大田原城の戦いとは?雨と火薬庫の爆発が救った城—会津藩・伝習隊1000人に攻められた小藩の一日を図解でわかりやすく

慶応4年(1868)5月2日。下野国(いまの栃木県)の大田原城に、会津藩と旧幕府軍の兵およそ1000人が攻めかかりました。守る大田原藩は1万1千石の小さな藩で、藩主はまだ8歳。城下は火に包まれ、大手門まで敵が迫ります。

ところが夕方、城内で大きな爆発が起こると、攻め手は急に兵を引き上げていきました。小藩の城が落城をまぬがれた「大田原城の戦い」です。この記事では、この一日を進軍図とイラスト、そして筆者が歩いた大田原城跡の写真で解説します。

田植えの準備中に兵の列に気づく農家の女性のイメージ
5月2日の朝、田植えの準備中に兵の列を見つけた村の人々(イメージ図)
目次

大田原城の戦いとは?ひとことで言うと

新政府軍の白河攻めの拠点になっていた大田原城を、会津藩と旧幕府の伝習隊などが那須の山を越えて急襲した戦いです。城下や侍屋敷は焼かれましたが、城は落ちませんでした。

日時 慶応4年5月2日(1868年6月21日)午前〜夕方
場所 下野国那須郡大田原(現在の栃木県大田原市)。城の北西の石林から城下・大手門まで
攻めた側 会津藩兵の一大隊と大砲隊、旧幕府の伝習隊(遊撃隊とも)約500人、飯野藩を脱藩した森要の隊。あわせて約1000人
守った側 大田原藩(藩主・大田原勝清、8歳)
損害 大田原藩は三番隊長の大田原鉄之進ら藩士と農兵が戦死。攻め手は死傷約40人と伝わる
結果 城下と郭内の侍屋敷二十余軒が焼けたが、城は落ちず。攻め手は夕方に塩原方面へ退いた

なぜ大田原城が狙われたのか

奥州街道の「おさえ」の城

大田原城は、奥州街道が下野から陸奥へ入る手前に築かれた城です。江戸時代を通じて、徳川家は小さな大田原藩のこの城を「奥州へのおさえ」として重んじてきました(大田原城と大田原藩)。

新政府軍の白河攻めの拠点に

慶応4年4月、宇都宮や今市の戦いで旧幕府軍が敗れると、北関東は新政府軍の手に落ちました(宇都宮城の戦い・今市の戦い)。新政府軍の次の狙いは、奥州の入口・白河です。

新政府方についた大田原藩の城下は、白河へ向かう新政府軍の一大拠点になりました。食糧や弾薬をたくわえ、人や馬を次の宿場へ送り出す。逆に言えば、会津藩から見れば、白河を攻める敵の補給基地を叩ける場所だったのです。

那須の山を越えて

宇都宮から会津へ退いた旧幕府軍は、会津藩とともに反撃をねらいます。会津藩士の原田主馬之助らが率いる兵は、那須の山中の三斗小屋を越えて板室へ下り、5月1日に百村に泊まりました。

大砲を引いて那須の山を越える会津・旧幕府軍のイメージ
大砲を引いて那須の山を越える会津藩・旧幕府軍(イメージ図)

両軍の顔ぶれと兵力

攻めた側(会津藩・旧幕府軍)

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
会津藩 松平家
23万石
一大隊と大砲隊。原田主馬之助の兄弟が率いた隊は「大原田隊」「小原田隊」と呼ばれた
伝習隊 旧幕府 約500人。フランス式の訓練を受けた旧幕府の歩兵(大鳥圭介が率いた部隊)
飯野藩脱藩士 保科家
2万石
藩を脱けた森要が率いる一隊。飯野藩の保科家は、会津松平家の祖・保科正之とゆかりの深い家

守った側(大田原藩)

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
大田原藩 大田原家
1万1千石
城の北の経塚まで出て迎え撃ち、のちに城の大手口・華陽門などで守った。藩主・大田原勝清は8歳

両軍の条件を比べる

会津藩・旧幕府軍 大田原藩
兵力 約1000人 1万1千石の小藩。主力の新政府軍は白河方面に出ていて、城は手薄だった
武器 伝習隊の洋式銃と、会津藩の大砲 火縄銃が中心。この日の大雨で使えなくなった
ねらい 新政府軍の補給基地をつぶすこと 城と、たくわえた食糧・弾薬を守ること
地の利 山を越えて不意を突けた 空堀と土塁に囲まれた台地の城。城下は狭く曲がった道

戦いの流れ

大田原城の戦いの進軍図
大田原城の戦いの進軍図(古地図風・イメージ)

朝:二手に分かれて大田原へ

5月2日、攻め手は二手に分かれました。約200人が関谷から薄葉へ回り、約800人の主力は御用堀に沿って石林へ進みます。午前10時ごろ、沼ノ袋で田植えの準備をしていた農家の女性・磯ナヲが兵の列を見つけ、あわてて逃げ帰ったと伝わります。

大田原藩も敵の接近を知り、北の鍋掛宿にいた阿久津忠義を急いで呼び戻しました。藩兵は城の北の経塚まで出て、敵を待ち受けます。

石林の4時間

石林のあたりで、攻め手が大砲を撃ちこみ、藩兵が応戦して戦いが始まりました。撃ち合いはやがて斬り合いになり、およそ4時間つづきます。

石林で撃ち合う大田原藩兵のイメージ
石林で迎え撃つ大田原藩兵(イメージ図)

午後2時ごろ:大雨で火縄銃が使えない

午後2時ごろ、激しい雨が降り出しました。大田原藩兵の多くが持っていたのは火縄銃です。雨で火縄が湿ると、弾を撃つことができません。藩兵は城の大手口まで下がって守りを固めました。

大雨で火縄銃が使えず退く大田原藩兵のイメージ
大雨で火縄銃が使えなくなり、城へ退く藩兵(イメージ図)

燃える城下、迫る大手門

攻め手は城下の下町・中町に火を放ち、半之助堀から大手門に迫りました。下町口の正法寺の門前では、三番隊長の大田原鉄之進晴親(37歳)が戦死します。郭内では侍屋敷二十余軒が焼け落ちました。華陽門では刑部銭衛、河野育三郎、山田収らが必死に守ります。

燃える城下と大手門を守る藩士のイメージ
燃える城下を背に、大手門を守る大田原藩士(イメージ図)

このあいだに、幼い藩主・勝清は搦手口から城を出て、近くの村に身を隠しました。城には身代わりとして鈴木藤市が残ったと伝わります。

家臣に守られて城を出る幼い藩主のイメージ
家臣に守られて搦手口から城を出る8歳の藩主(イメージ図)

夕方:火薬庫の大爆発

そのとき、攻め手が火を放った城内の御作事場で、たくわえてあった小銃の弾薬およそ5万発が一度に爆発しました。地響きのような大音響に、攻め手は「地雷だ」と思いこみ、兵を引くことを決めます。

夕方6時半ごろ、攻め手は石林へ退きながら村を焼き、関谷(塩原)の方へ引き上げていきました。現地の案内板も、大田原城は「火薬庫の爆発によって落城をまぬがれた」と記しています。

城内の弾薬が大爆発し驚く攻め手のイメージ
城内の弾薬が大爆発し、攻め手は兵を引いた(イメージ図)

戦いのあと

藩主の帰城と褒賞

身を隠していた藩主・勝清は、5月15日に城へ戻りました。藩は東山道総督府や太政官に戦いのいきさつを届け出て、のちの明治2年(1869)6月、新政府から金五千両を与えられています。

戦死した大田原鉄之進の墓は、大田原家の菩提寺・光真寺に、新政府方の戦死者として国が祀る「官修墳墓」として残っています。

白河へ、会津へ

大田原城は落ちず、白河攻めの拠点としての役目を果たしつづけました。この年の5月1日、新政府軍はすでに白河城を落としており、戦いの中心は奥州へ移っていきます(白河口の戦い)。

一方、那須の山中では、このあとも会津藩と新政府軍の小競り合いがつづきました。のちには、攻め手が越えてきた会津への抜け道・三斗小屋でも、黒羽藩などと会津藩兵の戦いが起こっています。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

大田原城の戦いで印象に残るのは、「雨」と「爆発」です。火縄銃しか持たない小藩の兵にとって、大雨は致命的でした。洋式の銃をそろえた伝習隊と、火縄銃の大田原藩。同じ日、同じ場所で戦った兵の武器に、ちょうど時代の境目が見えるように思います。

そして、城を救ったのが味方の弾薬の爆発だったというのも皮肉です。たくわえた5万発の弾薬は、本来なら白河へ送られるはずのものでした。それが燃えて、敵を退かせたのです。攻め手にしても、あと少し粘れば城は落ちたかもしれません。戦いの結末は、ときにこうした偶然で決まります。

筆者が歩いた大田原城跡には、天守も櫓もありません。それでも本丸を囲む空堀の深さは、ここが本物の要塞だったことを教えてくれます。幼い藩主が身を隠し、家臣が大手門を守り抜いた一日を思いながら歩くと、静かな公園の土の起伏が、急に生々しく見えてきました。

現地を歩く ― 大田原城の戦いの史跡

  • 大田原城跡(龍城公園)(大田原市城山):空堀と土塁がよく残る。案内板に戊辰戦争の攻防が記されている
  • 光真寺(大田原市山の手):大田原家の菩提寺。戦死した大田原鉄之進の官修墳墓がある
  • 石林のあたり(大田原市石林):藩兵と攻め手が4時間にわたって戦った場所
  • 三斗小屋・板室(那須塩原市):攻め手が越えてきた那須の山道
大田原城跡の空堀
本丸を囲む深い空堀(筆者撮影)
大田原城跡の案内板
「大田原城之図」と沿革を記した案内板。戊辰戦争の攻防と火薬庫の爆発にもふれている(筆者撮影)
史跡大田原城跡の標柱
「史跡 大田原城跡」の標柱(筆者撮影)

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参考にした資料

  • 『大田原市史』前編(大田原市 地域史資料デジタルアーカイブ)
  • 大田原城跡の現地案内板(大田原市)
  • Wikipedia「大田原城」

文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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