2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、30の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
文久2年(1862)12月21日の夜、江戸・九段の坂のあたりで、ひとりの老学者が斬られ、翌日に亡くなりました。塙忠宝(はなわ ただとみ)、通称は塙次郎。『群書類従』をつくった全盲の大学者・塙保己一(はなわ ほきいち)の息子です。
斬ったのは長州藩の若者ふたり、伊藤俊輔と山尾庸三でした。伊藤俊輔はのちの伊藤博文、日本の初代内閣総理大臣です。理由は「塙が幕府の命令で、天皇を退位させる先例を調べている」という噂でした。ところがこの噂は、根も葉もない誤解だったのです。
のちの総理大臣が若いころに人を斬った、それも誤った噂を信じて—。この記事では、塙忠宝暗殺の真相を、誰が・いつ・どこで・なぜ・その後どうなったか、の順にくわしく見ていきます。
先に答え—塙忠宝暗殺とは
| いつ | 文久2年(1862)12月21日の夜。亡くなったのは翌22日(西暦では1863年2月9日・10日にあたります) |
|---|---|
| どこで | 駿河台の旗本・中坊広伴(なかのぼう ひろとも)の屋敷で開かれた歌会から、三番町の自宅へ戻る途中、九段坂の付近(いまの東京都千代田区) |
| 誰が | 長州藩の伊藤俊輔(のちの伊藤博文、数え22歳)と山尾庸三(数え26歳)。事件の直後は分からず、後年、伊藤から直接聞いたという田中光顕の証言などによって知られるようになりました |
| 誰を | 和学講談所の御用掛(責任者)で国学者の塙忠宝(塙次郎、数え56歳)。塙保己一の四男。いっしょに歌会から帰る途中だった歌人の加藤甲次郎も、巻き添えで命を落としたと伝わります |
| なぜ | 「幕府が孝明天皇を退位させるため、塙に昔の廃帝の例を調べさせている」という噂を信じたため。実際に塙が調べていたのは、寛永より前に外国人をどう迎えたかという儀礼の先例で、噂は誤りでした |
| その後 | 犯人は捕まらず、伊藤と山尾は翌年、イギリスへ密航(長州ファイブ)。伊藤は初代総理大臣に、山尾は「工学の父」となり、目や耳の不自由な人の学校づくりにも力を注ぎました。保己一の没後百年祭(大正10年)では、渋沢栄一が二人の名に触れたと記録されています |
塙忠宝はどんな人だったのか

塙忠宝は文化4年(1807)12月8日、江戸の表六番町に生まれました。父は塙保己一。7歳で光を失いながら、膨大な古文書を集めて校正し、666冊にもおよぶ文献集『群書類従』を世に出した、江戸後期を代表する学者です。
保己一は寛政5年(1793)、幕府の後押しを受けて「和学講談所」を開きました。日本の歴史や古い制度、古典を研究し、教える機関です。いまでいえば、国立の日本史研究所のような場所でした。
文政4年(1821)に保己一が亡くなると、翌年、四男の忠宝が数え16歳で跡を継ぎ、和学講談所の御用掛となります。それから亡くなるまでの41年間、忠宝はこの研究所を切り盛りし、『続群書類従』『武家名目抄』、そして日本の歴史を年月順に史料でたどる『史料』などの編纂を進めました。歌もよくし、『温故詠草』という歌集を残しています。
忠宝の仕事でよく知られているのが、小笠原諸島をめぐる調査です。幕末、小笠原の島々にはアメリカやイギリスなどが関心を示していました。幕府の求めに応じて、和学講談所は日本人が古くからこの島々を知っていたことを示す史料を差し出したと伝えられています。小笠原諸島が国際的に日本の領土と認められるのは、その後の幕府や明治政府の調査・交渉を経た明治9年(1876)のことですが、その土台となる史料を用意したひとりが忠宝だったわけです。
父のような華やかな名声はありませんでしたが、幕府の学問の実務を地道に支えた、まじめな学者でした。そのまじめさが、思わぬかたちで命取りになります。
時代背景—文久2年、江戸と京都で何が起きていたのか
文久2年(1862)は、幕末のなかでも特に血なまぐさい一年でした。
- 1月:老中・安藤信正が江戸城の坂下門外で水戸浪士らに襲われる(坂下門外の変)
- 2月:孝明天皇の妹・和宮と将軍・徳川家茂の婚儀(和宮は前年の秋に京都から江戸へ下っていました。公武合体)
- 4月:土佐で参政・吉田東洋が斬られる。京都では寺田屋騒動
- 夏から秋:京都で「天誅」と称する暗殺が相次ぐ(本間精一郎、目明し文吉など)
- 12月12日:江戸・品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館を、長州藩の高杉晋作らが焼き打ち
- 12月21日:塙忠宝が九段で斬られる
和宮の降嫁は、朝廷と幕府を結びつける「公武合体」の切り札でした。しかし尊王攘夷を唱える人たちの目には、幕府が天皇の妹を人質のように取ったと映りました。そうした反発のなかで、「幕府は意に沿わない孝明天皇を退位させ、言いなりになる天皇を立てようとしているのではないか」という噂が、まことしやかにささやかれるようになります。「廃帝」とは、天皇を自分から退くのではなく、その位から退かせる(廃する)ことです。噂が最初にどこから出たのかは、はっきりしていません。
坂下門外の変で浪士たちが掲げた斬奸趣意書にも、幕府が廃帝をたくらんでいるという主張が書かれていたといわれます。根拠のない噂でも、何度も語られるうちに「事実」のように扱われていく—そういう空気が、江戸にも京都にも満ちていました。
なぜ塙が狙われたのか—「廃帝の先例」という噂
噂の中身はこうです。幕府は孝明天皇を退位させる口実を探すため、和学講談所の塙次郎と国学者の前田夏蔭(まえだ なつかげ)に命じて、過去に天皇が位を追われた例を調べさせている—。
たしかに塙は、老中・安藤信正から調べものを頼まれていました。しかしその中身は、寛永(1624〜1644)より前の時代に、日本が外国からの使節をどのような作法で迎えたか、という儀礼の先例です。開国して外国の公使が江戸に住むようになり、幕府は外交の場の礼儀を決める必要に迫られていました。その参考資料を、日本の古い制度にくわしい和学講談所に求めたのです。
ところが、和学講談所は幕府の機関であり、「幕府の学者が昔の天皇の例を調べている」ということだけが外に漏れ、尾ひれがついて「廃帝の先例調べ」に化けてしまいました。調べものの中身を確かめた人は、誰もいなかったのでしょう。
尊王攘夷の志士たちから見れば、天皇を退位させる手伝いをする学者は、許しがたい「奸賊」です。こうして、政治とはほとんど縁のなかった学者が、暗殺の標的になってしまいました。
斬った側—若き伊藤俊輔と山尾庸三

このとき伊藤俊輔は数え22歳(満21歳)。周防の農家に生まれ、父とともに足軽の伊藤家に入った、身分の低い若者でした。吉田松陰の松下村塾に学び、桂小五郎(木戸孝允)の従者として江戸で働いていました。
山尾庸三は数え26歳。長州藩の重臣・繁沢家の領地を預かる庄屋の家に生まれ、江戸に出て桂小五郎に師事し、幕府の船でアムール川の流域まで調査に出かけた経験もある人物です。
ふたりはこの月の12日、高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多(井上馨)らとともに、御殿山のイギリス公使館焼き打ちに加わったばかりでした。攘夷の熱が最も高まっていた時期の、血気さかんな若者たちだったのです。
事件当日の模様—歌会の帰り道

伊藤の伝記『伊藤博文伝』には、田中光顕の証言として、伊藤と山尾が国学に入門したいと装って事前に塙の家を訪ね、顔を確かめていたという話が伝えられています。たまたま出会って斬ったのではなく、相手を見定めたうえでの待ち伏せだったというのです。
文久2年12月21日。塙忠宝は、駿河台に屋敷を構える旗本・中坊広伴(陽之助)を訪ね、歌会に加わっていました。同じ席には、歌人の加藤甲次郎(加藤一周)もいました。
会がお開きになったのは夜。塙は提灯の明かりを頼りに、三番町の自宅へ向かいました。九段坂を上れば、自宅はすぐそこです。
その帰りを、伊藤と山尾が待ち伏せていました。『国史大辞典』は、塙が九段坂の付近で斬られて倒れ、翌22日に亡くなったとしています。いっしょに歩いていた加藤甲次郎も、このとき浪士に誤って斬られ、命を落としたと伝えられています。標的ではなかった人まで巻き込まれたのです。数え56歳の学者と、刀を手にした20代の若者ふたり。勝負になるはずもありませんでした。
幕末史家・平尾道雄の『維新暗殺秘録』は、さらに生々しい場面を描いています。門前で提灯の明かりに顔を確かめるや「奸賊」と斬りつけ、首を九段坂の上まで持ち去って板塀にさらし、伊藤が罪状を板切れに書いた、というものです。ただし、この描写は翌日に亡くなったとする辞典の記述と食い違っており、ほかの史料で裏づけられているわけではありません。確定した事実というより、のちに語られた伝承のひとつとして読むのがよいでしょう。
犯人は誰か—なぜ伊藤博文だとわかったのか
事件の直後、犯人は分かりませんでした。幕府も、斬った者を捕らえることはできていません。
伊藤と山尾の名が出てくるのは、ずっとあとのことです。明治になって総理大臣となった伊藤から、昔の話として直接聞いたという土佐出身の田中光顕の書簡が、『伊藤博文伝』に収められています。田中は警視総監や宮内大臣を歴任し、昭和のはじめまで生きて「幕末の語り部」と呼ばれた人物です。伊藤本人が書き残した告白文が残っているわけではなく、あくまで後年の証言にもとづく話ですが、伊藤と山尾を実行犯とする見方は、いまでは主な人物事典にも採られています。
大正10年(1921)6月12日には、四谷の愛染院で塙保己一の没後百年祭が開かれました。この席で演説した渋沢栄一が、忠宝を斬ったのが伊藤と山尾だったことに触れたと、『渋沢栄一伝記資料』に記録されています。事件から60年ちかくたって、ようやく公の場で語られたことになります。
のちに日本の憲法をつくり、近代国家の仕組みを整えた政治家が、20歳を少し過ぎたばかりのころに、誤った噂を信じて人を斬っていた—。これは歴史の大きな皮肉として、今も語られています。
噂は本当だったのか—塙は無実だった
結論からいえば、塙忠宝は廃帝の先例など調べていませんでした。調べていたのは、外国の使節を迎える儀礼の先例です。もうひとりの名を挙げられた前田夏蔭も、同じ調査に関わっていただけでした。
つまり塙は、自分の仕事とはまったく別の「陰謀」の罪を着せられて殺されたことになります。巻き添えになった加藤甲次郎にいたっては、何の関わりもありませんでした。いまの言葉でいえば、フェイクニュースによる殺人でした。
文久2年の暗殺には、こうした「疑い」だけで命を奪った例が少なくありません。京都の本間精一郎も、目明し文吉も、確かな証拠があって斬られたわけではありませんでした。誰かが「あいつは奸賊だ」と言えば、それで十分だったのです。
事件のその後—斬られた側と斬った側のその後
塙家と和学講談所
塙忠宝の亡きあとは、息子の塙忠韶(ただつぐ)が跡を継ぎ、和学講談所の仕事は続きました。しかし慶応4年(1868)、幕府の崩壊とともに和学講談所は廃止されます。編纂の仕事と集められた膨大な史料は明治政府に引き継がれ、いまの東京大学史料編纂所へとつながっていきました。塙父子が守った史料は、形を変えて今も日本史研究を支えています。
伊藤博文
事件の翌年、文久3年(1863)5月、伊藤は井上聞多(井上馨)・山尾庸三・遠藤謹助・野村弥吉(井上勝)とともに、国禁を破ってイギリスへ密航します(長州ファイブ)。ロンドンで西洋の国力を目の当たりにした伊藤は、攘夷の無謀さを悟り、開国と近代化へと考えを大きく変えていきました。
明治18年(1885)、伊藤は初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の制定を主導します。そして明治42年(1909)、満洲のハルビン駅で安重根に撃たれ、自らも暗殺によって生涯を閉じました(伊藤博文暗殺とは)。
山尾庸三
山尾もイギリスで造船などの工学を学び、帰国後は工部省の中心として日本の工業化を進め、「工学の父」と呼ばれます。そして山尾は、目の見えない人や耳の聞こえない人のための学校づくりを政府に訴え、盲唖教育の先駆けとなりました(山尾庸三とは)。
全盲の大学者・塙保己一の息子を斬った男が、のちに目の不自由な人の教育に力を尽くした—。これを事件への償いだったと見る人もいますが、山尾自身がそう書き残したわけではなく、動機は史料からは断定できません。それでも、なんとも不思議な巡り合わせです。
塙忠宝ゆかりの地
- 和学講談所跡(東京都千代田区三番町24付近):塙保己一が開き、忠宝が守った研究所の跡。東京都の旧跡に指定されています(標柱は現在撤去されています)。忠宝の自宅もこの近くでした。
- 九段坂(東京都千代田区):事件の現場とされる坂の付近(正確な地点は分かっていません)。いまは靖国神社や日本武道館へ向かう坂として、多くの人が行き交っています。
- 愛染院(東京都新宿区若葉2丁目):塙忠宝の墓所。はじめ四谷寺町の安楽寺に葬られ、のちにこちらへ移されました。父・塙保己一もここに眠っています。
▶ この事件を起こした側の人物
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- ヒュースケン暗殺(1861)—アメリカ公使館の通訳、麻布・中ノ橋
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 島田左近暗殺(1862)—木屋町、京都「天誅」の第一号
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 宇郷玄蕃暗殺(1862)—九条家の諸大夫、松原河原の首
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 石部宿の与力殺害(1862)—東海道の宿場で4人、江州石部事件
- 塙忠宝暗殺(1862)—九段坂、伊藤博文が斬った国学者(この記事)
- 池内大学暗殺(1863)—大坂、難波橋にさらされた首
- 賀川肇暗殺(1863)—首は慶喜の宿所へ、腕は岩倉邸へ
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 袖解橋の変(1864)—井上聞多の暗殺未遂、山口
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 世良修蔵暗殺(1868)—福島・金沢屋、奥羽越列藩同盟の引き金
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 広沢真臣暗殺(1871)—参議が自宅で殺された未解決事件
- 喰違の変(1874)—右大臣・岩倉具視の暗殺未遂
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
✎ 筆者のひとこと
塙を斬ったのは、のちに日本の憲法をつくる伊藤博文でした。しかも、いっしょに歩いていただけの歌人まで巻き添えになっています。あの伊藤でさえ、若いころは噂ひとつで人を斬る時代の空気に飲み込まれていたのだと思うと、背筋が寒くなります。
父の保己一は、目が見えなくても学問で道を切りひらいた人。その息子が、誰も確かめなかった噂で命を落としたのは、なんともやりきれません。


