初秋の浜通りに、潮風とともに大砲の音が響きわたりました。ほんの少し前まで「奥羽越列藩同盟」の仲間だった相馬中村藩の兵が、いまは新政府軍の旗の下で、北の仙台藩の陣地に銃を向けています。慶応4年8月7日(1868年9月22日)、相馬と仙台の藩境で、ひと月あまりにわたる戦いが始まりました。
舞台となったのは、仙台藩領のいちばん南にある駒ヶ嶺(こまがみね)の城と、その西の山あいにある旗巻峠(はたまきとうげ)です。新政府軍に城を奪われた仙台藩は、二度にわたって奪い返しを試み、最後は峠の砲台に立てこもって戦いました。そのあいだにも仙台藩の中では降伏への話し合いが進み、旗巻峠が破られた直後、同盟の盟主だった仙台藩は降伏へとかじを切ります。この記事では、その戦いを進軍図とイラストで解説します。

駒ヶ嶺・旗巻峠の戦いとは?ひとことで言うと
駒ヶ嶺・旗巻峠の戦いは、同盟を離れて新政府側に転じた相馬中村藩とともに北上してきた新政府軍が、仙台藩領の南の入口である駒ヶ嶺と旗巻峠を攻め落とした戦いです。旗巻峠は仙台藩にとって戊辰戦争最後の大きな戦場となり、この戦いのすぐあとに仙台藩は降伏しました(旗巻峠の西の筆甫でも、ほぼ同じころに小さな戦いがありました)。
| 日時 | 慶応4年8月7日〜8月20日(駒ヶ嶺の攻防)、9月10日(旗巻峠の戦い)。※9月8日に明治と改元 |
|---|---|
| 場所 | 陸奥国宇多郡・伊具郡の藩境(現在の福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺・今泉、宮城県伊具郡丸森町大内の旗巻峠) |
| 同盟軍 | 仙台藩(駒ヶ嶺:石田正親・石母田備後、旗巻峠:鮎貝太郎平)。旧幕府の陸軍隊、米沢藩・庄内藩の応援 |
| 新政府軍 | 長州藩・福岡藩・広島藩・鳥取藩・熊本藩・津藩・久留米藩・館林藩など、降伏した相馬中村藩(総督 四条隆謌) |
| 兵力(おおよそ) | 新政府軍:中村城に約3000人と相馬中村藩兵。仙台藩:駒ヶ嶺に約2000人、旗巻峠に約1200人 |
| 戦死者(わかれば) | 駒ヶ嶺の三度の戦い(8月11日の攻略戦と、16日・20日の奪回戦)で、新政府軍 計41人、仙台藩 計168人とされる。旗巻峠では新政府軍7人、仙台藩46人(ほかに米沢藩・庄内藩士15人とする資料もある) |
| 結果 | 新政府軍の勝利。駒ヶ嶺・旗巻峠とも落ち、仙台藩は9月15日に降伏謝罪書を提出した |

なぜ駒ヶ嶺・旗巻峠で戦いが起きたのか
浜通りを北上する新政府軍
慶応4年6月、新政府軍は常陸(茨城県)の平潟に船で上陸し、太平洋沿いの「浜通り」を北へ攻め上がりはじめました。7月13日には磐城平城(いわきたいらじょう)が落ち、新政府軍はさらに北の相馬中村藩の領地へと迫ります。
相馬中村藩は、相馬家が治める6万石の藩で、奥羽越列藩同盟に加わっていました。北どなりの大藩・仙台藩の求めにも応じて、熊川・富岡・広野・浪江などで新政府軍と激しく戦いましたが、押しとどめることはできませんでした。

相馬中村藩の降伏と「転向」
8月のはじめ、相馬中村藩はついに新政府軍に降伏しました(降伏の日は8月4日とも8月6日ともいわれ、資料によって違います)。新政府軍は相馬の中村城に入り、ここを北への前線基地にしました。
降伏した藩は、それまでの罪をつぐなう意味で、新政府軍の一員として戦うことを求められました。こうして相馬中村藩の兵は、きのうまでの味方だった仙台藩と戦うことになったのです。藩境をはさんで暮らす人々にとっては、つらい戦いだったにちがいありません。
仙台藩の南の門―駒ヶ嶺と旗巻峠
駒ヶ嶺は、戦国時代に相馬氏が伊達氏に備えて城を築いた場所で、天正17年(1589年)に伊達政宗の家臣が攻め取って以来、幕末までずっと仙台藩領でした。海に近い平地を見下ろす丘の上にあり、仙台藩はここに浜通り方面の本営を置いていました。
その西の山あいにある旗巻峠は、相馬から仙台藩領の丸森・金山方面へ抜ける峠道の要です。仙台藩は峠に北砲台と南砲台を築き、大砲4門を含むおよそ1200人で守りを固めていました。この二つが破られれば、新政府軍は仙台藩の領内へ入ってしまいます。まさに仙台藩の「南の門」でした。

両軍の顔ぶれと兵力
同盟軍(仙台藩など)
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 仙台藩 | 伊達家 62万石 |
駒ヶ嶺に約2000人(石田正親・石母田備後)、旗巻峠に約1200人(鮎貝太郎平)。細谷十太夫の鴉組(からすぐみ)、松山隊、洋式部隊の額兵隊(がくへいたい)なども加わった |
| 陸軍隊 | 旧幕府の部隊 | 春日左衛門が率い、8月20日の駒ヶ嶺奪回戦で中央から攻めた |
| 米沢藩 | 上杉家 18万石 |
旗巻峠の守りを応援したとされる |
| 庄内藩 | 酒井家 17万石 |
旗巻峠の守りを応援したとされる |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 長州藩 | 毛利家 36万9千石 |
約800人。中心となって駒ヶ嶺を攻め、落としたあとは本陣を守った。旗巻峠では右翼 |
| 福岡藩 | 黒田家 47万3千石 |
約400人。駒ヶ嶺の西側・曹善堂方面で戦った |
| 広島藩 | 浅野家 42万6千石 |
約400人。旗巻峠では鳥取藩とともに左翼から尾根伝いに回り込んだ |
| 鳥取藩 | 池田家 32万5千石 |
約300人。旗巻峠の戦いで勝負を決めた左翼の主力 |
| 熊本藩 | 細川家 54万石 |
約500人。駒ヶ嶺の西側で仙台藩の攻撃を退けた |
| 津藩 | 藤堂家 32万3千石 |
約100人。海沿いの今泉を守った |
| 館林藩 | 秋元家 6万石 |
旗巻峠の戦いで中央を受け持った |
| 中村藩 | 相馬家 6万石 |
降伏後、新政府軍として5小隊と砲隊を出し、各方面に加わった |
| 久留米藩・大洲藩・岩国藩・徴兵七番隊など | ― | 駒ヶ嶺の攻撃や、仙台藩の奪回戦を防ぐ戦いに加わった |
両軍の条件を比べる
| 仙台藩(同盟軍) | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 駒ヶ嶺と旗巻峠を合わせて3000人あまり | 約3000人に相馬中村藩兵が加わる。全国の諸藩から兵が集まっていた |
| 武器 | 旧式の銃や大砲が多い。額兵隊などの洋式部隊は一部 | 新式の銃・大砲をそろえた藩が多い |
| 指揮官 | 石田正親・石母田備後(駒ヶ嶺)、鮎貝太郎平(旗巻峠) | 総督 四条隆謌、参謀 木梨精一郎・河田景与 |
| 地の利 | 自分の領地。丘の城と峠の砲台を押さえていた | 相馬中村藩兵が道案内となり、土地の事情に通じていた |
| 士気 | 藩の中で「戦い続けるか、降伏するか」で意見が割れていた | 各地で勝ち続け、勢いに乗っていた |
戦いの流れ

8月7日〜10日:藩境での前哨戦
8月7日、中村城に集まった新政府軍は、仙台藩を攻めることを決め、仙台藩兵が集まっていた黒木(くろき)を攻撃しました。この戦いで相馬中村藩兵5人、徴兵隊1人、仙台藩兵5人が戦死したとされます。仙台藩兵は藩境まで押し戻されました。
9日には新政府軍が椎木(しいのき)へ進み、仙台藩がこれを攻めたものの押し返されます。10日には旗巻峠の仙台藩兵が大坪(おおつぼ)を攻めましたが、到着が遅れ、相手の援軍が来ると引き上げました。藩境のあちこちで、小さなぶつかり合いが続きました。

8月11日:第一次駒ヶ嶺の戦い―城が落ちる
11日、新政府軍はいよいよ駒ヶ嶺の城に総攻撃をかけました。大砲で城の門を撃ち、海沿い・菅谷(すがや)・曹善堂(そうぜんどう)の高台の三方から攻め寄せます。各方面の攻撃が次々と成功し、夕方までに駒ヶ嶺は落ちました。新政府軍はその日のうちに北の新地(しんち)まで進みました。
この日の戦死者は、新政府軍26人(負傷約160人)、仙台藩32人(負傷78人)とされます。新政府軍の負傷者の多さから、仙台藩も激しく抵抗したことがわかります。

8月16日:第二次駒ヶ嶺の戦い―雨の中の奪回戦
城を奪われた仙台藩は、16日に三つの隊に分かれて駒ヶ嶺の奪い返しに向かいました。しかし、この日は雨で、火縄や火薬がしめって鉄砲の力が十分に出せません。そこへ新政府軍の援軍が到着し、仙台藩は退却しました。旗巻峠から初野(はつの)方面へ出た隊も、横から攻められて失敗に終わります。この日、仙台藩は38人の戦死者を出しました(新政府軍は3人)。

8月20日:第三次駒ヶ嶺の戦い―松山隊の最期
20日、仙台藩は再び三方から攻めかかりました。海沿いの隊は今泉(いまいずみ)へ迫りましたが、津藩兵が守りを固め、大洲藩・長州藩の援軍も駆けつけて押し返されます。釣師浜(つりしはま)へ退いたところで、大戸浜(おおとはま)の側から退路を断たれ、松山隊は多くの戦死者を出しました。降伏よりも死を選んで海に身を投げた者もいたと伝えられ、その数は27人ほどともいわれますが、撃たれたり溺れたりした人もまじっていたと考えられます。
中央では春日左衛門の陸軍隊らが駒ヶ嶺の本陣を攻めましたが、長州藩兵と岩国藩兵に退けられ、西側の隊も福岡・広島・熊本・相馬中村の各藩兵に押し返されました。旗巻峠からは2小隊しか出られず、額兵隊が峠の上から撃ったアームストロング砲もほとんど効果がなかったといいます。この日の戦死者は新政府軍12人に対し、仙台藩は溺れた人を含めて98人にのぼりました。

9月10日:旗巻峠の戦い―仙台藩最後の戦場
二度の奪回戦に失敗したあと、仙台藩の中では降伏を求める声が強まっていきました。8月の下旬には、新政府軍の熊本藩を通じて降伏の仲立ちを探る動きも始まっていたといわれます。それでも旗巻峠の守備隊は、峠の砲台を守り続けます。9月10日、仙台藩と新政府軍は、おたがいに相手の陣へ夜討ちをかけようとして、峠の手前の山で鉢合わせになりました。鴉組の細谷十太夫が、風雨にまぎれた夜襲を進言していたと伝えられます。
はじめは仙台藩が優勢で、正面の館林藩兵と右翼の長州藩兵は苦戦しました。槍をふるって奮戦した仙台藩士の話も残っています。ところが(時刻は資料によってちがいがあります)、左翼の鳥取藩兵と広島藩兵が羽黒山から尾根伝いに進み、旗巻峠の南側へ回り込みました。背後をつかれた仙台藩兵は総くずれとなり、峠は落ちました。この日の戦死者は、新政府軍7人、仙台藩46人とされます。

戦いのあと
仙台藩の降伏
旗巻峠が落ちた翌日、仙台藩の兵は峠を取り返すための軍議を開きましたが、仙台から来た使者が戦いをやめるよう命じました。このころ、米沢藩はすでに降伏し、会津藩は若松城に籠城していました。仙台の沖には榎本武揚の艦隊が来ており、戦い続けるべきだという声もありましたが、旗巻峠を失ったという知らせで、その勢いもしぼんでいきました。旗巻峠の敗戦だけで降伏が決まったのではなく、もともと進んでいた降伏への動きを、この敗戦が後押ししたといえます。
仙台藩は9月13日に降伏の使者を送り、9月15日、かつての前線基地だった相馬の中村城で、新政府軍の総督府に降伏謝罪書を差し出しました(現地の案内板には「翌11日に降伏」と書かれたものもあり、資料によって日付の書き方が違います)。降伏に反対した額兵隊の星恂太郎らは、榎本艦隊に加わって蝦夷地(北海道)へ向かい、箱館戦争を戦うことになります。
仙台藩の領地は62万石から28万石に減らされ、家老の但木土佐(ただき とさ)・坂英力(さか えいりき)は戦争の責任を問われて処刑されました。
藩境に残る戦死者の碑
駒ヶ嶺の城跡の南のふもとには戦死塚と「仙台藩士戊辰戦没之碑」が、松山隊が戦った今泉には「仙台藩松山隊勇戦地」の碑があります。旗巻峠には古戦場の碑と、そこから北東へ500メートルほどの場所に「仙台藩士戦死塚」が建てられ、鴉組の隊長だった細谷十太夫が字を書いた記念碑も残っています。相馬市の慶徳寺には、新政府軍の戦死者の墓が並び、名前や出身の藩、年齢、戦死した場所が刻まれています。相馬中村藩では、この戦争全体で武士と農民あわせて112人が命を落としたといわれます。

この戦いが示したもの(筆者の感想)
この戦いでいちばん重く感じるのは、相馬中村藩の立場です。仙台藩の求めに応じて新政府軍と戦い、降伏すると今度は新政府軍の先頭に立たされて、昨日までの味方を攻める。小さな藩が大きな力の間で生き残るためには、そうするしかなかったのでしょう。どちらの側にも、藩境をはさんで親戚や知り合いがいた人がいたはずで、その気持ちを思うと胸が痛みます。
仙台藩にとっても、つらい戦いでした。62万石の大藩で、同盟の盟主でありながら、藩の中では「戦うか、降伏するか」で意見がまとまらないまま戦いが続きました。二度の奪回戦では、雨で鉄砲が使えなかったり、峠からの援軍が少なかったりと、力を一つにできない様子が見えます。それでも松山隊の兵たちや旗巻峠の守備隊は、最後まで持ち場を守ろうとしました。藩の方針がゆれる中で戦った一人ひとりの覚悟が胸に残ります。
旗巻峠が落ちて数日で、仙台藩は降伏し、奥羽越列藩同盟は事実上くずれていきました。その意味で、この藩境の小さな峠は、東北の戊辰戦争の大きな区切りとなった場所だと感じます。北砲台からは相馬の町並みが見えるといいます。かつての敵味方の土地を見下ろす峠に、一度は立ってみたいと思っています。
現地を歩く ― 駒ヶ嶺・旗巻峠の戦いの史跡
- 駒ヶ嶺城跡(福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺):仙台藩の浜通り方面の本営。本丸跡に城跡碑と案内板、南のふもとに戦死塚と「仙台藩士戊辰戦没之碑」がある
- 「戊辰戦争の戦場跡」碑・「仙台藩松山隊勇戦地」碑(福島県相馬郡新地町今泉・共同墓地内):退路を断たれた松山隊が多くの戦死者を出した場所
- 旗巻古戦場跡(宮城県伊具郡丸森町大内):仙台藩最後の大きな戦場。細谷十太夫が字を書いた記念碑や多くの石碑があり、北東約500メートルに「仙台藩士戦死塚」がある
- 慶徳寺の官軍墓地(福島県相馬市):新政府軍の戦死者の墓が並び、名前・出身藩・年齢・戦死地が刻まれている
- 中村城跡(馬陵公園)(福島県相馬市):相馬氏の居城。新政府軍が前線基地とし、仙台藩が降伏謝罪書を差し出した場所
あわせて読みたい
参考にした資料
- ウィキペディア「旗巻峠の戦い」
- 相馬市観光協会「相馬中村藩の戊辰戦争の跡を巡る旅」
- 宮城県「旗巻峠古戦場」についての資料
- 丸森町観光案内「旗巻古戦場跡」
- 南相馬市「佐藤精明と戊辰戦争」
- 北条高時「戊辰戦争・旗巻峠の戦い──仙台藩最後の抵抗と、奥羽越列藩同盟の終わり」(note)
- 藤原相之助『仙台戊辰史』(上記noteでの引用による)
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


