狭山藩の歩み
小田原の北条氏は豊臣秀吉に攻められて降伏します(1590年)。当主の北条氏直は徳川家康の娘婿でした。また、叔父の北条氏規(北条氏康の五男)は開戦前から和平のために動き、秀吉にも会っていました。こうした事情から二人は切腹を免れ、高野山で謹慎するよう命じられます。天正十九年(1591年)、氏直は嗣子無くして30歳の若さで死去しました。氏直の死により、北条の本家の血筋はここで絶えますが、氏規が家を引き継ぎ、北条氏の当主になりました。

その後、罪を許されて氏規の子「北条氏盛」は下野国内で四千石、氏規も河内狭山で七千石を領することになります。慶長五年(1600年)に氏規が亡くなると、子の北条氏盛が家と領地を受け継いで一万一千石の大名となり、河内の狭山に狭山藩が生まれました。戦国大名・北条氏の名は、この小さな藩で明治まで続いたことになります。
江戸時代の後半から幕末にかけて、狭山藩は大坂に近いために何度も兵を出しています。天保八年(1837年)の大塩平八郎の乱、安政元年(1854年)のロシアのプチャーチンの艦隊の大坂湾来航、文久三年(1863年)の天誅組の鎮圧です。そのたびに軍事費がかさみました。
慶応四年(1868年)からの「戊辰戦争」では当初から新政府軍に加わりました。もともと江戸時代の中ごろから赤字が続いていたところへ出兵が重なり、藩の財政は立ち行かなくなります。
氏恭は狭山藩知事に任ぜられるも早々に辞任を乞い、同年十二月に認められました。明治二年(1869年)十二月、最後の藩主・北条氏恭は、廃藩置県(1871年)を待たずに自分から藩の廃止を願い出て認められ、狭山の地は堺県に入りました。借金に押しつぶされる形で、全国でも最も早く消えた藩の一つです。その後は大阪府に編入されました。現在、大阪府堺市堺区神明町東3丁の西本願寺堺別院(堺北御坊)に狭山藩の御成門と梵鐘が移築されています。
狭山藩は吉井藩とならんで、もっとも早く自分から廃藩を願い出た藩です。その経緯は廃藩置県より前に、自分から消えた藩がありましたにまとめました。
家康の幼なじみ・北条氏規
狭山藩の北条家を残した北条氏規(うじのり)は、北条氏康の五男です。少年時代、北条家と今川家の同盟のしるしとして駿府の今川義元のもとに預けられていました。同じころ、三河の松平竹千代、のちの徳川家康も人質として駿府にいました。二人は年も近く、この時期に面識を得ていたと伝えられます。
天正十八年(1590)の小田原攻めで、氏規は伊豆の韮山城を守り、豊臣の大軍を相手に四か月近く持ちこたえたのち、家康の説得を受けて城を開きました。開戦前から和平に動いていたこと、家康とのつながりがあったことが、北条家の血筋を残すことにつながります。戦国の関東を支配した北条氏の名が、河内の一万石の大名として明治まで続いたのは、この氏規の働きによるものでした。
狭山池のほとりの陣屋
狭山藩の陣屋は、日本最古のため池とされる狭山池(いまの大阪府大阪狭山市)の近くに置かれました。一万石の小藩で城は持たず、藩主は参勤交代で江戸と狭山を行き来しました。狭山池は飛鳥時代に築かれ、奈良時代の行基、鎌倉時代の重源、そして慶長年間には豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が改修したと伝えられる池で、北条家が狭山に入ったのは、ちょうどその大改修のころでした。陣屋の門と梵鐘は、廃藩後に堺の西本願寺堺別院へ移されて残っています。
同じころの日本—朝鮮出兵の前夜
天下統一のあと 北条氏規が河内に領地を与えられた天正十九年(1591)、天下を統一した豊臣秀吉は、明(中国)を征服するための準備を進めていました。肥前に名護屋城を築き、全国の大名に出兵を命じたのです。
文禄の役 翌文禄元年(1592)、秀吉の軍は朝鮮半島に渡り、文禄の役が始まりました。滅びた北条家の一族として生き残った氏規は、この時代、秀吉に仕える小さな大名として、新しい天下の秩序の中に身を置いていました。氏規の家は、のちに狭山藩として幕末まで続きます。
狭山藩をもっと詳しく
大坂の屋敷から狭山の陣屋へ
藩ができたころ、北条家は狭山ではなく、氏規が大坂に持っていた屋敷(今の大阪市中央区の久宝寺町)で政務をとっていました。狭山に陣屋を構えたのは二代藩主・氏信の元和二年(1616年)のことです。陣屋は河内国丹南郡の池尻村と半田村にまたがる場所で、今の大阪府大阪狭山市狭山にあたります。北条家は外様大名として扱われ、北条早雲から数えて続いた家の名を、この陣屋で十二代にわたって守りました。
一度は途絶えかけた家
三代藩主の氏宗は、ふだんの飲酒がもとで体をこわし、江戸城への登城が続けられなくなって、寛文十年(1670年)に隠居しました。跡を継ぐはずだったのは、従弟で婿養子の氏治です。ところが氏宗は将軍への御目見えも官位の叙任も済ませていなかったため、老中の稲葉正則が反対し、家督の相続が認められないという異例の事態になりました。北条一族が動いた結果、大老の酒井忠清が取りなし、氏治は「新しく藩を立てる」という形で一万石を与えられて、家はかろうじて続きました。
藩政と財政
江戸時代の中ごろから狭山藩の財政は赤字続きで、宝暦十年(1760年)には下級武士たちが藩政の改革を求めて動いた「狭山騒動」が起きています。ただし改革はなかなか進みませんでした。十一代藩主の氏燕は嘉永元年(1848年)に藩校「簡修館」を立て直し、ほかの藩の子弟も学べるようにしました。安政五年(1858年)には、財源を得るために、山あいの村の農民が作る氷豆腐(高野豆腐)を藩の専売品にしています。
最後の藩主・北条氏恭のこと
最後の藩主・氏恭は、下野佐野藩主・堀田正衡の七男として弘化二年(1845年)に生まれ、万延元年(1860年)に氏燕の養子となって、翌文久元年(1861年)に家督を継ぎました。大坂に近い藩として、和泉の高石の海岸に砲台を築き、天誅組の討伐(1863年)、大坂城の警備(1864年)、畿内の幕府領で起きた百姓一揆の鎮圧(1866年)にも兵を出しています。こうした出費が小さな藩の財政を追いつめ、明治二年(1869年)十二月二十七日の藩知事辞任と廃藩につながりました。
藩主家の明治以降
藩を手放したあとの氏恭は、明治三年(1870年)に明治天皇の次侍従、翌年に侍従となり、明治天皇が亡くなった大正元年(1912年)まで四十年あまり天皇のそば近くに仕えました。明治十七年(1884年)には華族令により子爵を授けられています。大正八年(1919年)に七十五歳で亡くなり、爵位は長男の謙吉が継ぎました。四男の雋八は貴族院議員となり、のちに北条家を継いでいます。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万石(氏治のとき以降)のこの藩はおよそ二百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「狭山藩」「北条氏恭」「北条氏治」
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参考資料:Wikipedia日本語版「狭山藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。



