茂を深く惜しみ、若くして時代に翻弄されたが、生きていれば名君として名を残しただろう、という意味のことを語っています。勝が仕えた将軍のなかで、とくに慕ったのが家茂でした。

小栗忠順と家茂の時代

家茂が将軍だった八年間は、小栗忠順がもっとも働いた時代でもあります。遣米使節から戻った小栗は、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行と要職を渡り歩きました。苦しい幕府の財政をやりくりして将軍の上洛や長州征討の費用を工面し、フランスと手を結んで横須賀製鉄所の建設を始めたのも、この時代です。

小栗が目指したのは、将軍のもとに強い海軍と陸軍を持つ国でした。その将軍が二十一歳で亡くなったことは、小栗にとっても大きな痛手だったはずです。

大坂城での死

慶応二年(1866年)、幕府は長州藩を討つため、二度目の長州征討に踏み切ります。家茂はその指揮のため大坂城に入っていましたが、幕府軍は各地で長州軍に押され、戦いは思うように進みません。

そのさなかの七月二十日、家茂は大坂城で亡くなりました。数え二十一歳。死因は、脚気がもとで心臓が弱る「脚気衝心」だったとされます。将軍の死をきっかけに長州征討は中止され、幕府の権威は大きく傷つきました。跡を継いだのは、かつて跡継ぎを争った一橋慶喜です。

家茂は京都へ向かう前、和宮に土産として西陣織を約束していたと言われます。その西陣織は、家茂の亡きがらとともに江戸の和宮のもとへ届きました。和宮は「空蝉の唐織衣なにかせむ綾も錦も君ありてこそ」と詠み、その織物は袈裟に仕立てられて増上寺に納められたと伝えられます。

どんな人柄だったのか

家茂は甘いものが好きで、羊羹やカステラ、氷砂糖をよく口にしたと言われます。増上寺の墓から見つかった遺骨の調査では、歯のほとんどが虫歯だったことが分かっています。

家臣への思いやりを伝える話も残っています。書の先生を務めた年老いた幕臣が、稽古の最中に粗相をしてしまったとき、家茂はわざとその頭に水をかけ、「今日はここまで」と言って、粗相を水でごまかしてやったというのです。若い将軍が、周りの大人たちから慕われていたことがうかがえます。

大河『逆賊の幕臣』の徳川家茂

番組の発表では、家茂は「十三歳で就任し、和宮と政略結婚。二二九年ぶりの将軍上洛を敢行」と紹介されています。神尾楓珠さんは、祖父の代の家慶(宅麻伸さん)、家定(ふかわりょうさん)とともに「江戸城で出会う人々」として発表されました。小栗にとって、仕えた将軍のなかでもっとも長く、もっとも近くで支えた将軍になるはずです。

発表されたほかの登場人物は、大河ドラマ『逆賊の幕臣』特集にまとめています。

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参考資料:Wikipedia日本語版「徳川家茂」「和宮親子内親王」、勝海舟『氷川清話』、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

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