【現地取材】館林城跡と幕末の館林藩 ― 秋元志朝・禁門の変・そして新政府への恭順

群馬県館林市の中心部に、白壁の塀と重厚な木造の門がひっそりと残る一角があります。夕暮れどきに訪ねた館林城跡(たてばやしじょうあと)――五代将軍・徳川綱吉が将軍となる前に城主を務めた「城主大名の城」として知られますが、じつは幕末の館林にも、時代の荒波に翻弄された濃いドラマが刻まれています。今回はその現地取材の記録です。

目次

秋元家六万石 ― 出羽山形から来た譜代大名

幕末の館林を治めていたのは秋元(あきもと)家でした。弘化二年(一八四五年)に出羽山形から入封した六万石の譜代大名で、代々徳川将軍家を支える立場にありました。城下町と沼(城沼)を巧みに取り込んだ平城で、いまも一部の土塁や堀の面影が住宅地のなかに息づいています。

藩主・秋元志朝と藩政改革

幕末の館林を語るうえで欠かせないのが、藩主秋元志朝(あきもと ゆきとも)です。志朝はもともと長州の支藩・徳山藩主、毛利広鎮の八男として生まれ、母方の縁から秋元家の養子に迎えられた人物でした。つまり彼の身体には長州毛利家の血が流れていたのです。この出自が、のちに彼の運命を大きく揺さぶることになります。

藩主としての志朝は有能でした。安政の大地震を一つの契機に、岡谷瑳磨介(おかのや さまのすけ)らを登用して藩政改革を断行。江戸詰めだった家臣の屋敷を館林へ移して藩主のもとに家臣団を集め、藩校「造士書院(求道院)」を創設して人材の育成にも力を注ぎました。城跡に立つ案内板にも、こうした「秋元志朝の各種藩政改革」が館林の近代化の礎になったことが記されています。

禁門の変が館林に落とした影

転機は元治元年(一八六四年)でした。京都で長州藩が御所へ攻め上った禁門の変が起こると、毛利一門の出である志朝は、幕府から「長州への内通」の嫌疑をかけられてしまいます。譜代大名でありながら、生まれの縁が仇となったのです。

同年十月、志朝は養子の秋元礼朝(あきもと ひろとも)に家督を譲り、事実上強制的に隠居させられました。ただし志朝はその後も藩政の実権を握り続け、長州征伐の局面では幕府・朝廷・毛利家のあいだを取り持つ仲介役を務めたと伝わります。幕府と長州の板挟みという、館林ならではの難しい立場が見えてきます。

戊辰戦争 ― 徳川ゆかりの地が新政府へ

そして戊辰戦争。最後の藩主となった秋元礼朝は、綱吉ゆかりの徳川恩顧の地でありながら、新政府軍への恭順を選びます。当初は参陣が遅れたものの、金二万両を献上することでこれを許され、その後は奥羽の戦線で軍功を挙げて一万石の加増を受けました。館林藩は明治二年に礼朝が藩知事となり、明治四年の廃藩置県でその歴史を閉じます。徳川と最も近いはずの譜代の藩が、時代の大勢を読んで生き残りをはかった――幕末という時代の縮図のような選択でした。

復元された三の丸土橋門を歩いて

現在の城跡でいちばんの見どころが、この三の丸土橋門です。土塁の上に白壁の塀がのび、黒々とした木造の門が復元されていて、往時の城の面影をよく伝えています。夕方の斜めの光に照らされた門はしっとりと落ち着き、訪れる人も少なく、静かに幕末の館林に思いを馳せることができました。城跡一帯は日本遺産「里沼(さとぬま)」の構成文化財にも認定されており、城沼とともに歩んだこの町の歴史を感じられる場所です。

石高に見合わぬ激動をくぐり抜けた館林藩。長州の血を引く藩主、内通の嫌疑、そして徳川ゆかりの地からの新政府恭順――五代将軍の城という華やかな肩書の陰に、これだけの物語が隠れていることに、あらためて驚かされた現地取材でした。

館林城跡へのアクセス・地図

館林城跡は東武伊勢崎線・館林駅から徒歩圏内。土橋門周辺は自由に見学できます。

▼ 館林藩の歴代藩主や石高など、藩の詳しいデータはこちら
館林藩の基礎データを見る(藩ページ)

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