慶応4年(1868)5月13日の朝。越後・小千谷の北にそびえる朝日山の斜面を、新政府軍の兵が霧にまぎれて登っていきました。先頭に立つのは、長州藩奇兵隊の参謀・時山直八。吉田松陰に「愛すべし」と言われた31歳の若者です。
山頂で待っていたのは、桑名藩の立見鑑三郎(のちの立見尚文)が率いる雷神隊と長岡藩兵でした。小千谷談判が決裂し、長岡藩が新政府軍との戦いを決めたあとの最初の大きなぶつかり合い。それが「榎峠・朝日山の戦い」です。この記事では、北越戦争の幕開けとなったこの数日間を、進軍図とイラスト、当事者の古写真で解説します。

榎峠・朝日山の戦いとは?ひとことで言うと
小千谷談判の決裂で戦うことを決めた長岡藩が、会津藩・桑名藩とともに新政府軍から榎峠を奪い、その上の朝日山に陣を築いて、取り返しに来た新政府軍を撃退した戦いです。奇兵隊参謀の時山直八がこの山で戦死しました。
| 日時 | 慶応4年5月10日〜13日ごろ(1868年6月29日〜7月2日)。朝日山の争奪はその後もしばらく続いた |
|---|---|
| 場所 | 越後国の榎峠と朝日山(現在の新潟県長岡市妙見町・小千谷市浦柄のあたり) |
| 同盟軍 | 長岡藩(軍事総督・河井継之助)、桑名藩(雷神隊長・立見鑑三郎)、会津藩など |
| 新政府軍 | 長州藩(奇兵隊参謀・時山直八)、薩摩藩、尾張藩、上田藩など。北陸道の参謀は山県有朋・黒田清隆 |
| 結果 | 同盟軍が榎峠と朝日山を守りきった。時山直八が戦死 |
| そのあと | 戦線はこう着し、5月19日に新政府軍が信濃川を渡って長岡城を奇襲。城はその日のうちに落ちた |
なぜ榎峠で戦いが起きたのか
小千谷談判の決裂
長岡藩の家老・河井継之助は、新政府軍にも会津藩にもつかない「武装中立」をめざしていました(河井継之助)。5月2日、河井は小千谷の慈眼寺で新政府軍の軍監・岩村精一郎と会い、戦いをやめるよう願い出ます。しかし岩村はこれを聞き入れず、話し合いはわずか30分ほどで終わりました。これが小千谷談判です。
戦うしかなくなった長岡藩は、奥羽越列藩同盟に加わり、長岡の南の摂田屋(せったや)に本陣を置きました(長岡戦争)。
三国街道の入口・榎峠
榎峠は、小千谷から長岡へ向かう三国街道が、信濃川と山にはさまれて細くなるところにあります。ここを押さえれば、新政府軍は長岡へ向かう道をふさがれます。新政府軍は5月3日、尾張藩・上田藩の兵を榎峠に置いていました。河井は、戦いのはじめにこの峠を取り返すことが何より大事だと考えていました。
両軍の顔ぶれと兵力
同盟軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 長岡藩 | 牧野家 7万4千石 |
軍事総督・河井継之助。川島億次郎(三島億二郎)らが榎峠を攻めて奪い、朝日山に陣地を築いた |
| 桑名藩 | 松平家 11万3千石 |
立見鑑三郎の雷神隊が朝日山の山頂を守り、時山直八の部隊を撃退した |
| 会津藩 | 松平家 23万石 |
長岡藩・桑名藩とともに榎峠・朝日山の守りについた |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 長州藩 | 毛利家 36万9千石 |
奇兵隊参謀・時山直八が朝日山を攻め、戦死した |
| 薩摩藩 | 島津家 77万石 |
長州藩とともに朝日山を攻めた |
| 尾張藩 | 徳川家 61万9千石 |
上田藩とともに榎峠に陣を置いていたが、5月10日に追い払われた |
| 上田藩 | 松平家 5万3千石 |
尾張藩とともに榎峠を守っていた |
両軍の条件を比べる
| 同盟軍 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 越後方面全体で数千人とされ、数では大きく劣っていた | 北陸道から次々と兵が送られ、数では上回っていた |
| 地の利 | 朝日山の山頂に塹壕や砲台を築き、上から撃ち下ろせた | 急な斜面を下から登らなければならなかった |
| 武器 | 長岡藩は河井の改革で洋式の銃や大砲をそろえていた | 新式の銃をそろえていた |
| 指揮 | 立見鑑三郎は宇都宮や鯨波で戦ってきた歴戦の隊長 | 参謀の山県有朋が前線を離れているあいだに攻撃がはじまった |
戦いの流れ

5月10日:榎峠を奪う
5月10日、長岡藩は摂田屋の本陣から兵を出し、会津藩・桑名藩とともに榎峠の新政府軍に攻めかかりました。激しい戦いのすえ、尾張藩・上田藩の兵は峠から追われ、同盟軍が榎峠を奪い取ります。北越戦争の本格的な戦いは、ここからはじまりました。

5月11日:朝日山に陣を築く
榎峠のすぐ東には、標高341メートルの朝日山がそびえています。峠を見下ろすこの山を新政府軍に取られれば、峠は守れません。同盟軍は翌11日から朝日山の山頂を固め、河井の指示で塹壕や砲台をつくりました。いまも山頂の展望台のあたりに、その跡が残っています。

5月13日:霧の中の朝日山攻め
新政府軍にとって、朝日山を取り返すことは長岡へ進むための絶対条件でした。13日の朝、奇兵隊参謀の時山直八は、長州藩・薩摩藩の兵を率いて朝日山の斜面を登りはじめます。このとき、北陸道の参謀・山県有朋は前線を離れていて、攻撃は時山の指揮ではじまったといわれます。朝の霧にまぎれて山頂に近づいたとも伝えられます。

しかし、山頂で待ちかまえていたのは、桑名藩の立見鑑三郎が率いる雷神隊と長岡藩兵でした。上から撃ちおろされる銃弾の中、陣頭に立っていた時山は顔を撃たれて即死します。31歳でした。最前線だったため、奇兵隊の兵たちは時山の首を持ち帰るのがやっとで、遺体はその場に残されたといいます。指揮官を失った新政府軍は、山を下りて退きました。

戦いのあと
こう着から長岡城の落城へ
朝日山の戦いのあと、両軍とも決め手を欠き、大砲を撃ち合う日がつづきました。そこで新政府軍は、正面からの攻めをあきらめ、別の道を選びます。5月19日、与板藩の御用商人の舟を使って信濃川を渡り、長岡城下に奇襲をかけたのです。
このとき同盟軍の主力は榎峠や朝日山の守りについていて、城下はほとんど空っぽでした。長岡城はわずか半日で落ちます。榎峠と朝日山を守りきったことが、皮肉にも城の守りを薄くしてしまったのです。長岡藩はその後、7月に八丁沖を渡って城を取り返しますが、それはまた別の物語です(八丁沖の戦い)。

「時山を殺したのはお前だ」
時山直八の死は、長州藩の仲間に大きな衝撃を与えました。同じ松下村塾で学んだ品川弥二郎は、後年まで時山の死を悼み、山県有朋に「時山を殺したのはお前だ」と言いつづけたといわれます。山県が前線を離れていたあいだの出来事だったからです。
朝日山で戦死した同盟軍の兵の遺体は、戦いのあと葬ることを許されなかったと伝えられます。昭和28年(1953)になって、地元の寺の住職らが遺骨を集め、ふもとの浦柄神社に21基の墓碑を建てました。
この戦いが示したもの(筆者の感想)
榎峠・朝日山の戦いは、同盟軍が勝った戦いです。山の上に陣を築き、数で勝る新政府軍を撃退した。立見鑑三郎の名は、この戦いでいっそう知られるようになりました。ただ、そのあとの流れを見ると、この勝ちが長岡藩を救ったとは言いきれません。主力を峠と山に張りつけているあいだに、城を背後から取られてしまったのですから。勝った場所を守ることに力を注ぐほど、別の場所が手薄になる。戦いのむずかしさを感じます。
もう一つ心に残るのは、時山直八のことです。松陰に愛され、奇兵隊の参謀として幕末の戦いをくぐり抜けてきた若者が、越後の山の霧の中で命を落とした。古写真に残る時山の顔を見ていると、勝った側にも、こうして消えていった人が大勢いたことをあらためて思います。
長岡藩の河井継之助は「武装中立」という第三の道を探しました。その道が閉ざされた最初の戦場が、この榎峠と朝日山だったのだと思います。
現地を歩く ― 榎峠・朝日山の史跡
- 榎峠古戦場パーク(長岡市妙見町):旧国道17号ぞいに古戦場の記念碑が立つ
- 朝日山古戦場(小千谷市浦柄):山頂の展望台付近に、長岡藩が築いた塹壕や砲台の跡が残る
- 浦柄神社(小千谷市浦柄):朝日山で戦死した同盟軍兵士の墓碑21基がある
- 慈眼寺(小千谷市平成):河井継之助と岩村精一郎の小千谷談判が行われた寺
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- 桑名藩|会津藩|尾張藩|上田藩
参考にした資料
- Wikipedia「北越戦争」「時山直八」「立見尚文」
- ニッポン旅マガジン「朝日山古戦場」「榎峠古戦場」
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。肖像写真はパブリックドメイン(Wikimedia Commons)


