相馬中村藩の歩み
慶応四年(1868年)の戊辰戦争では南境の「磐城平藩」や北境の「仙台藩」とともに「奥羽越列藩同盟」に参加し、浜街道を北上してきた新政府軍に対して「仙台藩」や「米沢藩」と共に応戦(磐城の戦い)しました。しかし、中村藩は旧式の装備に小藩でもあり、既に「奥羽越列藩同盟」の敗色が濃厚であると判断し、早々に新政府軍に降伏しました。

同年七月には「奥羽越列藩同盟軍」へ参加している藩兵への糧食の供給を停止し、八月二日に開かれた重臣会議により同盟軍からの離脱と、新政府軍への降伏を決定しました。すぐさま仙台藩の重臣からの抗議を受けたがこの決定は覆されず、八月七日には薩摩藩兵や長州藩兵らと共に奥羽鎮撫総督「四条隆謌」が中村城に入り名実ともに降伏しました。
これ以後、中村藩は新政府軍の軍事拠点となり「中村城」は解体されました。明治四年に発令された「廃藩置県」により中村藩は消滅し「中村県」が成立しました。その後、中村県は平県と合併されて「磐前県」となり、さらに「福島県」に併呑されることになります。
八月二日の重臣会議まで
慶応四年四月十六日、藩は白石の会議に相馬靱負胤就ら三名を送って同盟に加わり、四月十四日に岡田監物の二百余名を二本松藩の城へ、二十九日に岡和田忠左衛門の約二百名を白河城へ、六月には泉田豊後や堀内大蔵の隊を磐城平藩の方面へ出しています。六月末から七月にかけて磐城平城の攻防に加わり、七月二十六日には広野駅で相馬将監胤眞が重傷を負ってその日のうちに亡くなりました。七月二十九日に同盟軍への糧食の供給を止め、八月二日の重臣会議で離脱と降伏を決め、四日に使者を出し、六日に中村城を開いています。七日には奥羽鎮撫総督の四条隆謌が城に入りました。
降りたあとは、先導役に回りました
降伏後の中村藩は五小隊と一砲隊に編成されて新政府軍に加わり、駒ヶ嶺の攻略では先導役を務めました。九月十日、仙台藩にとって最後の戦場となった旗巻峠の戦いにも一小隊を出しています。この戦争で相馬が失った人は、武士と農民を合わせて百十二名と伝えられます。城の様子は【現地取材】相馬中村城を歩くに書きました。
二宮尊徳は、相馬に来ていません
相馬中村藩といえば報徳仕法ですが、二宮尊徳その人はこの地を踏んでいません。弘化二年に始まって明治四年まで二十七年続いたこの立て直しを、現場で指導したのは中村藩士で尊徳の門人筆頭だった富田高慶でした。天保の飢饉の前後で領内の人口は九万人ほどから三万六千人ほどまで減り、米の収納は最高十七万五千俵余から二万四十俵にまで落ちて、借金は三十万両を超えていました。仕法は領内二百二十六村のうち百一村で行われ、五十五村で完了しています。
最後の藩主は、明治の大事件の当事者になりました
藩主の相馬誠胤は嘉永五年の生まれで、慶応元年四月に家督を継ぎました。ところが明治に入ってから精神の変調を理由に自宅で監禁され、旧藩士の錦織剛清がこれを不当として告発したことから、十年以上にわたる騒動になります。誠胤が明治二十五年に急死すると錦織は毒殺だと訴え、墓が掘り返されて解剖まで行われましたが、被告は全員免訴となり、錦織のほうが誣告罪で重禁固四年を受けました。この一件が世論を動かし、明治三十三年に精神病者監護法が作られています。
平将門の末裔を名のる家と相馬野馬追
相馬家は、平将門の流れをくむと伝える千葉氏の一族です。もとは下総国相馬郡(いまの千葉県・茨城県の利根川沿い)を本拠とし、鎌倉時代に奥州の行方郡に所領を得て、南北朝のころ一族が陸奥へ移りました。以来、戦国時代に伊達家と争いながらも、明治まで同じ地を治め続けた、全国でも数少ない大名家です。
この家に伝わるのが、いまも続く「相馬野馬追」です。将門が野に放った馬を敵に見立てて軍事訓練をしたことに始まると伝えられ、甲冑をつけた騎馬武者が駆ける行事は、江戸時代を通じて藩の行事として続けられました。廃藩後も地域の祭りとして受け継がれ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
関ヶ原のあとの改易と復活
関ヶ原の戦いのとき、相馬家は上杉方・徳川方のどちらにもはっきりとつかず、慶長七年(1602)にいったん領地を没収されました。しかし当主の利胤が江戸に出て訴え、同じ年のうちに旧領を取り戻しています。いったん改易された大名が旧領に戻るのはきわめて珍しいことでした。こうして守られた所領が、幕末の戊辰戦争で再び伊達(仙台藩)と向き合うことになります。
相馬中村藩をもっと詳しく
小高城から中村城へ
相馬家が長く本拠としたのは、行方郡の小高(いまの南相馬市小高区)でした。元亨3年(1323年)に相馬重胤が下総から行方郡へ移り、小高を居館としたのが奥州相馬家の始まりとされます。関ヶ原のあとの改易と復活を経て、慶長16年(1611年)、相馬利胤は宇多郡中村(いまの相馬市)に城を築いて小高から移りました。中村城は別名を馬陵城といい、以後、明治の初めに廃されるまで約260年にわたって相馬家歴代の居城となります。本拠を領内の北寄り、仙台藩との境に近い場所へ移したことになります。
表高6万石、内高13万石余
寛永6年(1629年)の検地で宇多・行方・標葉の3郡6万石余とされ、これが幕府に認められた表高になりました。ところが藩が独自に行った検地では、明暦2年(1656年)に10万2000石、元禄9年(1696年)には総内高13万6000石と、表高の2倍を超える数字が出ています。
家臣の住まい方にも特色がありました。城下に集められたのは家臣の一部で、知行28石以下の下級家臣880人は「在郷給人」として村に住み続けています。万治元年(1658年)には藩主の相馬忠胤が領内を7つの郷に分け、村々を治めるしくみを整えました。忠胤は、伝統の野馬追に武芸の要素を加えて、いまに続く形を定めた藩主でもあります。
宝暦・天明の飢饉と、北陸からの移民
表高を大きく上回る実力をもちながら、藩の財政は飢饉のたびに大きく揺らぎました。宝暦5年から6年(1755年〜1756年)の飢饉では収納米が4万6000石も減り、藩は家臣の知行の一部を借り上げています。さらに天明4年(1784年)の大飢饉では、餓死した者と土地を捨てて逃げた者が合わせて1万6000人に達し、年貢米は7万6000石減ったとされます。
人が減って荒れた村を立て直すために藩がとった策のひとつが、移民の受け入れでした。江戸時代には農民がよその国へ移り住むことは原則として禁じられていましたが、相馬藩は北陸地方からの移民を受け入れて村の再建を図っています。藩主の相馬益胤・充胤父子の代には、この移民政策と、二宮尊徳の教えにもとづく報徳仕法とが、財政回復の二本柱となりました。
藩校育英館と家格
藩校は育英館といい、藩士の子弟がここで学びました。江戸城では帝鑑間に詰める家格です。明治に入ると、相馬家は華族として子爵を授けられています。
6万石の動員兵力の目安
慶安2年(1649年)に出されたとされる軍役規定(案)では、1万石あたり235人を出すのが基準とされます。これを相馬中村藩の表高6万石に当てはめて十人単位に丸めると、動員兵力の目安はおよそ1410人です。内高の13万6000石で同じ計算をすると約3200人になります。ただし、この規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあるため、あくまで目安と考えてください。
戊辰戦争で相馬勢が仙台藩などとともに戦った磐城平の城跡は、【現地取材】いわきの三藩を歩くで紹介しています。
場所・アクセス・地図
【相馬中村藩地図】
相馬中村の現地を歩いた記録
相馬中村藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。



