多度津藩(丸亀藩支藩)
藩の歩み
多度津藩は丸亀藩の支藩です。多度津周辺(香川県仲多度郡多度津町)で一万石を領し、多度津に陣屋を構えていました。丸亀藩2代藩主「京極高豊」は、家が絶えることをおそれて、側室の子の高通に支藩を立てさせたいと幕府に届け出ていました。元禄七年(1694年)に高豊が亡くなり、3代藩主「京極高或」が3歳で本家を継ぐと、数えで4歳の庶兄高通に一万石の分与が認められ、ここに多度津藩が成立しました。
正徳元年(1711年)、高通は成長し実質的に多度津藩主として政務を執りました。その後、3代藩主「高文」まで丸亀城内に居住し、4代藩主「高賢」は文政十年(1827年)、幕府に陣屋の建設を願い出て認められ、その年に陣屋を構えました。
慶応四年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは官軍として戦い、一月十九日には本藩丸亀藩、土佐藩とともに高松藩を攻撃しました。この時は大目付服部喜之助を総督に先進隊の兵士50人を従軍させたが、高松藩は間もなく降参したので、一月二十一日に兵を帰しました。その後、伏見取締を命ぜられ伏見街道および鳥羽口の警備をします。
明治四年(1871年)二月五日、廃藩置県を待たずに廃藩となり、倉敷県に合併されました。その後、名東県を経て香川県に編入されました。
本家・丸亀藩との関係
多度津藩は、讃岐の丸亀藩(京極家)の支藩です。京極家の分家が一万石を領しました。
戊辰戦争では、多度津藩は本家の丸亀藩とともに新政府軍につき、佐幕的とみなされた隣国の高松藩へと進軍しました。最後の藩主は京極高典です。讃岐の京極一門として、宗家と歩みをともにした支藩でした。
天保九年の湛甫が、北前船を呼びました
多度津湛甫
多度津藩の仕事で今に残るいちばん大きなものは、港です。天保九年(1838年)、河口部を使っていた古い港を改修して湛甫(たんぽ)が造られました。砂洲の上にある町を川と潮から守り、手狭になった港を広げるためです。
これによって水深が深くなり、大型の弁才船(千石船)が入港できるようになりました。多くの北前船や廻船が出入りし、金毘羅参りの船も寄りました。幕末期の護岸は近年の工事で見えなくなりましたが、明治末以降に改修された部分と、当時のもやい石はいまも見られます。
築造を進めた藩主について、資料は四代高賢とするものと、五代高琢とするものがあります。別の資料は高琢が巨費を投じて大改修を行ったとしています。
陣屋と藩校自明館
丸亀藩(→丸亀藩)の支藩として元禄七年(1694年)に一万石を分けられた多度津藩は、当初は丸亀城の郭内に居館を置いていました。多度津に陣屋を構えた年は、文政十年(1827年)とする説明と文政八年(1825年)とする説明に分かれます。町は「旧京極氏多度津藩家中屋敷」を町の史跡とし、調練場・馬場・射場などを設けた陣屋だったと説明しています。
藩校は自明館で、その扁額が町の指定文化財です。発掘では、京極家の「隅立て四つ目紋」を簡略にした菱形の瓦も出ています。
最後の藩主高典
六代京極高典は安政六年(1859年)三月十一日に家督を継ぎました。戊辰戦争では明治元年一月十九日に官軍として高松藩を攻撃し、二十一日に兵を帰し、その後は伏見取締を命じられて警備にあたっています。
明治四年二月五日に廃藩となり、倉敷県に合併されました。七月の廃藩置県を待たずに藩が消えたことになります。高典は明治五年に隠居し、明治七年に再び家督を継いで、明治十七年に子爵となりました。明治三十九年(1906年)正月十日に七十一歳で亡くなっています。次男の高備が明治三十九年に子爵を継ぎ、のちに貴族院議員となりました。
廃藩後は倉敷県、丸亀県などを経て香川県に入りました。港を広げた藩の名は、いまも多度津の町に残っています。
御座船「日吉丸」の茶室が残る—多度津藩と海
丸亀京極家の分家
多度津藩は、讃岐丸亀藩・京極家の分家です。家格は外様(譜代とする説もあります)で、江戸城では柳間に詰め、参勤交代をしていました。藩主の京極高典の母は、町人の娘だったと伝わります。江戸藩邸は麻布鳥居坂にあり、いまの国際文化会館のあたりです。
御座船「日吉丸」と船屋形茶室
海に面した多度津藩は、藩主が乗る御座船「日吉丸」を持っていました。その船の上にあった屋形(部屋)を移したと伝わる茶室が、宇多津の西光寺に残っています。船の部屋がそのまま茶室になっているのは、とても珍しいものです。海の藩らしい遺産といえます。
多度津港と、幕末の戦い
多度津藩は天保年間に多度津港を大きく整備し、金毘羅参りの船が着く港として栄えました。戊辰戦争では新政府側につき、幕府方とみなされた高松藩を攻める軍に加わっています。明治四年(1871年)には、藩の記録を積んだ汽船が遠州灘で難破し、多くの記録が失われたとされます。下屋敷の跡はいまの桃陵公園です。
海に生き、海に記録を失った藩
港をつくって栄え、御座船の茶室を残し、最後は記録を積んだ船を海で失う。多度津藩の歴史は、最初から最後まで海とともにありました。宇多津の茶室は、海に消えた記録の代わりに、この藩の姿をいまに伝えてくれているように思います。
多度津藩をもっと詳しく
4歳の初代と、3歳の本家当主
多度津藩の初代・京極高通は、丸亀藩2代藩主・京極高豊の四男で、母は側室でした。高豊と正室のあいだに生まれた男子は3人とも幼くして亡くなり、元禄5年(1692年)生まれの高或が丸亀藩の跡継ぎに決まります。それでも家が絶えることを心配した高豊は、高通に支藩を立てさせたいと幕府に届け出ました。元禄7年(1694年)に高豊が亡くなると、高或が丸亀藩を継ぎ、高通は1万石を分けられて多度津藩が生まれました。
このとき高通は数えで4歳、本家の高或は3歳でした。兄の高通が幼い当主の後見役として分家を願い出たという説明も伝わっていますが、高豊が家の断絶をおそれて届け出たとする説明もあります。後者に立てば、多度津藩は本家の血筋を絶やさないための「控え」として生まれた家ということになります。高通は宝永6年(1709年)に官位を受け、自ら藩政を執るようになったのは正徳元年(1711年)のことでした。それまでの多度津藩には陣屋もなく、藩主の家は丸亀城の中で暮らしていました。
和歌を好んだ初代と、6代の藩主
高通は享保20年(1735年)に長男の高慶へ家督を譲って隠居し、「道静」と号して和歌や書に親しみました。寛保3年(1743年)に53歳で亡くなっています。藩主はこのあと高慶、高文、高賢、高琢、高典と続き、多度津藩は6代、176年にわたって続きました。
5代の高琢は天保4年(1833年)に父・高賢の隠居で家督を継ぎ、防波堤を築いて多度津に瀬戸内の良港を整えた藩主として名が残ります。港の大改修を父の高賢の仕事とする資料もあり、親子2代にわたる事業だったとも考えられます。安政6年(1859年)3月には養子の高典へ家督を譲りました。高琢が亡くなったのは慶応3年(1867年)3月、57歳のときです。大政奉還の半年あまり前まで、隠居として藩を見守っていたことになります。
2つの郡にまたがる20の村
1万石の領地は、讃岐国の多度郡と三野郡にまたがっていました。郷の名でいえば、多度郡の三井・吉原・葛原、三野郡の大野・勝間・高瀬です。村の数は多度郡が15か村、三野郡が5か村で、あわせて20か村でした。港町の多度津を中心に、内陸の村々が年貢を支える形の藩だったといえます。
1万石の軍役と、高松へ出た50人
慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の基準(案)では、1万石あたり235人を出すことになっていました。これを多度津藩の1万石にあてはめると、十人単位でおよそ240人が動員の目安になります。ただし、この軍役規定は案にとどまり、正式には発布されなかったとする説もあります。
慶応4年(1868年)1月、多度津藩が高松藩攻めに出したのは先進隊の50人でした。目安のおよそ5分の1にあたります。本家の丸亀藩や土佐藩とともに進む一隊としての出兵で、1万石の支藩が実際に戦場へ送り出せた人数の規模がうかがえます。


