江戸薩摩藩邸の焼討事件とは?鳥羽伏見の引き金—相楽総三らの江戸攪乱と庄内藩による三田の藩邸焼き討ちを図解でわかりやすく

慶応3年12月25日(1868年1月19日)、まだ夜が明けきらない江戸・三田(みた)。冬の冷たい空気のなか、薩摩藩の上屋敷(かみやしき)のまわりを、庄内藩をはじめとする諸藩の兵と幕府の歩兵がぐるりと取り囲みました。門の前では庄内藩の使者が「屋敷にかくまっている浪士たちを引きわたせ」と求めますが、薩摩藩側はこれをはねつけます。

やがて大砲の音がひびき、屋敷から火の手が上がりました。燃えさかる屋敷から浪士たちが刀をふるって飛び出し、品川の方角へ走ります。この事件の知らせが大坂に届くと、旧幕府の将兵の怒りは爆発し、わずか一週間あまりのちに鳥羽伏見の戦いがはじまりました。江戸薩摩藩邸の焼討事件は、戊辰戦争の引き金になった出来事です。この記事では、薩摩藩による江戸の攪乱(かくらん)から焼き討ち、そして鳥羽伏見へつながる流れを、進軍図とイラストで解説します。

暗い冬の明け方、大名屋敷の長い塀のまわりを、提灯と銃を持った兵が取り囲んでいる様子
冬の夜明け前、三田の薩摩藩邸を取り囲む諸藩の兵(イメージ)
目次

江戸薩摩藩邸の焼討事件とは?ひとことで言うと

江戸薩摩藩邸の焼討事件は、薩摩藩邸に集められた浪士たちが江戸で強盗や放火をくり返して幕府を挑発し、ついに庄内藩などがその拠点である三田の薩摩藩邸を攻めて焼きはらった事件です。この知らせが大坂の旧幕府軍に届いたことが、鳥羽伏見の戦いの大きなきっかけになりました。なお、このとき近くにあった薩摩藩の支藩・佐土原藩の屋敷も攻撃の対象になったとされます。

日時 慶応3年12月25日の未明〜午前
場所 武蔵国江戸・三田の薩摩藩上屋敷(現在の東京都港区芝のあたり)と、浪士が逃げた品川宿
旧幕府方 庄内藩(指揮の中心)、出羽松山藩・上山藩・鯖江藩・岩槻藩など、幕府の歩兵隊
薩摩藩側 薩摩藩邸の留守居の藩士と、相楽総三(さがら そうぞう)らの浪士隊(新政府軍が成立する前の出来事)
兵力(おおよそ) 旧幕府方 庄内藩500・上山藩300・鯖江藩100・岩槻藩50の計約950人に、出羽松山藩や幕府の歩兵が加わる(攻め手の総数は資料によってちがい、2000人ほどとする記録もある)/薩摩藩邸側 浪士約200人とする情報がある(集まった浪士は数百人ともいわれ、資料により差がある)
戦死者 薩摩藩邸側 64人とされる。捕縛は112人とする記録と、約75人とする記録(『復古記』)がある。旧幕府方 11人(上山藩9人・庄内藩2人)とされる
結果 薩摩藩邸は焼け落ち、浪士の一部は船で西へ逃れる。旧幕府方で「薩摩討つべし」の声が高まり、鳥羽伏見の戦いへ
江戸城・三田の薩摩藩邸・赤羽根橋・芝・品川宿・品川沖の位置を描いた江戸の地図
江戸薩摩藩邸の焼討事件の位置図。三田の薩摩藩邸は江戸城の南、品川へ続く東海道の近くにあった(イメージ)

なぜ江戸の薩摩藩邸で戦いが起きたのか

大政奉還と、戦いを望んだ薩摩

慶応3年10月、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は政権を朝廷に返す「大政奉還」をおこないました。12月9日には王政復古の大号令が出され、幕府はなくなります。しかし、慶喜は大坂城にとどまり、旧幕府の大きな力はまだ残っていました。

薩摩藩の西郷隆盛たちは、旧幕府の力を完全に取り除くには、戦いで決着をつけるしかないと考えていたとされます。けれども、自分たちから先に戦いをしかければ、天皇や諸藩の支持を失うおそれがあります。そこで、旧幕府の側から手を出させるために、江戸で騒ぎを起こす作戦がとられたといわれています。

京都の屋敷の座敷で、数人の武士が地図を広げてひそひそと話し合っている様子
大政奉還ののち、京都で江戸での作戦を話し合う薩摩藩士たち(イメージ)

三田の藩邸に集められた浪士たち

西郷の指示を受けた薩摩藩士の益満休之助(ますみつ きゅうのすけ)と伊牟田尚平(いむた しょうへい)は江戸に入り、三田の薩摩藩邸に浪士を集めました。その中心になったのが、下総の郷士の家に生まれた相楽総三です。もともと土佐藩の屋敷にかくまわれていた水戸の浪士たちも、この薩摩藩邸へ移されました。集まった浪士の数ははっきりしませんが、焼き討ちの直前には200人ほどいたという情報があります。

浪士たちは夜になると江戸の大きな商家に押し入り、「御用金を出せ」とお金をうばいました。人々はこれを「薩摩御用盗(ごようとう)」とよんでおそれました。犯人たちは仕事を終えると薩摩藩邸に逃げこむので、幕府の役人も手を出せなかったといいます。

夜の町家の大戸をこじ開けて、覆面の浪士たちが押し入ろうとしている場面
夜の江戸の商家に押し入る「薩摩御用盗」(イメージ)

関東各地での騒ぎと、江戸を守る庄内藩

騒ぎは江戸の中だけではありませんでした。11月の末、浪士たちは甲府城をねらって動きましたが、八王子宿で撃退されます。同じころ下野の出流山(いずるさん・現在の栃木市)でも兵を挙げ、12月11日から数日の戦いの末にしずめられました。さらに12月15日には、相模の荻野山中藩(おぎのやまなかはん)の陣屋(現在の神奈川県厚木市)がおそわれています。これらはそれぞれ別の浪士たちが中心になって起こしたもので、どれも大きな成功はしませんでしたが、関東の各地に不安が広がりました。

このころ江戸の市中の見回りを任されていたのが、出羽の庄内藩でした。庄内藩は文久3年(1863年)から江戸の警備を命じられ、浪士組から生まれた新徴組をあずかっていました。庄内藩は配下の新徴組(しんちょうぐみ)とともに町を見回り、浪士の取りしまりにあたっていました。そのため庄内藩は、浪士たちのいちばんの標的にもなっていきます。

両軍の顔ぶれと兵力

旧幕府方

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
庄内藩 酒井家
14万石
江戸市中取締の中心。浪士の引きわたしを求め、攻撃の主力となった
出羽松山藩 酒井家
2万5千石
庄内藩の支藩。前夜からひそかに準備し、浪士を討ち取り捕らえた
上山藩 松平家
3万石
約300人を出し、もっとも多くの死者(9人)を出した
鯖江藩 間部家
4万石
藩邸の包囲に加わった
岩槻藩 大岡家
2万3千石
藩邸の包囲に加わった
幕府の歩兵隊 旧幕府陸軍
(藩ではない)
洋式の歩兵・砲兵として攻撃に加わった

このほか、前橋藩・西尾藩・壬生藩などの名も、出動した藩として記録に見えます。

薩摩藩側

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
薩摩藩 島津家
77万石
江戸の藩邸にいた留守居の藩士たち。引きわたしを拒み、藩邸で戦った
浪士隊(相楽総三ら) (藩ではない) 藩邸に集められた浪士。焼き討ちの中を斬り抜けて品川へ逃れた

両軍の条件を比べる

旧幕府方 薩摩藩邸側
兵力 4藩で約950人。さらに出羽松山藩と幕府歩兵 浪士約200人とする情報がある
武器 大砲と小銃。藩邸に砲弾を撃ちこんだ 刀と小銃が中心
指揮 庄内藩が中心となって各藩を割りふる まとまった指揮系統は弱かったとされる
地の利 藩邸を外から囲み、退路をおさえられる 塀に囲まれた屋敷にこもるが、火に弱い
ねらい 浪士を捕らえ、江戸の治安を取りもどす 幕府に先に手を出させること自体が目的だったとされる

戦いの流れ

薩摩藩邸を青い印で囲む諸藩の配置と、藩邸から品川宿・品川沖へ向かう赤い矢印を描いた図
焼き討ちの進軍図。諸藩の兵が三田の薩摩藩邸を囲み、浪士は品川へ逃れて翔凰丸で脱出した(イメージ)

12月23日:江戸城二の丸が燃える

12月23日、江戸城の二の丸から火が出て、建物が焼けおちました。二の丸には、13代将軍・家定の妻だった天璋院(てんしょういん、篤姫)が暮らしていました。火事の原因ははっきりしませんが、江戸の町では「薩摩の浪士が火をつけたのだ」といううわさが広まりました。

夜空を赤く染めて燃える城の御殿と、それを遠くから見上げる町人たち
12月23日、炎を上げる江戸城二の丸(イメージ)

12月22日〜23日:庄内藩の屯所に撃ちこまれた銃弾

その前の晩、12月22日の深夜には、赤羽根橋(あかばねばし)にあった新徴組の屯所(とんしょ)に鉄砲が撃ちこまれていました。続いて23日には、庄内藩が屯所として使っていた寄席(よせ)にも銃弾が撃ちこまれ、死者が出ました(亡くなった人数は資料によってちがいます)。庄内藩は、薩摩藩邸の浪士のしわざだと考えました。

江戸城の火事と屯所への発砲が重なったことで、幕府の中でも「もう見すごせない」という声が一気に強まります。12月24日、幕府は庄内藩に、薩摩藩邸にいる浪士を引きわたさせ、従わなければ討ち入るよう命じました。庄内藩は近くの諸藩にも協力を求め、夜のうちに出動の準備を進めました。

夜の町の建物の戸口から火花が散り、中の武士たちが身を伏せている場面
庄内藩の屯所に銃弾が撃ちこまれる(イメージ)

12月25日未明:藩邸の包囲と最後の交渉

25日の夜明け前、庄内藩と諸藩の兵、幕府の歩兵が、三田の薩摩藩上屋敷をぐるりと取り囲みました。庄内藩士の安倍藤蔵(あべ とうぞう)が使者として門をたたき、浪士の引きわたしを求めます。しかし薩摩藩側はこれを受け入れませんでした。幕府方の攻撃は庄内藩の独断ではなく、前日に出された幕府の命令にもとづくものでした。

話し合いが決裂すると、包囲する側はいっせいに攻撃の準備に入ります。屋敷の中の浪士たちも、刀や銃をとって迎え撃つかまえを見せました。

大名屋敷の表門の前で、羽織姿の使者が門番と向き合い、背後に兵が控えている場面
25日未明、藩邸の門前で浪士の引きわたしを求める庄内藩の使者(イメージ)

12月25日朝:砲撃と炎上

包囲する側は、藩邸に向けて大砲を撃ちこみました。屋敷のあちこちから火の手が上がり、冬のかわいた空気の中で、火はたちまち燃え広がります。屋敷の中では斬り合いや撃ち合いが起き、薩摩藩邸の留守役だった篠崎彦十郎(しのざき ひこじゅうろう)は、屋敷の外に出たところを庄内藩兵の槍に突かれて亡くなったとされます。

攻める側にも犠牲が出ました。死者は上山藩で9人、庄内藩で2人とされ、庄内藩では大砲の指揮をとっていた中世古忠蔵(なかせこ ちゅうぞう)が戦死しています。庄内藩の支藩・出羽松山藩は、浪士3人を討ち取り、14人を捕らえながら、味方には一人のけが人も出さなかったと記録されています。

大砲が煙を吐き、大名屋敷の屋根から大きな炎と煙が上がっている場面
25日朝、砲撃を受けて燃え上がる薩摩藩邸(イメージ)

12月25日午前:品川へ逃れる浪士たち

燃えさかる屋敷から、浪士たちはかたまりになって斬り出し、東海道を南へ、品川の方角へ走りました。追う幕府方とのあいだで、町のあちこちで小さな戦いが起きます。

浪士たちは逃げる途中、品川宿で火を放ったとされます。この火事で南品川宿では、528軒のうち276軒が焼けたという記録もあります。浪士の争いに、宿場の人々がまきこまれてしまったのです。また、薩摩藩士の益満休之助はこの日、幕府方に捕らえられました。

東海道の町並みを、刀を持った浪士の一団が駆けていき、後ろから兵が追っている場面
燃える屋敷から斬り出し、品川へ走る浪士たち(イメージ)

12月25日〜:品川沖の脱出

品川の沖には薩摩藩の船・翔凰丸(しょうおうまる。「翔鳳丸」と書く資料もあります)が停まっていました。相楽総三ら28人ほどがこの船に乗りこみますが、残りの浪士は置き去りにされたとされます。そこへ幕府の軍艦・回天(かいてん)が近づき、砲撃を加えました。翔凰丸はいったん沖へ逃れ、回天がふたたび近づくと錨を上げて江戸湾を出て、紀州の方角へ逃げのびたといわれます。

藩邸に残った者や逃げおくれた者の多くは、討たれるか捕らえられました。薩摩藩邸側の死者は64人とされます。捕らえられた者の数は資料によってちがい、112人とする記録がある一方、降伏したり捕らえられたりして伝奏屋敷(てんそうやしき)に送られた者を74人から76人(『復古記』では75人)とする記録もあります。

冬の海で、帆と煙突のある船が沖へ逃げ、後方から黒い軍艦が追ってくる場面
品川沖、軍艦回天の追跡をふりきって逃れる翔凰丸(イメージ)

戦いのあと

大坂城に届いた知らせと「討薩表」

焼き討ちの知らせは、12月28日、江戸から来た大目付の滝川具挙(たきがわ ともたか)と勘定奉行の小野広胖(おの ひろなお)によって、大坂城の旧幕府軍へ届けられました。大坂には、京都から引き上げた会津藩・桑名藩の兵や旧幕府の兵が大勢集まっていました。彼らはもともと、王政復古で慶喜が政治から外されたことに強い不満をいだいていました。そこへ「江戸で薩摩を討った」という知らせが届いたことで、「この勢いで薩摩を討つべきだ」という声をおさえられなくなります。

慶喜はこのころ風邪で体調をくずしていたとされ、強くおさえることはありませんでした。旧幕府は薩摩藩の罪をならべた「討薩表(とうさつひょう)」をつくり、それを持たせた軍勢が京都へ向けて進みます。そして慶応4年1月3日、京都の南の鳥羽と伏見で、旧幕府軍と薩摩・長州の軍がぶつかりました。鳥羽伏見の戦いのはじまりです。このため、薩摩藩邸の焼討事件を「戊辰戦争の実質的なはじまり」と考える研究者もいます。

相楽総三・益満休之助・庄内藩のその後

西へ逃れた相楽総三は、新政府軍の先ぶれとして赤報隊(せきほうたい)を結成し、「年貢を半分にする」とふれ回りながら東山道を進みました。しかし新政府は年貢半減の方針を取り消し、引き返せという命令も出します。それでも進軍を続けた赤報隊は、命令にそむいた「偽官軍(にせかんぐん)」とされ、相楽は慶応4年3月3日、信濃の下諏訪で処刑されました。

捕らえられた益満休之助は命を助けられ、のちに勝海舟のもとに引きわたされます。そして、山岡鉄舟が駿府の西郷隆盛のもとへ向かうとき、案内役として同行しました。これが江戸無血開城への道を開くことになります。

一方、焼き討ちの中心になった庄内藩は、薩摩藩から強いうらみを買いました。戊辰戦争がはじまると、新政府は奥羽鎮撫総督の軍を送り、庄内藩は会津藩とならぶ「討つべき相手」とされます。のちの清川口の戦いをはじめとする庄内藩の戦いは、この江戸での一件から続いているのです。

ただ、戦争が終わったあとの庄内藩への処分は、思いのほか寛大なものでした。その裏には西郷隆盛の意向があったといわれ、旧庄内藩の人々はのちに西郷を深く敬うようになります。西郷の言葉を集めた『南洲翁遺訓』は、庄内の人たちがまとめたものです。

城の大広間に大勢の武士が集まり、書状を読み上げる侍のまわりで声を上げている場面
大坂城に届いた知らせ。「薩摩討つべし」の声が高まり、鳥羽伏見の戦いへ(イメージ)

この戦いが示したもの(筆者の感想)

この事件を調べていて、いちばん考えさせられるのは「挑発」という作戦の重さです。薩摩藩は、自分たちから戦いを始めるのではなく、相手に先に手を出させることで、戦いの正しさを自分の側に引き寄せようとしたとされます。結果として、鳥羽伏見の戦いが起きました。もちろん、慶喜の処遇をめぐる不満や会津・桑名藩の怒りなど、戦いにつながる理由はほかにもありましたが、この事件が火をつける大きなきっかけになったことはまちがいありません。歴史の大きな流れが、江戸の町で起きた強盗や放火から動きだしたことに、なんとも言えない気持ちになります。

そして、そのかげで犠牲になった人々のことも胸に残ります。お金をうばわれた商家の人々、火事で家を失った品川宿の人々、そして使い捨てのように扱われ、最後は「偽官軍」として処刑された相楽総三たち。新しい時代をひらいた明治維新には、このような名もない痛みが積み重なっていたのだと感じます。

江戸の治安を守るという役目を果たした庄内藩が、そのために戊辰戦争で標的にされたことも、時代の皮肉だと思います。のちに庄内藩は東北で新政府軍を相手に負け知らずの戦いを見せますが、その戦いの出発点がこの冬の朝の三田にあったと考えると、ひとつの事件のもつ重みをあらためて感じます。

現地を歩く ― 江戸薩摩藩邸の焼討事件の史跡

  • 薩摩藩上屋敷があったあたり(東京都港区芝):焼き討ちの舞台。現在はオフィスビルが立ち並び、当時の面影はほとんどありません
  • 江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見の地碑(東京都港区芝5丁目):近くの薩摩藩蔵屋敷の跡。のちに益満休之助が関わった江戸無血開城の話し合いの場所の一つです
  • 旧東海道品川宿(東京都品川区北品川・南品川):浪士たちが逃れ、火事にまきこまれた宿場です
  • 荻野山中藩陣屋跡(神奈川県厚木市下荻野):浪士たちにおそわれた陣屋の跡です
  • 出流山満願寺(栃木県栃木市出流町):浪士たちが兵を挙げた出流山のお寺です
  • 魁塚(さきがけづか)(長野県諏訪郡下諏訪町):処刑された相楽総三ら赤報隊の隊士をまつる塚です

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 『復古記』(薩摩藩邸焼討の捕縛者数の記述)
  • ウィキペディア日本語版「江戸薩摩藩邸の焼討事件」
  • 跡見学園女子大学文学部紀要所収の論文(庄内藩・出羽松山藩の焼討記録、南品川宿の焼失戸数の分析)
  • 『日本大百科全書』『日本人名大辞典』『世界大百科事典』「相楽総三」「赤報隊」の項
  • 江戸薩摩藩邸焼討事件と鳥羽伏見の戦いの関係を解説した歴史解説記事(徳川慶喜の対応、『昔夢会筆記』の引用)
  • 庄内藩と戊辰戦争を解説した歴史解説記事(薩摩御用盗と奥羽鎮撫軍の派遣)

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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