天野十郎【新選組隊士 平隊士 幕末】

天野十郎
職名 平隊士
出身 不明
終焉場所 不明
終焉方法 不明

詳細は不明です。

名前と役職しか残らない隊士たち

天野十郎について分かるのは、名前と役職だけです。新選組に名を連ねた者は延べで四百人を超えるとされますが、そのうち生没年や出身までたどれる者はごく一部にすぎません。有名なのは局長・副長と組長、それに池田屋や油小路といった事件に関わった者たちで、平隊士として入り、名簿に一行だけ残して消えた人のほうが、数の上ではずっと多いのです。

なぜ記録が残らなかったのか

新選組は幕府の正規の軍ではなく、はじめは浪士の寄り合いでした。慶応三年六月に隊士が幕臣に取り立てられるまで、隊の人事を公に届け出る仕組みがありません。そのうえ京都、大坂、江戸、会津、仙台と移りながら戦い続け、最後は箱館で解かれます。名簿が一つにまとまって残らなかったのは、この経緯のためです。隊士の名簿として使われる資料も複数あって、載る名前も数も一致しません。

それでも一人ずつ立てておく意味

当サイトが隊士を一人一ページで並べているのは、名前しか残らない人にもその一行ぶんの場所を用意しておくためです。あとから何か分かったときに書き足せる場所があることが、こうした人物には大事になります。天野十郎についても、新しい資料が出てくれば書き加えます。

会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)
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「天野十郎」は変名かもしれません

名前と役職しか伝わらないと上に書きましたが、じつは「天野十郎」を戊辰戦争のときの変名とし、本名を高仲重次郎とする資料があります。典拠の史料名までは示されていませんので断定はできないものの、そちらの記述はずいぶん具体的で、肥前唐津藩の家臣、天保十二年に江戸で生まれ、藩の末の俸禄は現米三十六俵—というところまで書かれています。唐津藩といえば、幕府の老中でありながら将軍に従わず江戸を脱した小笠原長行の藩で、この人はその長行に随行して江戸を出たとされます。

仙台で隊に入るということ

慶応四年八月の母成峠の戦いに敗れたあと、土方歳三は仙台へ移って榎本武揚の艦隊と合流しました。このとき仙台では、主君に随行したい他藩の家臣が新選組へ入隊するという形が取られています。九月十七日に桑名藩の十七人、十九日に松山藩と唐津藩の藩士が入りました。榎本が艦に乗せる人数を絞っていたため、新選組の隊士という名義を借りて船に乗ったわけです。天野十郎は白石から仙台へ入って九月中旬に加わったとされますので、この唐津藩の一団にいたとみるのが自然です。このころ仙台では、逆に隊を離れる者も出ていて、天海勝之進はここで新選組と別れました。

箱館まで行き、大正まで生きました

十月に蝦夷地へ渡り、十月二十四日の七重村の戦いで首に傷を負っています。明治二年の編成では箱館の新選組で会計方をつとめ、五月十五日に弁天台場跡で降伏しました。弘前の薬王院に預けられ、東京へ送られたのち旧藩に引き渡されて、明治三年正月に放免されています。その後は大正十一年七月まで生きて八十二歳で亡くなり、墓は唐津の法蓮寺にあると記す資料があります。弁天台場で降伏した隊士には阿部隼太もいますが、そちらはその後の消息が分かりません。同じ台場で同じ日に降伏しても、名の残る者と残らない者に分かれます。

天野十郎の生きた時代—隊士が幕臣になった年

幕臣への取り立て 天野十郎が新選組にいた慶応三年(1867)六月、新選組の隊士たちは幕府の家臣に取り立てられました。局長の近藤勇は見廻組与頭格、副長の土方歳三は見廻組肝煎格となり、平隊士にいたるまで幕臣の身分を得ます。浪士の集まりから始まった新選組が、正式に幕府の組織になったのです。

その陰で ところが、この取り立てに反対して隊を離れようとした隊士たちもいました。佐野七五三之助ら四人は、御陵衛士に加わろうとして会津藩邸に訴え出ましたが、そこで自ら命を絶ちます。新選組が幕府の一員となった年は、隊の内部の亀裂が深まった年でもありました(新選組の年表)。

慶応三年の新選組と、その幹部たち

幕臣になった隊

慶応三年六月、新選組の隊士たちは幕府の家臣に取り立てられました。近藤勇は見廻組与頭格の待遇を受け、隊は浪士の集まりから、幕府に仕える組織へと変わります。同じ六月、屯所は西本願寺から不動堂村の新しい屋敷へ移りました。三月には、参謀の伊東甲子太郎らが隊を離れて御陵衛士を結成しています。このころの主な幹部は次のとおりです。

  • 局長:近藤勇
  • 副長:土方歳三
  • 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 ほか
  • 斎藤一は三月に伊東甲子太郎らとともに隊を離れ、十一月に戻ったとされる
  • 参謀だった伊東甲子太郎、九番組長の鈴木三樹三郎、八番組長の藤堂平助らは、三月に御陵衛士として分離

名を変える隊士たち

新選組の隊士には、本名とは別の名を名乗った者が少なくありませんでした。脱藩してきた者は、家や故郷に累が及ばないように名を変えることがありました。名簿によって同じ人物の名が違って記されるのは、そうした事情も一因です。「天野十郎」が変名である可能性も、こうした背景から考えられます。

参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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