現地取材– category –
運営者が実際に訪ねた城跡・史跡・寺社の記録です。自分で撮った写真とともに、現地で見たもの、案内板や資料館で分かったこと、行き方を紹介しています。小栗忠順ゆかりの地、新選組の屯所跡、池田屋・近江屋の跡なども歩いています。
-
現地取材
【現地取材】相馬中村城を歩く|伊達に備えて築いた城が、二百五十年後に本当に伊達と戦った
門の両脇に、二本の石柱が立っています。右に「縣社 相馬神社」、左に「縣社 中村神社」。城の門が、そのまま神社の門になっていました。 中村城跡に残る門。両脇の石柱に「縣社 相馬神社」「縣社 中村神社」と刻まれている。 この城から、幕末はどう見... -
現地取材
【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩く|桜田門外の実行隊長と、討たれた井伊直弼の霊塚
水戸の墓地には、幕末が並んでいます。 桜田門外の変で井伊直弼を討った男の墓。斉昭を支えて安政の大地震で死んだ男の墓。天狗党を率いて敦賀で斬られた男の墓。そして—討たれた井伊直弼を弔う塔。 関鉄之介の墓。標柱に「桜田門外の変志士 贈従四位 関... -
現地取材
【現地取材】水戸城と弘道館を歩く|日本中に火をつけて、自分が焼け落ちた藩
水戸は、幕末を語るうえで避けて通れない町です。ここで生まれた思想が、桜田門外の変を起こし、天狗党の挙兵を起こし、そして最後の将軍を出しました。 ですがその同じ思想が、この藩自身を食い尽くしてもいます。 特別史跡「旧弘道館」の石柱と正門。正... -
現地取材
【現地取材】高田城址を歩く|藩は官軍、脱藩した家臣は賊軍。芸州口で壊滅した榊原十五万石
堀の向こうに、黒い三層の建物が建っています。天守閣ではありません。高田城に天守はありませんでした。 堀越しに見る三重櫓。高田城には天守がなく、この櫓が城のシンボルだった。 この城から、幕末はどう見えるか 高田城は幕末まで現役の城です。榊原家... -
現地取材
【現地取材】児山城跡を歩く|日光街道の脇で、帰農した武士たちが見た戊辰戦争
栃木をドライブしている途中、案内標識が目に入ったので、たまたま寄った城跡です。下野市下古山の児山城跡。予備知識はまるでありませんでした。 本丸跡。伐採されたばかりで切り株が点々と残り、地面には一面にスミレが咲いていた。右手にはもう民家が並... -
現地取材
【現地取材】真壁城跡を歩く|戊辰を秋田で戦った家と、真壁に残って焼物屋になった家
冬枯れの原に、低い土塁が長く延びています。青空の下、その向こうに山並みが見えました。城跡というより、広い野原です。 真壁城跡の土塁。冬枯れの原に、人の手で盛られた線がまっすぐ残っている。 ですがこの原は、四百二十年前に一つの家中が二つに分... -
現地取材
【現地取材】小谷城跡を歩く|徳川将軍家の血が生まれた山と、長浜へ運ばれた城下町
登り口に「くま注意」の掲示が出ていました。そして山を登りきったあたりには「スズメバチ注意!!」の黄色い札。小谷城跡は史跡として整備されてはいますが、要するにいまも山です。 幸い、途中までは林道で車を上げられます。それでどうにか主要な曲輪まで... -
現地取材
【現地取材】笠間城を歩く|赤穂浪士の家と、新選組最後の局長を出した城下町
杉木立のなかに、「史蹟 笠間城大手門跡」と刻まれた石柱が立っていました。根元にはしめ縄が巻かれています。ここが城の正面だったと言われなければ、ただの山道です。 笠間は不思議な町です。城は関東ではめずらしく石垣を持ち、その城下からは赤穂浪士... -
現地取材
【現地取材】一乗谷朝倉氏遺跡を歩く|幕末の福井藩士は、この谷の下に町が眠っているのを知らなかった
朝倉氏が百三年間の拠点とした一乗谷。信長に焼かれて土に沈み、本格的な発掘は戦後です。つまり幕末の福井藩士たちは、この谷の下に一万人の都市が眠っていることを知りませんでした。そして足利義昭を迎えながら動かなかった朝倉義景の話は、幕末の諸藩の話でもあります。 -
現地取材
【現地取材】長浜城跡を歩く|秀吉が免じた年貢三百石は、幕末まで生きていた
秀吉が初めて城主になった長浜城。元和元年に廃城となり、資材は彦根城へ運ばれました。それでも「旧長浜領境界碑」の説明板には、秀吉が町人に与えた年貢三百石の免除が徳川幕府にも認められた、とあります。豊臣を滅ぼした徳川が、この特権だけは幕末まで残したのです。 -
現地取材
【現地取材】佐和山城跡を歩く|壊した井伊家が、三枚の絵図を幕末まで伝えた山
石田三成の佐和山城は、彦根城を築くために徹底的に壊されました。ところが西の丸の説明板には「彦根藩主井伊家に伝来した三枚の佐和山城絵図」とあります。壊した側が絵図を残し、麓に菩提寺を建て、山を守り続けた。井伊直弼が毎日見上げて育った山です。 -
現地取材
【現地取材】安土城跡を歩く|嘉永七年に焼けた摠見寺と、出羽二万石になった信長の子孫
天正十年に焼け、十三年には廃城となった安土城。それでも城跡が残ったのは、信長が城内に建てた摠見寺が二百七十年守り続けたからでした。その本堂が焼けたのが嘉永七年—ペリー再来航と二つの大地震の年です。そして信長の子孫は、幕末に出羽天童二万石の藩主でした。 -
現地取材
【現地取材】北ノ庄城址・柴田神社を歩く|福井城の十分手前にある、焼けた城
柴田勝家が築き、賤ヶ岳の敗戦とともに焼け落ちた北ノ庄城。福井城からは歩いて十分ほどしか離れていません。北ノ庄城の石垣は福井城築城の際に取り除かれ、根石だけが残りました。ここで育った三姉妹の末娘・江は徳川秀忠の正室となり、その兄・結城秀康が同じ土地に福井城を築きます。 -
現地取材
【現地取材】福井城址を歩く|松平春嶽と橋本左内、そして龍馬が最後に訪ねた城下
福井県庁は福井城の本丸の中にあります。十一歳で藩主となった松平春嶽が橋本左内・横井小楠・三岡八郎を集めた城下。そして慶応三年十一月、坂本龍馬が生涯最後に訪ねたのがこの町でした。近江屋で斬られる、わずか十日ほど前のことです。 -
現地取材
【現地取材】国友鉄砲の里を歩く|鉄砲鍛冶が日本で初めて宇宙を見た村
滋賀県長浜市の国友町。幕府御用の鉄砲鍛冶の村から、国友一貫斎が現れます。空気に重さがあることを計測で確かめ、天保四年に国産初の反射望遠鏡を完成させ、太陽の黒点を一年間記録した男。そして飢饉の年、村人を救うためにその望遠鏡を売りました。 -
現地取材
【現地取材】彦根城を歩く|井伊直弼の十五年と、赤備えが官軍になった日
国宝天守の建つ彦根城は、大老・井伊直弼の城です。十七歳から三十二歳まで埋木舎で過ごした男が、勅許なしで条約を結び、安政の大獄を断行し、桜田門外で討たれた。そして彼の息子は、十五万石を削られたのち徳川を見限り、井伊の赤備えを官軍として会津へ向けました。 -
現地取材
【現地取材】ペリー上陸記念碑を訪ねる|幕末はこの浜から始まり、碑は一度倒された
嘉永六年六月九日、ペリーは久里浜に上陸しました。明治三十四年に伊藤博文の揮毫で建った記念碑は、昭和二十年二月に倒され、同じ年の十一月に建て直されています。倒す側と建てる側が同じ年に入れ替わった碑です。 -
現地取材
【現地取材】信楽寺・お龍の墓を訪ねる|龍馬の妻が生きた、その後の四十年
坂本龍馬は三十三歳で斬られましたが、妻のお龍はそこから四十年近く生きました。土佐、京都、東京、神奈川宿の料亭、そして再婚。明治三十九年に横須賀で亡くなった彼女の墓には、「龍馬之妻」と刻まれています。 -
現地取材
【現地取材】伊勢亀山城を歩く|幕末に直された多門櫓と、元治二年の道場
三重県亀山市の伊勢亀山城跡。嘉永七年の大地震で大破し幕末に手を入れられた多門櫓が、三重県で唯一、原位置のまま残ります。すぐ近くには元治二年に藩主・石川成之の庇護で建てられた亀山演武場が、いまも道場として使われています。 -
現地取材
【現地取材】吉田城を歩く|安政の大獄をやった老中の子と、「豊橋」という地名の誕生
愛知県豊橋市の吉田城跡。池田輝政の未完の総石垣と、天守を持たなかった城。最後の藩主・松平信古は安政の大獄を実行した老中・間部詮勝の次男で、尾張藩の斡旋で恭順し、版籍奉還の二日後に藩名を「豊橋」と改めました。 -
現地取材
【現地取材】高天神城を歩く|幕末には城でなかった山と、この城を殺した横須賀藩
「高天神を制する者は遠州を制す」といわれた鶴翁山。城は天正九年に落ちて二度と再建されませんでしたが、この城を落とすために家康が築いた横須賀城は幕末まで生きのび、西尾家は佐幕と尊皇に割れたのち安房花房へ移されました。
