山形県米沢市、米沢城の本丸跡に広がる松が岬(まつがさき)公園に鎮座する上杉神社。戦国の名将・上杉謙信を祀るこの社は、名門・上杉家の歩みそのものを見守ってきました。会津百二十万石からの大減封、名君・上杉鷹山の再興、そして幕末――会津を救えなかった苦渋の選択まで、米沢藩の三百年には、耐えることと改めることの物語が刻まれています。今回はその現地取材です。


会津百二十万石から米沢へ ― 大減封の始まり
上杉家は、戦国の名将・上杉謙信を祖とする屈指の名門です。しかし関ヶ原の戦いで、家老・直江兼続の主導のもと西軍に与したことで、戦後、会津百二十万石から米沢三十万石へと大減封されます(慶長六年・一六〇一年)。この苦境のなかで藩の礎を築いたのが、上杉景勝と直江兼続の主従――大河ドラマ「天地人」でも描かれた二人でした。さらに寛文四年(一六六四年)、三代綱勝が跡継ぎのないまま急死すると、家の断絶(改易)こそ養子を立てて免れたものの、石高はさらに半分の十五万石にまで減らされます。収入は激減しても、名門の誇りゆえに家臣団を減らすことができず、米沢藩は深刻な貧窮にあえぐことになりました。


上杉鷹山の改革 ― 「なせば成る」
破綻寸前まで追い込まれた藩を立て直したのが、九代藩主上杉鷹山(うえすぎ ようざん=治憲)です。鷹山は徹底した倹約を率先垂範し、米沢織などの織物や、漆・桑・楮(こうぞ)といった殖産興業を興し、藩校興譲館を再興して人材を育てました。師・細井平洲の教えを胸に、自ら範を示したその改革は、藩を再生へと導きます。「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」――鷹山のこの言葉は、今なお多くの人に愛されています。境内には、その鷹山を讃える像も建てられています。



米沢は伊達政宗の生誕地でもある
意外に知られていませんが、米沢城は、独眼竜として名高い伊達政宗の生誕の地でもあります(永禄十年・一五六七年)。上杉家が入る以前、米沢はもともと伊達氏の本拠でした。城下には「伊達政宗公 生誕の地」の碑が建ち、この地が幾多の名将を生んだ土地であることを伝えています。


幕末の米沢藩 ― 会津救援を断念した苦渋
幕末、藩主・上杉斉憲(なりのり)の米沢藩は、仙台藩と並ぶ奥羽越列藩同盟の中心格でした。当初、米沢藩は会津藩や庄内藩の赦免を新政府へ嘆願し、聞き入れられないと見るや、同盟軍として各地で新政府軍と交戦します。北越(越後)の戦線にも兵を送りました。しかし戦況は日ごとに悪化し、ついに明治元年(一八六八年)九月、米沢藩は降伏します。名門の意地をもってしても、隣国・会津を救うことはできませんでした。会津若松城が開城したのは、その直後の九月二十二日のことです。理想と現実の板挟みのなかでの、苦渋の決断でした。降伏後に家督を継いだ最後の藩主上杉茂憲(もちのり)は、のちに第二代沖縄県令として、遠く沖縄の教育や産業の振興に尽くしています。

上杉神社と松が岬公園を歩いて
上杉神社の境内には、上杉謙信の軍旗として名高い「毘(びしゃもんてん)」や「龍」の旗がひるがえり、名門・上杉家の威光を今に伝えています。米沢城の本丸跡そのものが公園となり、堀の水が静かに空を映していました。百二十万石から十五万石へ――四分の一以下にまで削られてもなお家名を守り抜き、鷹山の改革で立ち直り、幕末の激動をくぐり抜けた上杉家。その粘り強い歩みを思うと、この静かな社の佇まいが、いっそう重く感じられた現地取材でした。


上杉神社(松が岬公園)へのアクセス・地図
上杉神社は山形県米沢市、JR米沢駅からバスなどでアクセスでき、米沢城本丸跡の松が岬公園として自由に参拝・散策できます。上杉謙信・鷹山ゆかりの品を伝える稽照殿も併設されています。
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