現地取材– category –
運営者が実際に訪ねた城跡・史跡・寺社の記録です。自分で撮った写真とともに、現地で見たもの、案内板や資料館で分かったこと、行き方を紹介しています。小栗忠順ゆかりの地、新選組の屯所跡、池田屋・近江屋の跡なども歩いています。
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【現地取材】小田原城を歩く|小田原評定の人形と、箱根で戦った最後の小田原藩
小田原城といえば、まず北条氏の城として浮かびます。ただ、この城が最後に戦場になったのは戦国ではありません。慶応四年(1868年)の夏、箱根の山で旧幕府の遊撃隊と撃ち合ったのが、小田原藩の最後の戦いでした。本丸から見上げた天守。いまの天守は昭... -
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【現地取材】久留里城を歩く|里見義堯が籠もった山城と、新井白石を生んだ城下
千葉県君津市、房総半島のまん中あたりに久留里という町があります。JR久留里線の終点近く、山にはさまれた城下町で、その背後の山に久留里城が建っています。幕末の久留里藩は黒田家三万石。ただ、この城の名前が歴史に出てくるのは、むしろ戦国時代です... -
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【現地取材】和歌山城を歩く|雑賀の平野に建った城と、徴兵制を先取りした紀州藩
和歌山市の中心に、緑の小山がひとつ残っています。虎伏山(とらふすやま)といい、その上に和歌山城の天守が立っています。まちなかを歩いていても、ふと目に入ります。この城を訪ねるとき、私の頭にあったのは徳川の御三家ではなく、雑賀衆でした。鉄砲... -
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【現地取材】雨の今治城を歩く|本家の松山藩は朝敵に、分家の今治藩は会津へ
藤堂高虎が築いた海城・今治城を雨の日に歩きました。幕末の今治藩を治めた久松松平家は、文久三年に砲台と移城を計画し、戊辰戦争では会津まで兵を送りました。同じ一族の伊予松山藩が朝敵となったのと対照的な幕末をたどります。 -
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【現地取材】網戸の東漸寺と木曽義昌|幕末に藩がなかった土地は、十手が仕切っていました
はじめに正直に書いておきます。網戸に、幕末の藩はありません。ここに置かれた網戸藩は十年ほどで消え、城も同じころに廃されました。それでもこの土地を訪ねる意味があると思ったのは、消えたあとに何が来たかのほうが、幕末という時代をよく映している... -
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【現地取材】東善寺の歴史と権田村の人々|宝永元年からの小栗家の菩提寺、首を取り返し「逆賊」の墓を守った150年
群馬県高崎市倉渕町の東善寺を「歴史と物語」の視点で。宝永元年に小栗家の菩提寺となったいきさつ、罷免された小栗忠順の仮住まい、閏4月の最期の日々、館林から首を取り返した村人たち、「逆賊」の墓を守り続けた権田村の150年を年表とともにたどります。 -
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【現地取材】岩国城と錦帯橋を歩く|六万石を領しながら、幕末まで大名ではなかった吉川家
雨の日でした。錦帯橋の欄干の向こう、山の上に白い天守が見えています。岩国を代表する眺めですが、この天守を幕末の岩国の人びとは見ていません。あのとき、山頂に城はなかったからです。 錦帯橋の欄干の向こうに岩国城の天守。雨の岩国です 岩国城が山... -
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【現地取材】小栗上野介の墓はどこ?東善寺の本墓・普門院の首塚・雑司ヶ谷の累代墓と又一の墓
小栗上野介忠順をしのぶ場所は、一か所にまとまっていません。群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺、さいたま市大宮区の普門院、東京・豊島区の雑司ヶ谷霊園、そして神奈川県横須賀市のヴェルニー公園。 -
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【現地取材】岡豊城跡を歩く|長宗我部の敗北が生んだ「郷士」と、幕末土佐の身分の壁
幕末の土佐を動かしたのは、郷士と呼ばれた下級武士たちでした。坂本龍馬も、武市半平太も、この身分です。上士に頭を下げねばならず、道で行き会えば道を譲る側。その鬱屈が土佐勤王党を生みました。 ではその「郷士」という身分は、どこから来たのか。関... -
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【現地取材】芦野氏陣屋跡(御殿山)と交代寄合|三千石で参勤交代した旗本の戊辰戦争
幕末の那須には、一万石に満たないのに大名と同じように参勤交代をしていた家がありました。栃木県那須町の芦野氏です。石高は三千十六石。身分は旗本ですが、江戸に常住せず領地に住み、隔年で江戸へ参勤しました。こういう家を交代寄合といいます。 おも... -
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【現地取材】黒羽城跡と黒羽藩|勝海舟と並び称された藩主、四十七名を祀る招魂社
幕末の黒羽藩には、小藩には不釣り合いな人物がいました。十五代藩主大関増裕。一万八千石の外様大名でありながら、幕府の陸軍奉行と海軍奉行を務め、最後は若年寄まで昇った人です。 栃木県大田原市の黒羽城跡に立つ解説板は、その増裕をこう評しています... -
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【現地取材】喜連川城跡と喜連川藩|五千石で「十万石格」、幕末を生きた足利家の城下町
幕末の日本に、石高が一万石に満たないのに大名として遇され、しかも十万石の格式を認められていた家がありました。下野国の喜連川藩です。栃木県さくら市の喜連川、その町並みを見下ろす丘が、藩の名の由来になった喜連川城の跡、いまのお丸山公園です。 ... -
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【現地取材】馬籠宿を歩く|『夜明け前』が生まれた坂と、平田国学が届いた宿場
岐阜県中津川市の馬籠。中山道の四十三番目、木曽十一宿でいちばん南の宿場です。 「中山道馬籠宿 京に五十二里半 江戸に八十里半」と刻まれた石碑 石碑にこう刻まれています。京に五十二里半、江戸に八十里半。ちょうど真ん中より、少し京都寄りです。こ... -
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【現地取材】桂小五郎の隠れ家跡を訪ねる|中津川の路地裏で、長州の藩論が変わった
岐阜県中津川市。中山道の宿場町です。その本通りから少し入った細い路地の奥に、幕末の日本が動いた場所があります。桂小五郎—のちの木戸孝允が隠れていた家の跡です。 宿場の案内板。ここから路地に入っていく とにかく暑い日でした。日差しを避けるもの... -
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【現地取材】岩村城の藩主邸跡を歩く|幕末の学問を支えた佐藤一斎と、三学戒の碑
岐阜県恵那市の岩村町。日本三大山城のひとつ、岩村城があった町です。標高は七百十七メートル(岐阜県の公式資料は七百二十一メートル)、江戸時代の諸藩の城のなかで最も高い場所に築かれた城とされます。 城下町の外れにある登城口。ここから山頂の本丸... -
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【現地取材】苗木城を歩く|一万石の天空の城と、寺を一つ残らず壊した幕末の藩
岐阜県中津川市。木曽川の右岸に、標高四百三十二メートルの山があります。川からの高さは百七十メートル。その頂に、幕末まで城がありました。 天守跡の展望台。城は巨岩の上にそのまま建てられていた 苗木城です。 石垣を積むのではなく、山にもともとあ... -
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【現地取材】飯田城を歩く|安政六年の石碑に、小栗忠順の師が文を寄せていた
長野県飯田市の追手町。飯田城の本丸跡は、いま長姫神社の境内になっています。正直に言えば、城の遺構はほとんど残っていません。石垣も天守もなく、あるのは神社と、木立と、いくつかの石碑だけです。 -
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【現地取材】近藤勇の墓と板橋刑場跡|永倉新八が、二度果たした義理
JR板橋駅の東口を出ると、すぐ目の前に石碑が立っています。医院の看板とマンションに挟まれた、ごく小さな一角です。ここが近藤勇の墓所でした。 慶応四年四月二十五日、近藤勇はこの近くで斬首されています。享年三十五。そして八年後、生き残った隊士の... -
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【現地取材】泉岳寺と赤穂義士の墓|新選組はなぜ、忠臣蔵の羽織を真似たのか
泉岳寺を訪ねると、境内には義士祭ののぼりが立っていました。妻と二人で線香を買い、四十七士の墓を一つずつ回ります。ここは赤穂義士の寺です。幕末の寺ではありません。 ただ、調べていくうちに、この寺が幕末とまっすぐつながっていることが分かってき... -
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【現地取材】土浦城を歩く|西郷隆盛と月照を大坂の自宅に匿った、土浦藩士がいた
結論から書きます。土浦藩は、薩長土肥のような全国区の志士を輩出していません。 ですが、京都を追われた月照と西郷隆盛が身を寄せた家の主は、土浦藩士でした。 本丸の太鼓門(櫓門)。明暦二年の改築で、関東で唯一現存する城の櫓門とされる。 この城か... -
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【現地取材】白石城を歩く|奥羽越列藩同盟が結ばれた城と、咸臨丸に乗った四百一人
幕末の東北で、いちばん重い会議が開かれた城です。 本丸広場と三階櫓。慶応四年閏四月、この本丸に奥羽の諸藩の代表が集まった。 奥羽越列藩同盟は、この城で結ばれた 白石城は仙台藩領の南端にあり、片倉家が二百六十余年にわたって城主を務めました。仙...
