藩がなくなったのは明治四年七月十四日の廃藩置県だ、と学校では習います。ところがその日を待たずに、自分から「藩をやめさせてください」と願い出て、許されて消えた藩がいくつもありました。最初は明治二年十二月の吉井藩と狭山藩です。以後、廃藩置県までの一年半あまりのあいだに、十を超える藩が同じ道をたどりました。
この記事では、なぜそんなことになったのか、そして「自分から藩をたたむ」とは具体的にどういう手続きだったのかを見ていきます。
版籍奉還で、藩主は役人になりました
出発点は明治二年六月十七日の版籍奉還です。旧藩主は領地と領民を朝廷に返し、かわりに知藩事に任じられました。数は二百七十余名です。ここで大事なのは、知藩事が世襲の領主ではなく、政府が任命する地方官だという点でした。同じ人物が同じ土地を治めていても、立場はまったく別のものに変わっています。あわせて公卿と大名は華族、家臣は一門から平士まですべて士族と呼ばれることになりました。
家禄は、実収の十分の一と決められました
そして六月二十五日、知藩事の家禄を現石高の十分の一とする改革が行われます。これによって藩の財政と藩主個人の家計が切り離されました。それまで藩の蔵は事実上藩主のものでしたが、以後は藩の収入のうち一割だけが知藩事の取り分と決められたわけです。この法令の呼び方は資料によって「諸務変革」とも「藩知事家禄の制」とも記され、一定していません。
明治三年の「藩制」が、とどめになりました
決定的だったのは明治三年九月十日の「藩制」です。全十三条の短い法令ですが、中身は厳しいものでした。第一条で藩を三つに分け、物成十五万石以上を大藩、五万石以上を中藩、五万石未満を小藩とします。そして効いたのが第二条で、「石高ハ草高ヲ不稱 物成ヲ以テ」、つまり表高ではなく実際に入ってくる米を基準にする、と定めました。表高一万石の藩でも、実収は三千石から四千石ほどにしかなりません。
歳入の使いみちも決められています。現米十万石の藩を例に、知藩事の家禄が一万石、海軍と陸軍の費用が九千石、残る八万一千石で藩庁の費用と士族・卒の禄をまかなう、という配分でした。軍費九千石はその半分を政府へ納めることになっています。さらに第十二条は、これまでの藩の借金は藩が自分で返せ、返済の年限は藩債の総額に応じて自分で立てよ、と定めました。借金を抱えたまま、実収の八割強で藩士全員を食わせ、なおかつ返済せよ、ということです。
「実収一万石未満は廃藩」という条文は、見あたりません
ここで一点、断っておきます。藩制によって実収一万石未満の藩は廃藩と定められた、と説明されることがありますが、十三か条を読んでも、そのような規定は見あたりませんでした。そもそも第二条で基準が実収に変わった以上、その読み方では表高三万石級の藩まで一斉に消える計算になってしまい、実際の歴史と合いません。小藩が消えたのは、条文で名指しされたからではなく、この配分では立ち行かなかったからでした。
手続きは、願い出て許しを得る形でした
では「自分からたたむ」とは何をすることだったのか。知藩事が政府へ廃藩を願い出て、許されると太政官が布告を出す、という順序です。盛岡藩の場合、布告の文面は「自今盛岡藩被廃 盛岡県被置候事」でした。多度津藩は「解藩建白書」という名で出しています。許可が下りると知藩事は免官となり、領地は近くの県に編入されるか、支藩であれば本家に併合されました。勝手にやめられたわけではなく、あくまで願い出て政府が受ける形です。
最初に消えたのは、吉井と狭山でした
明治二年十二月、上野の吉井藩と河内の狭山藩が相次いで廃藩となります。吉井藩は表高一万石、藩主は吉井信謹でした。慶応四年二月に松平姓を捨てて吉井姓に改め、上野国の諸藩に先駆けて版籍奉還を行った藩です。その信謹が十二月に知藩事を辞し、領地は岩鼻県に入りました。日付は二十五日とする資料と二十六日とする資料があって一致せず、辞職の理由を直接記した史料も今回は確認できませんでした。
狭山藩は、北条氏康の子・氏規の系統が一万石余で残っていた藩です。最後の知藩事・北条氏恭も他藩に先駆けて版籍奉還を行いましたが、同じ十二月の二十七日に知藩事を辞し、堺県に編入されました。こちらは理由がはっきりしています。相次ぐ出兵でかさんだ軍事費と、積み上がった藩債です。
盛岡藩は、七十万両を払えませんでした
規模の大きい例が盛岡藩です。奥羽越列藩同盟に加わった咎で二十万石を没収され、白石十三万石へ移されました。翌年、七十万両を納めることを条件に盛岡への復帰が認められます。ところが凶作で税収の見込みが立たず、七十万両はどう考えても払えません。大参事の東政図は、藩主の辞任と廃藩のほかに道はないと判断して政府に嘆願しました。明治三年五月に願い出て、七月十日に許されています。
讃岐では、二つの藩が続けて願い出ました
明治四年に入ると動きが速くなります。讃岐の多度津藩は正月に解藩の建白書を出し、二月五日に廃藩を認められて倉敷県に合併されました。本家の丸亀藩も三月に願い出て、四月十日に丸亀県となっています。廃藩置県のわずか三か月前でした。このほか越後の長岡藩が明治三年十月二十二日に柏崎県へ、信濃の龍岡藩、近江の大溝藩、石見の津和野藩も廃藩置県の前に消えました。ただしこの三藩の日付は、明治四年六月とする資料と、廃藩置県前日の七月十三日とする資料があって割れています。
支藩は、本家に吸われて消えました
独立した藩の廃藩とは別に、支藩が本家に併合されて消えた例があります。性格が違うので分けて見ておきます。安芸の広島新田藩が明治二年、出羽の米沢新田藩が同年七月に本家へ返されました。明治三年には若狭の鞠山藩が小浜藩へ、美濃の高須藩が名古屋藩へ、因幡の若桜藩が鳥取藩へ、播磨の福本藩が十一月に鳥取藩へ併合されています。周防の徳山藩は明治四年五月、知藩事を辞して所領を本家の萩藩へ返しました。
このなかで福本藩は変わった経歴を持っています。寛文三年に一万石で立ちながら二年後に旗本へ落ち、二百年あまり旗本のままでしたが、慶応四年六月に鳥取藩の蔵米三千五百石を加えられて一万五百七十三石となり、ふたたび大名に戻って藩になりました。そして明治三年十一月に廃藩です。藩に戻ってから、わずか二年でした。
大藩の願いは、通っていません
面白いのはここからです。廃藩を願い出たのは小藩だけではありませんでした。鳥取藩の池田慶徳、尾張藩の徳川慶勝、熊本藩の細川護久、そして阿波徳島藩からも廃藩の申し出が出ています。こちらは財政難というより、統一した国家をつくるべきだという立場からのものでした。ところが許されたのは盛岡藩までで、鳥取・尾張・熊本・徳島はいずれも明治四年七月の廃藩置県まで藩として残ります。小藩の願いは通り、大藩の願いは通らなかったわけです。なぜ政府が大藩の廃藩を止めたのかを直接述べた資料は、今回は見つけられませんでした。
尼崎藩は、間に合いませんでした
摂津の尼崎藩の数字が、当時の小藩の苦しさをよく示しています。実収高は二万七千六百七十石ほど、これに対して藩債は三十万両を超え、利息を払うだけで年に三万八千両かかっていました。明治四年の正月には藩主の松平忠興が知事の免職を願い出る意向を示していたと記録されています。ただし実際に願書が出る前に、七月の廃藩置県が来てしまいました。
借金は、最後にどうなったのか
藩の借金が本当に片づいたのは、廃藩置県のあとです。明治五年三月二十七日の処分と、明治六年三月二十五日の新旧公債証書発行条例によって、藩債は三つに分けられました。天保十四年より前の古い借金は切り捨て、弘化元年から慶応三年までの借金は無利息五十年賦の公債、明治元年以降の借金は年利四分・二十五年賦の公債です。天保十四年で線を引いたのは、幕府がすでに同じ年を境に借金の棄捐を命じていたからでした。先に廃藩を願い出た藩の借金も最終的にはこの枠組みで処理されたとみられますが、廃藩の時点で編入先の県が引き受けたのか、政府が直に引き取ったのかまでは確かめられませんでした。
廃藩置県より前に消えた藩
自分から廃藩を願い出た藩は、次のとおりです。
| 藩 | 国 | 廃藩 | 編入先 |
|---|---|---|---|
| 吉井藩 | 上野 | 明治二年十二月 | 岩鼻県 |
| 狭山藩 | 河内 | 明治二年十二月二十七日 | 堺県 |
| 盛岡藩 | 陸奥 | 明治三年七月十日 | 盛岡県 |
| 長岡藩 | 越後 | 明治三年十月二十二日 | 柏崎県 |
| 多度津藩 | 讃岐 | 明治四年二月五日 | 倉敷県 |
| 丸亀藩 | 讃岐 | 明治四年四月十日 | 丸亀県 |
| 龍岡藩 | 信濃 | 明治四年(日付に諸説) | 中野県・伊那県 |
| 大溝藩 | 近江 | 明治四年(日付に諸説) | 大津県 |
| 津和野藩 | 石見 | 明治四年(日付に諸説) | 浜田県 |
支藩が本家に併合された例は、これとは性格が違いますので分けておきます。
| 藩 | 国 | 廃藩 | 併合先 |
|---|---|---|---|
| 広島新田藩 | 安芸 | 明治二年 | 広島藩 |
| 米沢新田藩 | 出羽 | 明治二年七月 | 米沢藩 |
| 敦賀藩(鞠山藩) | 越前 | 明治三年九月 | 小浜藩 |
| 高須藩 | 美濃 | 明治三年 | 名古屋藩 |
| 若桜藩 | 因幡 | 明治三年 | 鳥取藩 |
| 福本藩 | 播磨 | 明治三年十一月 | 鳥取藩 |
| 徳山藩 | 周防 | 明治四年五月 | 萩藩 |
総数については、十四藩とする資料、十三藩とする資料、十以上とする資料があり、数え方によって変わります。支藩の併合を含めるかどうかで差が出るものと思われます。
そして明治四年七月十四日、まとめて片づきました
こうして小藩が一つずつ消えていくあいだ、政府のほうは別の準備を進めていました。明治四年二月、薩摩・長州・土佐から兵を集めて御親兵を編成します。力の裏づけができたところで七月十四日、残る二百六十余の藩に一斉に廃藩が申し渡されました。願い出るのを待つのではなく、上から断ち切ったわけです。自分から藩をたたんだ十数藩は、その一年半のあいだに起きた、いわば前ぶれでした。
あわせて読みたい
- 吉井藩——最初に自分から消えた藩のひとつ。天狗党とも戦っていません
- 狭山藩——北条氏の末裔が一万石余で残っていた藩
- 盛岡藩——七十万両を払えずに廃藩を願い出た藩
- 米沢新田藩——本家に併合されたあと、家だけが華族として残りました
- 福本藩——旗本から藩に戻って、二年で消えた藩
主な参考資料
- 松尾正人『廃藩置県の研究』吉川弘文館(巻末に廃藩置県以前の廃藩一覧)
- 「藩制」(明治三年九月十日)全十三条
- 盛岡市、尼崎市立地域研究史料館、福井県史、愛媛県史の公開資料
- 小林延人「藩債処分から考える債権の近代化」
なお本文中に書いたとおり、「実収一万石未満は廃藩」という規定の有無、吉井藩の廃藩日、龍岡・大溝・津和野の廃藩日については、確認できたところまでを書き分けています。

