一瀬寛次【新選組隊士 平隊士 幕末】

一瀬寛次
職名 平隊士
出身 不明
終焉場所 不明
終焉方法 不明

「土方歳三函館へ脱走の際募集せし同士なり」と永倉新八の記録に残るのみの隊士です。

JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

一瀬寛次をもっと深く—永倉新八が書き留めた一行

この隊士について伝わるのは、永倉新八が残した一行だけです。

土方歳三函館へ脱走の際募集せし同士なり

出身も、生没年も、最期も分かりません。この一行がすべてです。

それでも、時期は絞れます

「土方歳三が函館へ脱走する際に募集した」というのですから、明治元年十月の蝦夷渡航の前後ということになります。

このとき何が起きていたかは分かっています。近藤勇はすでに板橋で処刑され、鳥羽伏見も上野も会津も終わっていました。それでも人を集めていたのです。

仙台では唐津・桑名・備中松山の藩士が加わりました。松平定敬の随行人数に制限がかかり、船に乗れなかった藩士たちです。青山次郎は会津藩士ら二十人を連れて入隊しています。青木連も蝦夷へ渡ってからの入隊でした。

一瀬寛次も、その流れの中にいた一人です。

永倉新八という記録者

ここで書いておきたいのは、この一行を残した人のことです。

永倉新八は二番隊組長として池田屋で愛刀が刃こぼれするまで戦い、明治九年には板橋に近藤勇の供養塔を建てました。その碑の側面には、百十名の隊士の名が刻まれています。芹沢鴨や伊東甲子太郎—自分が斬り合った相手まで入っています。

そして晩年には、だんだら羽織の由来を新聞記者に語り残しました。

永倉が書き留めなければ、一瀬寛次という名前は残っていません。当サイトの隊士ページに「永倉新八の記録にのみ」と書かれた人が何人かいます(石井伊之助もそうです)。彼らの存在は、一人の記録者に支えられています。

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会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)

板橋の碑に、名が刻まれています

この隊士の名は、東京都板橋区の新選組供養塔に「一瀬寛治」として刻まれています。当サイトの表記は「寛次」ですが、名簿の類では「寛治」のほうが多く見られますので、どちらが本来の字なのかは決めかねるところです。碑に名があるのは建立された明治九年までに亡くなった隊士とされますので、刻まれているということは、この人がそれまでに死んでいたことを意味します。

ところが、その位置に食い違いがあります

供養塔の刻名は右側に三十九名、左側に七十一名が並んでいて、一瀬寛治の名は右側にあります。この右側が会津戦争までの戦死者の位置だと読む資料があり、そうだとすると永倉新八の「土方歳三函館へ脱走の際募集せし同士なり」という註記と合いません。箱館行きに際して募られたのなら、会津戦争はもう終わっているからです。この食い違いを指摘したうえで、「五兵衛新田から会津戦争前までの入隊だろうか」と推し量る見方もありますが、これは推測であって確かめられていません。

仙台での募集がどういうものだったか

永倉の註記どおりに箱館行きの際の入隊だとすれば、場所は仙台ということになります。天海勝之進のページに書いたように、九月十七日に桑名藩の十七人、十九日に松山藩と唐津藩の藩士が新選組へ入りました。榎本武揚が艦に乗せる人数を絞っていたため、主君に随行したい他藩の家臣が新選組の名義を借りた形です。天野十郎もこのときの一人とされます。そうした慌ただしい編入のなかで名だけが書き留められ、どこで死んだかは分からないまま碑に刻まれた—そういう人だったのかもしれません。

一瀬寛次の生きた時代—板橋で散った局長

近藤勇の最期 慶応四年(1868)四月二十五日、新選組の局長・近藤勇は、中山道の板橋宿の刑場で処刑されました。三十五歳でした。武士として切腹することは許されず、斬首という扱いでした。首は京都に送られて三条河原にさらされたと伝えられます。

板橋の墓 いま JR板橋駅の近くには、近藤勇と土方歳三の墓(供養塔)が建っています。明治になって、生き残った隊士の永倉新八らが建てたものです(泉岳寺と板橋の現地取材)。一瀬寛次のように記録の少ない隊士たちもまた、局長の最期の知らせをどこかで聞いたことでしょう。

板橋の供養塔と、新選組の幹部たちの最期

永倉新八が建てた碑

板橋の新選組の供養塔は、明治九年に、元二番組長の永倉新八らが中心となって建てたものです。近藤勇が斬られた板橋の刑場の近くに建てられ、表には近藤と土方歳三の名が刻まれています。側面には、戊辰戦争などで亡くなった隊士たちの名が並びます。一瀬寛次(寛治)の名も、その中にあります。

京都以来の幹部の行方

供養塔が建てられた明治九年には、京都で新選組を率いた幹部の多くがこの世を去っていました。主な幹部のその後は次のとおりです。

  • 近藤勇(局長):慶応四年四月、流山で投降し、板橋で斬首
  • 沖田総司(一番組長):慶応四年五月、江戸で病死
  • 井上源三郎(六番組長):慶応四年一月、淀千両松で戦死
  • 永倉新八・原田左之助:慶応四年三月、甲州から戻ったのち隊を離れ、靖兵隊を結成。原田は上野戦争で負った傷がもとで死去
  • 斎藤一:会津に残って戦う
  • 土方歳三(副長):箱館へ渡り、箱館政権の陸軍奉行並となる。明治二年五月十一日に戦死

永倉は明治以降も生き、新選組の記録を後世に伝えました。斎藤一も明治を生き、警視庁に勤めています。

参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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