徳山藩(下松藩、長州藩支藩)
藩の歩み
もともと藩庁は下松にありましたが、慶安三年(1650年)、藩主「毛利就隆」が交通の要路である徳山に藩庁を移しました。この地は野上と呼ばれていましたが、徳山と改称しました。天保七年(1836年)、本家萩藩の斡旋により徳山藩主は城主格となり、これまで「御館」(徳山陣屋)と呼ばれていた藩庁が、「御城」「御殿」(徳山城)と呼ばれるようになりました。
慶応二年(1866年)の第2次長州征伐では、徳山藩の主力は小瀬川口に出陣し幕府軍撃退に貢献しました。慶応四年(1868年)の戊辰戦争においても、「鳥羽・伏見の戦い」や東北(会津・庄内)、箱館戦争などで軍功を挙げました。これらの功績を賞されて明治二年(1869年)六月には永世賞典禄八千石を与えられています。
同年、第9代藩主「元蕃」は版籍奉還により徳山藩知事となりましたが、明治四年(1871年)五月には、廃藩置県に先んじて藩知事を辞任し、その所領を本家の山口藩に返還しました。同年九月には家督も「元功」に譲っています。廃藩の時点での実質石高は六万九千石余りだったと伝わります。
本家・長州藩との関係
徳山藩は、周防の長州藩(毛利家)の支藩です。毛利家の分家が四万石を領しました。
幕末、本家の長州藩が討幕の主役となると、徳山藩も毛利一門としてこれに従います。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いから、奥羽の戦い、さらに箱館戦争にまで藩兵を送り、各地を転戦しました。最後の藩主は毛利元蕃(もとみつ)です。長州とともに維新を戦い抜いた支藩でした。
一度取り潰され、領民の運動で三年後に戻った藩です
享保元年の改易と、享保四年の再興
徳山藩は、江戸時代の半ばに一度消えています。正徳六年(1716年、同年に享保と改元)、三代藩主毛利元次のときに改易されました。原因は、領民の立木伐採をめぐる本家(萩藩)との対立でした。
そして家臣や領民の熱心な運動により、3年後の享保四年(1719年)、元尭のときに三万石で再興されました。本家との揉め事で潰された支藩が、領民の運動で戻ってきたわけです。天保七年(1836年)には一万十石の加増とあわせて城主格の待遇となりました。
元治元年、藩の中で七人が殺されました
幕末の徳山藩には徳山七士と呼ばれる人たちがいます。元治元年(1864年)の禁門の変のあと、保守派が藩の政権を握り、尊王攘夷派の七人を殺しました。八月十二日に児玉次郎彦・江村彦之進が暗殺され、十月二十四日に河田佳蔵・井上唯一が、翌年一月十四日に本城清・浅見安之丞・信田作太夫が処刑されています。七人のうち二人は処刑ではなく暗殺でした。その後、萩藩の宍戸親基と前原一誠が藩主元蕃に強く迫り、藩論が元に戻ったとされます。
児玉神社の境内に「徳山七士碑」があります。神社の創建は大正十一年とする資料と、大正十二年とする資料があります。関連:長州藩・長府藩
陣屋は「日本三大陣屋」に数えられ、空襲で焼けました
徳山の藩主の館は、現在の周南市文化会館のあたりにありました。その規模は「日本三大陣屋」に数えられるほどだったといわれます。そして、館は昭和二十年(1945年)の徳山空襲で焼失しました。明治を越えて残った館が、太平洋戦争で焼けたことになります。跡地には大坂城の残石の展示とガス灯があります。徳山動物園(1960年開園)の一帯も、旧徳山藩主毛利氏の屋敷があった場所です。
藩校は、天明五年(1785年)に「鳴鳳館」として創立し、天保二年(1831年)に現在の徳山小学校の場所へ新築移転、嘉永五年(1852年)に「興譲館」と改称しました。藩主毛利元蕃は文化十三年七月二十五日生まれ、天保八年に家督を継ぎ、明治十七年七月二十二日に六十九歳で没しています。子爵は、家督を継いでいた毛利元功が明治十七年七月八日に授けられています。
柳間の支藩と、児玉源太郎の少年時代
内分から公認の大名へ
藩祖の毛利就隆は慶長7年(1602)に京都で生まれました。元和3年(1617)に兄の秀就から周防国都濃郡の3万1千石余を内分(幕府に届けない分知)で受け、寛永11年(1634)に幕府の公認を得て大名に列しました。家格は外様、殿席は柳間です。同じ寛永11年には就隆が長府の毛利秀元と組んで萩藩からの独立を図り、秀就に阻まれたとも伝わります。「徳山」の地名は、興元寺の山号「万徳山」に由来するという説があります。
改易と再興
享保元年(1716)の改易(万役山事件)のあと、3代元次は出羽新庄藩に預けられました。重臣の奈古屋里人が奔走して再興を実現させたと伝わります。
徳山七士と児玉源太郎
児玉源太郎は嘉永5年(1852)に徳山藩士の家に生まれました。義兄の児玉次郎彦は「徳山七士」の一人として暗殺され、児玉家は一時家名断絶となりますが、翌年に藩論が戻って再興されています。源太郎は明治元年に献功隊の半隊司令として秋田に出征し、翌年は箱館戦争に加わりました。禁門の変の責任を負った長州藩の家老・益田右衛門介が切腹したのも、徳山の惣持院でした。
考察:本藩の苦難を引き受けた土地
家老の切腹の場となり、藩士が暗殺される。長州の激しい藩論の揺れは、支藩の徳山にいちばん厳しい形で押し寄せました。その中で育った少年が、のちに日露戦争の参謀となる。徳山は維新史の「裏の舞台」として見直されてよい土地だと思います。
徳山藩をもっと詳しく
浪人と三男坊で組まれた家臣団
藩祖の毛利就隆が元和3年(1617年)に分けられた3万石は、寛永2年(1625年)の検地で実際には4万石余りあったとされます。ただ就隆は江戸で過ごすことがほとんどで、下松に初めて入ったのは寛永15年(1638年)のことでした。家臣団の多くは、関ヶ原の戦いのあとに浪人していた者や、本家の藩士の次男・三男を取り立てて編成されています。藩政のしくみは本家の萩藩とほとんど変わりませんでした。
「日本三大陣屋」の名残
徳山の藩庁は、空堀も水堀も設けず土塁で囲んだだけの簡素な構えでしたが、陣屋としては規模が大きく、敦賀藩酒井家の敦賀陣屋、飯野藩保科家の飯野陣屋とともに「日本三大陣屋」に数えられました。いまは周南市文化会館、祐綏神社、徳山動物園の一帯がその跡です。文化会館の前庭はかつての庭園で、館邸跡の碑には館の門と御殿の古写真が掲げられています。
動物園の中には、3代藩主元次が朝夕にこの石に座って太華山の山頂の仏像を拝んだと伝わる「遥拝石」が残ります。文化会館の敷地には、江戸幕府が始めた大坂城修築の普請に長州藩が加わった際、徳山藩が大津島から用意した石垣の石が残っています。使われずに残ったこの石には、毛利家の家紋「一文字に三つ星」を略した「一〇」の印が刻まれています。歴代藩主の墓は周南市の大成寺にあります。
詩歌を好んだ最後の藩主・元蕃
最後の藩主毛利元蕃は、8代広鎮の七男として江戸の今井谷屋敷に生まれました。兄たちが早世したり他家へ養子に出たりしたため跡継ぎとなり、天保8年(1837年)に家督を継いでいます。文武に通じ、とくに詩歌にすぐれた人で、諱を就軌、広篤、元蕃と改め、岐陽・烙庵・随風堂などの号を持ちました。母は出羽山形藩主・秋元永朝の娘、正室は萩藩主毛利斉熙の娘・八重子です。嘉永3年(1850年)に大きな風水害が起きると領内の村々を見て回り、老人をいたわり、孝行者やよく働く農民をほめました。そのときの詩文は『省耕集』として出版されています。嘉永6年(1853年)の黒船来航では、萩藩とともに浦賀の警備を命じられました。藩政では洋学や国学を奨励し、洋式の軍隊の編成にも力を入れています。
本家と諸藩をつなぐ兄弟
元治元年(1864年)7月の禁門の変のあと、元蕃は本家の毛利敬親・元徳父子、長府藩主毛利元周、清末藩主毛利元純とともに官位を奪われました。責任を負わされた益田親施・福原元僴・国司親相の3家老は、まず徳山に幽閉されています。元蕃の兄弟には、こうした長州藩の歴史を左右した人が並びます。兄の福原元僴は萩藩の家老となった人で、益田・国司の二家老が徳山で自刃したのに対し、福原は元蕃の庶兄であったため岩国に送られて自刃しています。弟の毛利元徳は本家の藩主毛利敬親の養子となって長州藩の世子となり、別の弟の秋元志朝は母方の縁で山形藩の秋元家を継ぎ、のちに館林へ移って館林藩主となりました。禁門の変のあと、志朝は毛利家の出身であることから幕府に内通を疑われ、隠居させられています。徳山の藩主家は、本家と諸藩をつなぐ血縁の要でもあったのです。
一方で元蕃自身の子は、娘の寿美子を除いて幼いうちに亡くなりました。跡を継いだ毛利元功は長府藩主毛利元運の八男で、寿美子と結婚して養子となりましたが、のちに離縁しています。元功は慶応3年(1867年)に元蕃の名代として藩兵を率いて上京し、鳥羽・伏見の戦いに加わったあと、慶応4年(1868年)3月にイギリス留学へ旅立ちました。元蕃は晩年を東京で過ごし、いまは陣屋跡の祐綏神社に祭神として祀られています。
4万石の兵力の目安
慶安2年(1649年)の軍役の規定(案)とされる「1万石あたり235人」を4万石に当てはめると、動員の目安は十人単位でおよそ940人です。ただし、この規定は案のまま発布されなかったとする説もあります。廃藩のころの実際の石高とされる6万9000石余で計算すると、およそ1620人になります。
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