丸亀藩の歩み
明暦三年(1657年)に山崎氏は3代で断絶し、翌万治元年(1658年)に「京極高和」が播磨龍野から入封しました。丸亀藩は、讃岐国(香川県)の西部を領し丸亀城を本城とした藩です。江戸期を通じて京極氏がこの地を統治し続けました。

幕末の動乱期には尊王派として行動し、御所警備のためにたびたび出兵しました。慶応四年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では丸亀藩の隣藩の高松藩が朝敵となったため、新政府の命令で土佐藩と共に高松藩追討にあたりました。(くわしくは土佐藩の四国鎮撫とは)しかし高松藩主「松平頼聰」から新政府に対して赦免を嘆願してもらうように仲介を依頼され、新政府に取り次いで頼聰を赦免させています。

明治二年(1869年)二月に諸藩に先駆けて「版籍奉還」を願い出て、藩主「京極朗徹」は三月十九日に丸亀藩知事に任じられます。その後、藩士の知行削減などの改革を行ないました。明治四年(1871年)三月には諸藩に先駆けて「廃藩置県」を願い出て、四月十日に丸亀藩は廃藩となりました。

その後丸亀県となり、朗徹は丸亀県知事に任じられました。しかし4ヵ月後の八月十五日に県知事を辞職して東京へ移りました。
日本一高い石垣と、廃藩置県を待たなかった藩
京極家が丸亀に来るまで
万治元年(1658年)、播磨龍野から京極高和が讃岐西部へ移ってきます。辞典類はこのときの領知を、讃岐国百三十二か村五万六十七石と播磨国揖保郡三十か村一万石、あわせて六万六十七石と記します。丸亀藩が「五万一千石」と紹介されるのは、元禄七年(1694年)に三代高或が庶兄の高通へ多度津一万石を分けたあとの姿にあたります。ただし分知後の石高を五万石余とする資料もあり、端数は文献によって揺れます。
内堀から天守まで、積み上げて約六十メートル
丸亀城は標高約六十六メートルの亀山に築かれ、山頂に本丸、東に一段低く二の丸、さらに低く山腹をめぐって三の丸を置く構えです。香川県の資料は、内堀から天守へ向かって四層に重ねられた石垣の高さを累計で約六十メートルとし、日本一と紹介しています。天守は万治三年(1660年)の完成で、三重三階、高さは約十五メートル。現存する木造十二天守のなかで最も小さい天守です。昭和十八年(1943年)に国宝、昭和二十五年(1950年)の制度の変更で重要文化財となり、昭和二十八年(1953年)には城跡が国の史跡に、昭和三十二年(1957年)には寛文十年(1670年)頃の大手一の門が重要文化財に指定されました。
金毘羅参りの玄関口だった港
丸亀が藩の枠を超えて名を知られたのは、金毘羅参りの上陸地だったからです。天保四年(1833年)に新堀湛甫という船着き場が築かれ、天保九年(1838年)にはその目印として太助灯籠が建ちました。江戸本所の塩原太助が最高額の八十両を寄せたことで知られますが、灯籠に名を刻まれた寄進者と世話人は千三百五十七人にのぼります。ここを起点とする丸亀街道は琴平の高灯籠まで百五十丁、およそ十二キロ。金毘羅へ向かう五つの街道のうち、最も栄えたのがこの道でした。丸亀市は、参詣の土産として作られた朱赤に丸金印の渋うちわが丸亀うちわの始まりで、のちに江戸詰大目付の瀬山登が下級武士の内職として奨励したと説明しています。内職が始まった時期を天明年間とする説もありますが、市の説明に年は記されておらず、ここは断定できません。
鳥羽伏見のあと、隣の高松藩が朝敵になりました
慶応四年(1868年)正月、鳥羽・伏見で旧幕府側に立った高松藩が朝敵とされます。正月十日に藩主松平頼聰の官位剥奪が命じられ、十八日には家老二名が切腹、十九日から二十日にかけて征討軍が進んで土佐藩兵が高松城に入りました。丸亀藩はこの追討軍に加わっています。頼聰は四月十五日に許されますが、その背景としては新政府への軍資金十二万両の献上が挙げられる一方、丸亀藩主京極朗徹が赦免を取り次いだとも伝えられます。後者については確かな史料は見つかっていません。隣り合う二つの藩が、片方は追討する側に、片方は許しを乞う側に分かれる。讃岐の正月はそういう形で明けました。
廃藩置県より三か月早く、自分から消えました
香川県立図書館の年表は、明治二年(1869年)二月二十一日に京極朗徹が版籍奉還を上表したと記します。高松藩は二月十四日、多度津藩は同月末で、讃岐の三藩がほぼ同時に動いたことになります。そして明治四年(1871年)四月十日、丸亀県が置かれました。全国一斉の廃藩置県は同年七月十四日ですから、丸亀藩はそれより三か月早く自分から藩をたたんだ側にあたります。同じ時期に願い出て消えた藩がほかにもあったことは、廃藩置県より前に、自分から消えた藩がありましたにまとめています。
丸亀藩をもっと詳しく
京極家より前:生駒家と山崎家
天正十五年(1587年)、織田信長と豊臣秀吉のもとで功のあった生駒親正が讃岐国に封じられました。親正は慶長二年(1597年)に亀山で丸亀城を築き始め、慶長七年(1602年)に完成すると嫡男の一正が城に入ります。元和元年(1615年)の一国一城令で丸亀城はいったん破却を命じられました。生駒家は高松城を本城として讃岐一国を治めていたため、この時代を丸亀藩と呼ぶのは適さないとする考え方もあります。
寛永十七年(1640年)、生駒家はお家騒動(生駒騒動)で改易となりました。しばらく讃岐は伊予の西条藩・大洲藩・今治藩が分けて治め、寛永十八年(1641年)に山崎家治が肥後富岡から讃岐西部に入って丸亀城を本城とし、ここに丸亀藩が成立します。家治は寛永十九年(1642年)から丸亀城の改修に取りかかり、ほぼ今の縄張りができあがりました。
先祖の戦国武将:大津城の京極高次
京極家は近江の名族・佐々木氏の流れで、室町時代には出雲・隠岐・飛騨の守護を務め、侍所の長官になれる四職の一つでした。応仁の乱のあとに衰えましたが、戦国時代の京極高次・高知の兄弟が家を立て直します。高次は姉妹の竜子が豊臣秀吉の側室となったこともあって取り立てられ、文禄四年(1595年)には近江大津城六万石の城主となりました。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、高次ははじめ西軍に属しながら東軍に転じて大津城に籠もり、西軍の大軍を引きつけて関ヶ原へ向かわせませんでした(大津城の戦い)。この功で若狭一国を与えられています。高次の妻は浅井三姉妹の初(常高院)です。
家が残った理由と、本家・分家
高次の子の京極忠高は出雲・隠岐二か国二十六万四千石の松江藩主となりましたが、寛永十四年(1637年)に跡継ぎのないまま急死しました。本来なら改易となるところ、幕閣で名家が絶えるのを惜しむ意見が出て、甥の高和に六万石が与えられ、播磨龍野藩として家が残されたと伝わります。このとき井伊直孝が、京極家はもともと徳川家と同格の家柄であり、高次の功を考えれば六万石でも誰も批判しないと主張したという話が『明良洪範』に見えます。高和が丸亀に移ったのはその後のことです。
高和は万治三年(1660年)、讃岐で広く信仰されていた金毘羅大権現を江戸三田の藩邸に勧請し、毎月十日には屋敷を開いて江戸の町の人々に参拝させました。これが今の虎ノ門金刀比羅宮です。高和の子の高豊も四十歳で急死したため、嫡男の高或が五万一千石を、庶子の高通が多度津藩一万石を継ぎ、このとき高或は三歳、高通は四歳でした。京極家にはこのほか、高知の流れをくむ但馬豊岡藩・丹後峰山藩もあり、四つの京極家が明治維新まで大名として続きました。
領地のようす
幕末の領地は、讃岐国の豊田郡四十六村・三野郡三十二村・那珂郡二十三村・鵜足郡一村・多度郡九村のほか、播磨国の揖東郡六村・揖西郡二十二村、さらに近江国の蒲生郡二村・坂田郡二村がありました。近江の領地は、蒲生郡の二村が京極高次の妻・常高院の菩提寺である若狭常高寺に、坂田郡の二村が中世以来の京極家の菩提寺である近江の清瀧寺に関わるものでした。藩は金刀比羅宮への参道の起点を持ち、参拝客を相手にした商いが藩の財政を大きく支えたとされます。宝永二年(1705年)には初めての藩札を出し、寛政六年(1794年)には藩校の正明館を開いています。
藩主家の明治以降
明治十七年(1884年)七月八日、京極高徳が子爵となりました。高徳は北海道虻田郡に農場を開き、その土地の一部を鉄道の駅のために提供したことから京極駅ができ、のちに村の名前も京極と改められました。今の北海道京極町の名は、この丸亀の京極家に由来します。高徳は貴族院の子爵議員も務めています。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、多度津藩を分けたあとの五万一千石のこの藩はおよそ千二百人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「丸亀藩」「京極氏」「京極高和」



