朝比奈昌広とは何をした人物か—小栗と同い年、将軍家定のそばに仕え、長崎奉行・勘定奉行を務めた旗本

江戸城の廊下で将軍を見送る小姓・朝比奈昌広のイラスト

この記事で紹介する朝比奈昌広は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

朝比奈昌広は、幕末の旗本です。小栗忠順と同じ文政十年(1827年)の生まれで、若いころから将軍のそば近くに小姓として仕え、とくに十三代将軍・徳川家定には、跡継ぎの時代から亡くなるまで仕え続けました。その後は長崎奉行、外国奉行、勘定奉行、江戸の町奉行並と要職を歴任し、幕府の最後の時期を支えています。号は閑水。明治三十八年(1905年)まで生きました。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、芝大輔さんが演じます。

目次

朝比奈昌広とはどんな人か

  • 生まれ:文政十年(1827年)。小栗忠順と同い年。通称は八太郎・甲太郎、のちに閑水と号す
  • 小姓として:弘化三年(1846年)に小納戸、嘉永二年(1849年)に十二代将軍・家慶の小姓、嘉永六年(1853年)から跡継ぎの家定の小姓
  • 奉行として:元治元年(1864年)長崎奉行、慶応元年(1865年)外国奉行を兼ねる、慶応二年(1866年)勘定奉行、慶応三年(1867年)外国奉行・外国惣奉行並・江戸町奉行並
  • 幕府の最後:慶応四年(1868年)一月、勘定奉行に。まもなく役を退く
  • 最期:明治三十八年(1905年)八月二十一日、数え七十九歳で死去

小栗と同い年の旗本

朝比奈と小栗は、同じ文政十年に生まれた旗本どうしです。大河の発表では「将軍の小姓を務めた旗本。『万事につけて如才がない』」と紹介され、小栗の「青春をともにした友人たち」の一人に数えられています。

小姓は、将軍の身のまわりに仕える役です。家柄がよく、気配りのできる若者が選ばれました。朝比奈が「如才ない」—つまり、人あたりがよく、そつなく立ち回れる人物として描かれるのは、この経歴にもよるのでしょう。

将軍家定のそばで

嘉永六年(1853年)、ペリーが来た年に家慶が亡くなり、徳川家定が十三代将軍となります。朝比奈は、家定がまだ跡継ぎだったころからその小姓となり、将軍になってからも、安政五年(1858年)に亡くなるまで、そば近くに仕え続けました。

家定は体が弱く、人前に出ることが苦手だったため、長く「暗愚な将軍」と言われてきました。しかし朝比奈は、のちに家定について「暗愚だというなら、同じ時代の大名のなかにも、もっと劣る人はいくらでもいた」という意味のことを語っています。いちばん近くで家定を見ていた人の言葉として、家定の見直しの手がかりの一つになっています。

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長崎奉行、外国奉行、勘定奉行

家定の死後、朝比奈は小姓の役から離れ、文久三年(1863年)には歩兵頭として将軍・家茂の上洛に従いました。元治元年(1864年)には長崎奉行に任じられ、外国との窓口である長崎の港を預かります。慶応元年(1865年)からは外国奉行を兼ね、慶応二年(1866年)には勘定奉行に転じました。

外国奉行と勘定奉行は、小栗も務めた役です。幕府の外交と財政という、もっとも難しい二つの仕事を、同い年の二人が入れ替わり立ち替わり支えていたことになります。慶応三年(1867年)には、外国奉行、外国惣奉行並、さらに江戸の町奉行並も務めました。

幕府の終わりと、その後

慶応四年(1868年)一月十五日、鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に戻った徳川慶喜のもとで、朝比奈はふたたび勘定奉行に任じられます。奇しくもこの日は、小栗が勘定奉行を罷免された日でした。しかし朝比奈も、わずか十日あまりで役を退きます。

その後の朝比奈は、明治の世を長く生き、明治三十八年(1905年)、数え七十九歳で亡くなりました。小栗が斬られてから三十七年後のことです。幕府の内側を知る旗本として、家定の思い出などを語り残しました。

大河『逆賊の幕臣』の朝比奈昌広

演じるのは芝大輔さんです。栗本鋤雲(青木崇高さん)、駒井朝温(高橋光臣さん)、滝川具挙(宮野真守さん)、三野村利左衛門(荒川良々さん)とともに、第四弾の「青春をともにした友人たち」として発表されました。将軍の小姓として江戸城の奥を知る朝比奈は、家定(ふかわりょうさん)の場面にも登場しそうです。

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参考資料:Wikipedia日本語版「朝比奈昌広」「徳川家定」、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

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