徳川斉昭とは何をした人物か—攘夷の旗頭「烈公」、慶喜を将軍にしようと井伊直弼と争った水戸藩主

梅の咲く偕楽園を背に立つ水戸藩主・徳川斉昭のイラスト

この記事で紹介する徳川斉昭は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

徳川斉昭は、水戸藩の九代藩主です。藩校の弘道館や庭園の偕楽園をつくって藩を立て直し、外国を打ち払うべきだという攘夷論の旗頭として、幕末の政治に大きな影響を与えました。息子の一橋慶喜を将軍にしようとして大老・井伊直弼と激しく対立し、安政の大獄で国元に押し込められたまま、桜田門外の変の半年後に亡くなります。死後の名は「烈公」。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、柄本明さんが演じます。

目次

徳川斉昭とはどんな人か

  • 生まれ:寛政十二年(1800年)、水戸藩主・徳川治紀の三男として江戸の水戸藩邸で生まれる
  • 藩主:文政十二年(1829年)、兄・斉脩の死後、数え三十歳で九代藩主に
  • 藩政改革:藤田東湖・会沢正志斎ら身分の低い藩士を取り立て、弘道館(藩校)と偕楽園を開く
  • 幕府との関わり:ペリー来航後、老中・阿部正弘に招かれて幕府の海防の相談役に
  • 子ども:男女あわせて三十人を超える。七男が一橋慶喜(のちの十五代将軍・徳川慶喜)
  • 最期:万延元年(1860年)八月十五日、水戸で死去。数え六十一歳。墓は常陸太田市の瑞龍山

部屋住みから藩主へ

斉昭は藩主の三男で、もともと藩主になる立場ではありませんでした。三十歳になるまで、家督を継げない「部屋住み」として過ごします。兄の斉脩に子がなく、跡継ぎに将軍家から養子を迎える話も出ていましたが、藩内の改革派の藩士たちが斉昭を推し、兄の遺書もあって、文政十二年(1829年)に藩主となりました。

この「藩士に担がれて藩主になった」という始まりが、斉昭の政治を決めます。斉昭は、自分を推した藤田東湖や会沢正志斎ら、家柄は低くても学問と志のある藩士を次々に取り立てました。

弘道館と偕楽園

斉昭の藩政改革でとくに知られるのが、天保十二年(1841年)に開いた藩校・弘道館と、翌年に開いた庭園・偕楽園です。弘道館は文武を学ぶ大規模な学校で、儒学だけでなく医学や天文学なども教えました。偕楽園は藩主だけの庭ではなく、領民にも開かれた庭として造られ、いまも梅の名所として知られています。

ほかにも、領内の検地をやり直し、軍備を強め、大砲をつくるための反射炉を築くなど、改革は多岐にわたりました。一方で、寺の鐘を大砲の材料にするなど寺院を厳しく扱ったことや、大がかりな鉄砲の演習を行ったことが幕府に問題視され、弘化元年(1844年)、斉昭は隠居と謹慎を命じられます。

攘夷の旗頭—阿部正弘に招かれる

謹慎を解かれた斉昭が表舞台に戻ったのは、ペリーが来た嘉永六年(1853年)です。老中首座の阿部正弘は、外国を強く警戒する斉昭を幕府の海防の相談役(参与)に迎えました。反対の声の大きい斉昭を外に置くより、内に取り込んでしまおうという阿部のやり方です。

斉昭は「外国の言いなりになってはならない」と強く主張し、大砲を幕府に献上し、水戸藩で造った洋式帆船・旭日丸を幕府に差し出すなど、海防に力を尽くしました。斉昭の考えの土台になったのが、藤田東湖や会沢正志斎が唱えた「水戸学」です。天皇を尊び、外国を打ち払うという尊王攘夷の考えは、水戸から全国の志士へと広がっていきました。

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慶喜を将軍に—井伊直弼との対決

斉昭の七男・慶喜は、一橋家の養子となり、賢いと評判でした。子のない十三代将軍・徳川家定の跡継ぎに慶喜を立てようと、斉昭は越前の松平慶永(春嶽)や薩摩の島津斉彬らとともに「一橋派」をつくります。

これに対し、紀州藩主の慶福(のちの家茂)を推したのが、彦根藩主の井伊直弼ら「南紀派」でした。大奥では、斉昭は強引で好色だとして評判が悪く、その子の慶喜も嫌われたと言われます。安政五年(1858年)、大老となった井伊は慶福を跡継ぎに決め、さらに天皇の許しを待たずに日米修好通商条約に調印しました。

怒った斉昭は、決められた日でないのに江戸城に乗り込み、井伊を問い詰めます(不時登城)。しかし、決まりを破って登城したことを逆に咎められ、謹慎を命じられました。

戊午の密勅と安政の大獄

同じ年の八月、孝明天皇から水戸藩に、幕府を通さずに直接、勅書が下されます(戊午の密勅)。幕府の頭越しに朝廷が一つの藩に命令を出すという、前代未聞のできごとでした。井伊はこれを、斉昭と水戸藩が朝廷を動かした陰謀と見て、激しく反発します。

ここから、尊王攘夷派や一橋派の公家・大名・志士を次々に処罰する安政の大獄が始まりました。安政六年(1859年)、斉昭は水戸で永蟄居(終身の謹慎)を命じられます。慶喜も隠居と謹慎を命じられました。

桜田門外の変と、斉昭の死

万延元年(1860年)三月三日、水戸藩を脱けた浪士たちが、江戸城の桜田門の外で井伊直弼を討ちました(桜田門外の変)。斉昭が直接命じたわけではありませんが、斉昭を慕い、安政の大獄に憤った水戸の藩士たちでした。

その五か月後の八月十五日、斉昭は水戸で亡くなります。数え六十一歳。心臓の発作だったと言われます。永蟄居の身のままでした。

斉昭が育てた尊王攘夷の考えは、そのあと長州や薩摩の志士たちに受け継がれ、やがて幕府を倒す力の一つになっていきます。そして斉昭が将軍にしようとした慶喜は、のちに十五代将軍となり、最後の将軍として大政奉還を行うことになりました。

小栗忠順と斉昭

斉昭が攘夷を叫び、井伊と争っていたころ、小栗忠順はまだ三十代の旗本でした。井伊が大老として力をふるった時代に、小栗は目付に取り立てられ、通商条約の批准のための遣米使節に加わります。斉昭が反対した条約を確かなものにするために、小栗は太平洋を渡ったことになります。

外国を打ち払うべきだと考えた斉昭と、外国から技術を取り入れて国を強くしようとした小栗。二人は同じ「国を守る」ことを考えながら、まったく逆の道を選んだ人でした。

大河『逆賊の幕臣』の徳川斉昭

番組の発表では、斉昭は「水戸藩主。『烈公』。息子・慶喜を将軍後継とするため立ち回り、井伊直弼と対立」と紹介されています。柄本明さんは、岡部たかしさんが演じる井伊直弼とぶつかる役どころになりそうです。息子の慶喜役は、まだ発表されていません。

発表されたほかの登場人物は、大河ドラマ『逆賊の幕臣』特集にまとめています。

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参考資料:Wikipedia日本語版「徳川斉昭」「戊午の密勅」「安政の大獄」、茨城県・水戸市の公開資料、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

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