石部宿の与力殺害(江州石部事件)とは—東海道の宿場でひと晩に4人。京都町奉行所の役人はなぜ狙われたのか。土佐・長州・薩摩の刺客と粟田口の首

歌川広重 東海道五十三次 石部 目川ノ里

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文久2年(1862)9月23日の夜、東海道の宿場町・石部宿(いしべじゅく、いまの滋賀県湖南市)で、京都町奉行所の役人4人が次々に斬り殺されました。江戸への転勤を命じられ、京都を発ったその日の夜のことです。

襲ったのは、土佐・長州・薩摩の志士たち20人以上。ひと晩で4人を殺し、そのうち3人の首は京都まで運ばれて、粟田口の処刑場のそばにさらされました。「天誅」と呼ばれた一連の暗殺の中でも、とびぬけて大がかりな事件です。

なぜ町奉行所の役人たちが狙われたのか。誰が、どうやって襲ったのか。石部宿の与力殺害(江州石部事件)の真相を、誰が・いつ・どこで・なぜ・その後どうなったか、の順に見ていきます。

目次

先に答え—石部宿の与力殺害とは

いつ 文久2年(1862)9月23日の夜(西暦では1862年11月14日)
どこで 東海道・石部宿(いまの滋賀県湖南市)の旅籠4軒。翌朝、渡辺・森・大河原の3人の首が、京都・粟田口の処刑場の北側にさらされました
誰が 土佐・長州・薩摩の志士たち。武市半平太の日記には24人と記され、事件翌日の届け書では「30人ほど」とされます。武市は計画の段階から関わっていたとみられます
誰を 京都西町奉行所の与力・渡辺金三郎、同心・上田助之丞、東町奉行所の与力格同心・森孫六、同心・大河原重蔵(十蔵とも)の4人
なぜ 安政の大獄で、井伊直弼の腹心・長野主膳らに協力して志士たちを探り、捕らえる側にいたと恨まれたため
その後 幕府の役人がひと晩で4人殺され、奉行所の力の限界があらわになりました。すでに閏8月に京都守護職に任じられていた会津藩主・松平容保が12月に京都に入り、取り締まりの体制が強められていきます

殺された4人はどんな人たちだったのか

狙われたのは、京都町奉行所の役人4人でした。町奉行所は、京都の町の治安や裁判を受けもつ幕府の役所で、東と西の2つがありました。与力はその中の上級の役人、同心はその下で実際の捜査や見回りにあたる役人です。

  • 渡辺金三郎(西町奉行所の与力):4人の中心人物
  • 上田助之丞(西町奉行所の同心)
  • 森孫六(東町奉行所の与力格同心)
  • 大河原重蔵(東町奉行所の同心。十蔵とも書かれます)

年齢は、渡辺と上田が40代半ば、森が50代半ば、大河原が30代半ばと伝えられますが、確かな生年の記録は見つかっていません。

なかでも渡辺金三郎は、大老・井伊直弼の腹心だった長野主膳(ながの しゅぜん)と深くつながっていました。長野は京都で朝廷の動きを探り、のちに安政の大獄を進めた人物です。渡辺は、長野や九条家の島田左近と連絡をとりあい、京都の尊王攘夷派や公家の動きを探っていました。その活動を伝える書状は、井伊家に伝わった史料(『井伊家史料』)にも残っています。

時代背景—安政の大獄と、狙われる「捕らえた側」

安政5年(1858)、大老・井伊直弼は、幕府に反対する公家や志士たちを次々に処罰しました。安政の大獄です。京都でその手足となったのが、長野主膳と、京都町奉行所の役人たちでした。

この年の9月、京都の志士・梅田雲浜(うめだ うんぴん)が捕らえられます。長野は捕縛のために京都へ上ったとき、まず渡辺金三郎の屋敷に入り、その翌日の夜に雲浜が捕らえられたといいます。長野は身の危険を感じると、宿に戻らずに渡辺の家に泊まることもあったほどでした。

ところが、安政7年(1860)に井伊直弼が桜田門外の変で殺されると、立場は逆転します。文久2年(1862)、尊王攘夷派が京都で勢いを取り戻すと、大獄で「捕らえた側」にいた人たちが、今度は次々に命を狙われるようになりました。

7月には九条家の島田左近が斬られ、閏8月には九条家の宇郷玄蕃、目明しの文吉も殺されます。同じころの記録には、文吉が殺される前に厳しく問い詰められ、大獄に関わった者たちの名前を白状させられた、という話も残っています。

なぜ4人は京都を離れたのか—「御用召し」

大獄に協力した町奉行所の役人たちにも、危険が迫っていました。そこで渡辺金三郎らは、「御用召し」、つまり江戸での御用という名目で、京都から江戸へ移されることになります。

これは身を守るための避難というだけではありませんでした。この年、新しく京都東町奉行になった永井尚志(ながい なおゆき)は、自身が安政の大獄で失脚させられた経験を持つ人物です。永井らは、大獄に関わった井伊派の役人を奉行所から外す人事を進めており、「御用召し」にはその意味もあったとみられます。同じく江戸へ呼ばれた東町奉行所の与力・加納繁三郎は、ひと足先に京都を発っていて、難を逃れたといいます。

歌川広重 東海道五十三次 石部 目川ノ里
歌川広重「東海道五十三次之内 石部 目川ノ里」(保永堂版)。京都を発った旅人が最初に泊まることの多い宿場でした(メトロポリタン美術館蔵/Wikimedia Commons, CC0)

9月23日の早朝、渡辺・上田・森・大河原の4人は、渡辺の息子や上田の家来たちとともに京都を発ちました。東海道を東へ向かい、午後4時ごろ、京都から1日の道のりにある石部宿に着きます。

その日の石部宿は、たまたま幕府の重役・久世大和守(くぜ やまとのかみ)らも泊まっていて大混雑しており、警戒も厳しかったといいます。4人は、それぞれ別々の旅籠に分かれて泊まりました。事件の翌日に出された届け書によれば、宿は次のとおりです。

  • 渡辺金三郎:橋屋(別の届け書では橘屋)
  • 森孫六:佐渡屋
  • 大河原重蔵:万屋
  • 上田助之丞:角屋

事件当日の模様—暮れ六つの斬り込み

伊勢参宮名所図会に描かれた石部宿
『伊勢参宮名所図会』(寛政9年=1797年)に描かれた石部宿(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

4人の出発は、志士たちに知られていました。土佐勤王党を率いた武市半平太の京都での日記からは、武市が9月21日に4人の江戸行きを知り、翌22日には薩摩の志士たちと「斬奸」について相談し、長州の久坂玄瑞とも会っていたことが読みとれます。

そして23日の日記には、刺客として土佐12人・長州10人・薩摩2人、あわせて24人と記されました。土佐の12人については、一字の略称も書きとめられています。京都の地理にくわしい阿波出身の中島永吉が案内役として加わったとする話もあります。一方、事件の翌日に出された届け書では、襲ったのは「浪人体の者30人ばかり」とされています。武市がつかんでいた人数と、現場で見た人の目算のちがいかもしれません。

暮れ六つ(日暮れごろ)を過ぎたころ、刺客たちは手分けして4軒の旅籠に斬り込みました。後世の記録には、5〜6人ずつの組に分かれ、顔を覆い、味方どうしで斬り合わないよう白い鉢巻を締めていた、とも伝えられます。どの組に誰がいて、誰が誰を斬ったのかを記した記録は残っていません。

京都で書きとめられた当時の噂話(『岡田良之助雑記』)には、4人の最期がこう記されています。あくまで「風説」として書かれたものです。

  • 森孫六は、隣の部屋の物音をあやしんで障子を投げつけて逃げようとしましたが、斬り合いの末に討ち取られました。
  • 渡辺金三郎は刀を抜いて応戦したものの、2、3合で斬り倒されました。
  • 大河原重蔵は、何者かと声をかけると「その方の命をもらいに来た」と答えられ、「入り用ならいかようにも」と言って、そのまま首を落とされたといいます。火鉢の縁を強く握りしめていた手は、死んだあとも離れなかったと伝えられます。

上田助之丞は、そのとき佐渡屋の森を訪ねていて、自分の宿にはいませんでした。刺客たちが探しあぐねて引き上げようとしたところに上田が戻ってきて、鉢合わせになります。深い傷を負った上田は近くの家に逃げこみ、水を求めて口にしたあと、息を引き取りました。渡辺に同行していた次男の恒三郎も深い傷を負い、数日後に亡くなったとする記録もあります。

刺客の一部は、渡辺・森・大河原の3人の首を持ち、馬で夜のうちに京都へ向かいました。残りは船で引き上げ、一部は翌日の検視の様子を見届けたといいます。

粟田口にさらされた3つの首

翌24日の朝、京都の東の入口・粟田口(あわたぐち)にあった処刑場の北側に、3つの首がそれぞれ青竹に吊るされ、名札をつけてさらされていました。かたわらの高札には、おおよそ次のような趣旨が書かれていたといいます(現代語の要旨)。

この者たちは戊午(安政5年)以来、長野主膳・島田左近ら大逆賊のたくらみに加わり、国を憂える者たちを罪に落とした。よって天誅を加える。

粟田口は、東海道から京都に入る玄関口であり、罪人を処刑する場所でもありました。幕府の役人の首を、幕府が罪人を裁いてきたその場所にさらす—。それ自体が、幕府への強い挑戦でした。見物人は朝から昼すぎまで、ひきも切らなかったといいます。

犯人は誰か—土佐・長州・薩摩の連合

この事件の大きな特徴は、ひとつの藩ではなく、土佐・長州・薩摩の志士たちが手を組んで実行したことです。武市半平太は京都に残っていて現場で指揮をしたわけではありませんが、計画の段階から関わっていたとみられます。

武市の日記には、土佐の12人が「賢・乙・菊・熊・健・治・米・保・収・虎・喜・保」と一字の略称で記されています。堀内賢之進・川田乙四郎・広瀬健太・清岡治之助・平井収二郎らにあてる見方がありますが、全員の特定には異説があります。

この中に「保」が2度出てくることから、『幕末天誅斬奸録』の著者・菊地明氏は、ひとつは「以」の読み誤りで、岡田以蔵を指すのではないかと考えています。ただし、これは推測で、以蔵が加わったかどうかは確定していません。

土佐勤王党の五十嵐敬之(幾之助)は、のちに、薩摩からは田中新兵衛ら5〜6人、長州からは久坂玄瑞・寺島忠三郎ら6〜7人が加わったと語っています。しかし武市の日記には、事件の数日前に田中新兵衛が急に国元へ帰ることになったと書かれており、事件から何十年もあとの五十嵐の話は記憶違いではないか、とする研究者(一坂太郎氏)もいます。ただ、帰国の予定が書かれていても、実際にその日京都にいなかったとまでは言い切れず、確かなことはわかっていません。

武市の日記には、翌24日の早朝に武市自身が出かけて「始末」をした、と読める記述もあり、首をさらす場に武市も立ち会ったのではないかとみる説があります。

事件のその後—京都守護職と新選組の時代へ

町奉行所の役人4人が、東海道の宿場でひと晩のうちに殺される—。幕府にとっては、京都の治安がもう奉行所の力ではおさえきれないことを思い知らされる事件でした。

事件より前、この年の閏8月1日に、幕府は京都の治安を守るために京都守護職を新しく置き、会津藩主・松平容保を任じていました。容保が会津藩兵を率いて京都に入ったのは、事件から3か月ほどあとの12月です。翌文久3年には、浪士組から分かれた壬生浪士組(のちの新選組)が会津藩の預かりとなり、尊王攘夷派の取り締まりにあたるようになりました。

一方、刺客を送り出した土佐勤王党も、長くは続きません。文久3年の八月十八日の政変で尊王攘夷派が京都から追われると、前土佐藩主・山内容堂は勤王党の弾圧に乗り出します。石部の事件に加わったとされる平井収二郎は、その年の6月にすでに切腹を命じられていました。武市半平太も投獄され、慶応元年(1865)に切腹しています。

殺された4人のうち、森孫六の墓は京都・中京区の正運寺にあります。

石部宿の与力殺害ゆかりの地

  • 石部宿(滋賀県湖南市):4人が襲われた東海道の宿場町。京都を発った旅人が最初に泊まることの多い宿場でした。
  • 粟田口の処刑場跡(京都市東山区・山科区の境あたり):3人の首がさらされた場所。
  • 正運寺(京都市中京区蛸薬師通大宮):森孫六の墓がある寺。

幕末・明治の暗殺事件を読む

▶ 暗殺事件の特集(年表と一覧)

✎ 筆者のひとこと

20人以上が手分けして、宿場の4軒に同時に斬り込む—。「天誅」というと、ひとりの剣客が闇夜にひとりを斬る姿を思い浮かべがちですが、石部宿の事件は、ほとんど小さな軍事作戦です。

しかも、土佐・長州・薩摩の志士が手を組んでいます。数年後に「薩長同盟」が結ばれるよりずっと前に、現場の若者たちはこうして刀でつながっていた。その事実に、少しぞっとするものを感じます。

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