この記事で紹介する駒井朝温は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
駒井朝温は、幕末の旗本で、目付・大目付・勘定奉行などを務めた人物です。小栗忠順より三歳上の幼なじみで、のちに自分の次男を小栗家の跡継ぎとして養子に出しました。小栗とともに慶応四年(1868年)に斬られた養子・小栗又一忠道は、この駒井の実の子です。桜田門外の変のあとには、事件の取り調べ(吟味)にもあたりました。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、高橋光臣さんが演じます。
▶ あわせて読みたい — 大河『逆賊の幕臣』関連
駒井朝温とはどんな人か
- 生まれ:文政六年(1823年)。旗本・駒井家の生まれで、上野国連取などに領地を持つ
- 小栗との縁:小栗忠順(1827年生まれ)より三歳上の幼なじみ
- 役職:目付、大目付、勘定奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並など、幕末の要職を何度も務める
- 桜田門外の変:万延元年(1860年)、事件の吟味(取り調べ)を担当
- 子:次男の忠道が小栗家の養子となる(小栗又一)
- 最期:明治二十九年(1896年)、数え七十四歳で死去
駒井家の先祖—武田の家老から徳川の旗本へ
駒井家は、もとは甲斐の武田家に仕えた家です。甲斐源氏の武田信政の三男・信盛が、巨摩郡駒井郷(いまの山梨県韮崎市)を領して「駒井」を名乗ったのが始まりとされ、戦国時代には武田家の譜代家老の家でした。
戦国の駒井家でもっとも名高いのが、武田信虎・信玄の二代に仕えた駒井高白斎(政武)です。信濃攻めの先陣、今川・北条とのあいだの調停、朝廷との交渉など、軍事と外交の両方で働きました。武田家の分国法「甲州法度次第」の起草にも関わったとされます。高白斎がつけた武田家の日誌をもとにした『高白斎記』は、信玄の時代を知るための大切な史料として、いまも読まれています。
高白斎の子の駒井昌直(右京進)の代、天正十年(1582年)に武田家は滅びます。その年、旧武田家臣たちは徳川家康に忠誠を誓う起請文(天正壬午起請文)を差し出しますが、昌直はそのとりまとめ役をつとめたと伝わります。昌直の子・駒井親直は徳川家の御書院番となって大坂の陣に従い、元和二年(1616年)に千八百石を与えられました。ここから、江戸の旗本としての駒井家が始まります。
江戸時代の駒井家の知行地は上野国の連取村(いまの群馬県伊勢崎市連取町)などにあり、連取には陣屋も置かれていました。家紋は花菱で、武田菱につながる紋です。幕末の当主・朝温は、この武田遺臣の家の当主として幕府の要職を歩んだことになります。
のちに朝温の次男・小栗忠道は、上野国の高崎で斬られました。駒井家が江戸時代を通じて二百五十年あまり知行してきたのと同じ上野国で、その家の子が命を落としたことになります。
小栗の三歳上の幼なじみ
大河の発表では、駒井は「三歳上の幼なじみ。次男を小栗家の後継ぎとし、桜田門外の変では吟味役を務める」と紹介されています。同じ江戸の旗本の子として、若いころから小栗と行き来があった人物です。
駒井が幕府の表舞台に立つのは、ペリー来航のあと、幕府が軍制の立て直しを急いだ時期でした。安政五年(1858年)五月、駒井は軍制の改革や外国との貿易の取り調べにあたる役に加えられ、目付として頭角を現していきます。
桜田門外の変の吟味
万延元年(1860年)三月三日、大老・井伊直弼が江戸城の桜田門外で水戸の浪士らに討たれます。駒井は翌日、この事件の吟味(取り調べ)にあたる役を命じられました。
ちょうどそのころ、小栗は遣米使節の一員として太平洋の上にいました。小栗を遣米使節に抜擢した井伊が討たれたことを、小栗が知るのはアメリカに着いてからのことです。幼なじみの二人は、片やアメリカで、片や江戸で、同じ事件を受け止めたことになります。井伊を討った浪士たちについては水戸・常磐共有墓地の現地取材もご覧ください。
▶ 「大河の登場人物を知る」の記事
- 徳川家慶とは何をした人物か—「そうせい様」と呼ばれた十二代、天保の改革と阿部正弘の抜擢、黒船十九日後の死
- 徳川家定とは何をした人物か—黒船の直後に将軍となった「お飾り」の十三代、ほんとうに暗愚だったのか
- 徳川家茂とは何をした人物か—十三歳で将軍、和宮と結ばれ、二十一歳で大坂城に没した十四代
- 阿部正弘とは何をした人物か—二十七歳で老中首座、黒船に「みんなの意見」を聞いた宰相
- 鳥居耀蔵とは何をした人物か—天保の改革の「妖怪」、蘭学者を陥れ、二十三年の幽閉を生き延びた南町奉行
- 徳川斉昭とは何をした人物か—攘夷の旗頭「烈公」、慶喜を将軍にしようと井伊直弼と争った水戸藩主
- 井伊直弼とは何をした人物か—埋木舎の部屋住みから大老へ、小栗忠順を世に出し桜田門外に散った人
- 安積艮斎とは何をした人物か—小栗家の屋敷で塾を開き、二千人を育てた儒学者
- 滝川具挙とは何をした人物か—小栗家の隣人、鳥羽街道で「通せ」と押し問答した大目付
- 朝比奈昌広とは何をした人物か—小栗と同い年、将軍家定のそばに仕え、長崎奉行・勘定奉行を務めた旗本
- 佐藤藤七とは何をした人物か—世界一周した上州権田村の名主、五十四歳の遣米使節従者
- 荒川祐蔵とは何をした人物か—遣米使節の従者から、小栗とともに斬られた家臣へ
- 武笠祐左衛門とは何をした人物か—小栗家の用人、主の首を大宮へ運んだと伝わる小姓・銀之助の父
- 勝民子(たみ)とは何をした人物か—貧乏旗本の勝海舟を支え、「勝のそばには埋めないで」と遺した妻
- 栗本鋤雲とは—箱館の医者からフランス通の幕臣へ、小栗忠順を書き残した人
- 大河『逆賊の幕臣』朝廷側のキャストが発表されました—孝明天皇・明治天皇・岩倉具視・鷹司政通とは何をした人か
大目付から勘定奉行、陸軍へ
駒井は万延元年(1860年)十二月に大目付となり、その後は小姓組番頭、歩兵頭、勘定奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並など、役職を何度も入れ替わりながら務めました。勘定奉行は、小栗も四度にわたって就いた役です。幕府の財政と、新しくつくられた洋式の歩兵(陸軍)—二人は同じ分野で、幕府の立て直しを支えていたことになります。
次男を小栗家の養子に
小栗と妻の道子のあいだには、長く子どもが生まれませんでした。そこで小栗は、幼なじみの駒井の次男・忠道を養子に迎えます。これが小栗又一忠道です。忠道は横浜のフランス語伝習所でフランス式の兵学を学び、小栗家の跡継ぎとして期待されました。
ところが慶応四年(1868年)閏四月、小栗が上州権田村で新政府軍に捕らえられて斬られると、忠道も高崎で処刑されてしまいます(小栗と同じ日とする説と、翌日の閏四月七日とする説があります)。数え二十一歳でした。駒井は、親友と、自分の実の息子を、続けざまに失ったことになります。
小栗家の家族については小栗忠順の家族—妻は林田藩主の娘、養子は駒井家の次男でしたに、残された妻子のその後は小栗忠順の遺児はどう生きたかに詳しく書いています。
明治を生きて
慶応四年三月、幕府が終わるとともに駒井は役を退きました。その後、明治二十九年(1896年)まで生き、数え七十四歳で亡くなっています。小栗と息子が斬られてから、二十八年後のことでした。
大河『逆賊の幕臣』の駒井朝温
演じるのは高橋光臣さんです。栗本鋤雲(青木崇高さん)、滝川具挙(宮野真守さん)、朝比奈昌広(芝大輔さん)、三野村利左衛門(荒川良々さん)とともに、第四弾の「青春をともにした友人たち」として発表されました。息子の忠道(小栗又一)は、第六弾で齋藤潤さんが演じることが発表されています。親友であり、義理の親戚でもある二人の関係は、物語の終わりにいちばんつらい形で結ばれることになります。
▶ 小栗忠順のゆかりの地を歩く(現地取材)
- 【現地取材】小栗上野介ゆかりの地―横須賀と駿河台を歩く
- 【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓 ― 首を取り返した村、雨の権田を歩く
- 【現地取材】小栗上野介をしのぶ四つの場所—権田の本墓、大宮の首塚、雑司ヶ谷の累代墓、横須賀の胸像
- ヴェルニー公園で無料で入れる二つの施設—ヴェルニー記念館とティボディエ邸
- 【現地取材】増上寺を歩く—十四代将軍家茂と和宮が並んで眠る、徳川将軍家の菩提寺
- 【現地取材】勝海舟記念館と洗足池—「富士を見ながら土に入りたい」と願った海舟の別邸跡
- 【現地取材】飯田城を歩く—安政六年の石碑に、小栗忠順の師が文を寄せていた
- 【現地取材】幕府の最高学府・昌平坂学問所を歩く—湯島聖堂と孔子像
- 【現地取材】彦根城を歩く—井伊直弼の十五年と、赤備えが官軍になった日
- 【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩く—桜田門外の実行隊長と、討たれた井伊直弼の霊塚
- 【現地取材】佐倉城と堀田正睦を歩く—「老中の城」に立つ、開国に敗れた宰相と義民の里
あわせて読みたい
- 小栗忠道とは何をした人物か—駒井家から小栗家の跡取りへ、仏語伝習所に学び高崎で斬られた養子
- 佐藤藤七とは何をした人物か—世界一周した上州権田村の名主、五十四歳の遣米使節従者
- 荒川祐蔵とは何をした人物か—遣米使節の従者から、小栗とともに斬られた家臣へ
- 建部政醇とは何をした人物か—小栗忠順の義父、国学を学んだ林田藩主
- 勝民子(たみ)とは何をした人物か—貧乏旗本の勝海舟を支え、「勝のそばには埋めないで」と遺した妻
- 井伊直弼とは何をした人物か—埋木舎の部屋住みから大老へ、小栗忠順を世に出し桜田門外に散った人
- 小栗忠順の家族—妻は林田藩主の娘、養子は駒井家の次男でした
- 小栗忠順はなぜ斬られたのか—幕末最後の勘定奉行、取り調べなき処刑と村人が取り返した首
- 小栗忠順の遺児はどう生きたか—会津へ逃げた身重の妻と、三野村・大隈が支えた家
- 滝川具挙とは何をした人物か—小栗家の隣人、鳥羽街道で「通せ」と押し問答した大目付
- 朝比奈昌広とは何をした人物か—小栗と同い年、将軍家定のそばに仕えた旗本
- 万延元年遣米使節とは—幕末の七十七人、小判を溶かした造幣局と、持ち帰ったネジ
参考資料:Wikipedia日本語版「駒井氏」「駒井高白斎」、群馬県立文書館「森村敏夫家文書」(連取の駒井氏陣屋)、Wikipedia日本語版「駒井朝温」「小栗忠道」、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

